歴史上、女性の人権が認められたのは、ここ最近のことである。いや、それだっていまだに、完全なものとは言えないだろう。仮に、法的にそれが認められようとも、いまだ、社会的政治的に、女性が軽視されていることは否めない事実である。
女性は、人間にあらず。男性の所有物であるとするのが、歴史が伝える真実だ。
「本当、反吐が出る」
司書長は言った。学者の暴走を察知して、どうせもう抑え込めないなら……と、せめてもの悪あがきを込めた、言葉である。
なまじ人権が認められたからこそ、憤慨するのだ。なにも知らない、馬鹿のままでいられたなら、唯々諾々と、従っただろう。しかし、男女は平等だ。そんな思想が生まれ始めたから、女性も憤る。
認めるなら、ちゃんと認めろ。
そもそも『認める』ってなんだ? 私たちは――。
「私たちは、人間だぞ!」
生まれ落ちたときから、誰も彼も、男も女も関係ない。
人間は、人間だ。
「人間が人間を、支配するなっ!」
『虚飾』を外して、司書長は、叫ぶ。
*
「な、なんだ。いきなり声を荒げて、怖いなあ」
学者は、たじろいで、そう言った。
「シンねえさんは、そんな人間を信じて、逝ってしまった! バカはバカのまま、誰も疑わず、むしろ信じたまま、逝っちゃったんだ! 誰より人間の――その罪過に触れたあの人が、誰より人間を信じて、その生涯を閉じた。いまこの場にシンねえさんがいたら、きっとあなたのことも、一片の疑いもなく、その身を委ねただろうね」
きっ、と、視線を向ける。言葉尻はすぼんで、小さくなっていったのに、視線だけは、鋭く、強く。
「そんな人間を、私も信じた。……だけど理屈は、理性は、人間の愚かさを理解してしまう。……解る? ……解らないでしょう? ただ頭がいいだけのあなたには、解りっこない。シンねえさんは、バカだけどバカじゃない。私と同じか、それ以上に、人間の愚かさなんて理解してた。そんな人が、心の底から人間を信頼してた。その、異常な偉業を、あなたなんかに説く気はない」
「ごちゃごちゃと、なんだ、急に、うるさいな、このメスが。もういい。おまえなんか、ただの傀儡にして――」
「やってみなよ。そんなことで、あなたの『虚飾』が保てるならね」
司書長は、強いまなざしを向けて、学者を見据えた。自分は、あの、尊敬する女性のようにはなれない。そう知っても、その思想は、いつまでも正しい。そう、信じて。
「『マート・バートラル』。『kq』。この僕に傅いたふたつの『異本』は、女を支配し、この、素晴らしい遺伝子を残すために与えられた、神様からの、賜物だ」
言い放ち、学者は、銃口のように、その『異本』を、司書長に、向けた――。
――――――――
「あいっ、あいっ、あい~~」
女の子が率先して、楽しそうに歩いている。その後ろを、辟易としながら、男の子が歩く。並んで、幼女も。
「いつになく乗り気だけど、シロちゃんどしたの?」
幼女が問う。「解らねえ。ガキの思考なんか読めるか」。一歳しか変わらないのに、やけに大人びた態度で、男の子は答えた。
そもそもそれを差し引いても男の子は機嫌が悪かった。おかしい。少し以前からおかしいのだ。自身の体――とりわけ頭の中が、どうにもおかしい。そう、理不尽に鬱憤を募らせていたから。
それを気遣い、男の子は、頭を押さえる。
そうこうしながらも、女の子は先走って、後続と距離を隔てた。「おい、危ないぞ!」。男の子の叫びに、「あ~いっ!」と、女の子は急停止する。間一髪に、眼前を車が通りすぎた。そんな危機一髪にも、女の子は素知らぬ顔だ。
「手、繋いであげなよ、クロくん」
幼女が言う。
「ラグナさんが繋いであげればいいだろ」
男の子が答えた。
「シロちゃん、めっちゃ引っ張ってくるんだもん」
「それをあんたが制御すんの」
「無理。あの子、力強いし」
結局、どちらも女の子の手を取らなかった。
そのまま、道程は進む。
「で、どこに向かってんの、シロちゃん」
「は? ラグナさんが知ってんじゃないの?」
「え? クロくんが知ってるんじゃないの?」
「…………」
「…………」
「あーい。あい。あい!」
困惑するふたりを振り返り、女の子が声を上げた。その表情に、彼らは絶句する。
まるで、少女のようだ。少女、ノラ・ヴィートエントゥーセンのような、すべてを見通し、すべてを掌握するような――力と、賢しさを備えた、美しい、人間の極致のような、姿。
――とはいえ、それも、一瞬。
「あい~?」
女の子は、女の子のままに、首をかしげる。それを見て、幼女と男の子は、肩を落とした。
一瞬の光景を、幻覚だと、切り捨てて。
そのままに、目的地に到着する。
WBO最重要施設。『世界樹』へ。
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「もおうっ! 早く、早くっ! じらさないでちょうだいっ! 欲しいのぉ! あなたが……メイリオ・フレースベルグぅ!」
嘆息、した。
全年齢対象作品にあるまじき欲望が、やけに力強く求められても、学者は、ただ苛立っていた。
こうじゃない。やはりこれは、僕の求めたものじゃない。言葉にならない感情でだけ、そう思う。
とすれば、こうなる以前の司書長の言葉は、それそのもので、完結していた。それを聞く前であれば、まだ学者も、この状況を楽しめただろう。直前まで生意気なことを言っていた年上の女性を、意のままに操っているという征服感。しかし、あれだけのことを言われた後では、むしろ負けたという気持ちにしか、なれなかった。
「だから、この方法はとりたくなかったんだ」
一度は拘束のために使わせてもらったが、その後に『異本』の力を解除した理由。それを、学者は思う。
世の女子にはみな、自発的に、自分を求めてほしかった。それが、こじらせた彼の、心底からの願いであり、あるいは、それが当然という思いすら、彼にはあったのだった。
「『パーシヴァル』、さん……いいえ、メイリオ。あなたは、最低です!」
淑女は言った。変わり果てた司書長を見て。それでも気丈に、軽蔑の目で学者を見つめて。
「僕も僕を、最低だと思ってるよ。それでも、この、天才たる遺伝子を残すために、もはや手段を選んではいられない。……気は乗らないが、このままやるか。……次は君の番だけど、できれば自発的に、動いてくれることを願う」
その言葉と、冷たい目に、淑女は背筋を震わせる。それでも、怒りや蔑みが、ここでは勝った。涙が浮かんできたが、そんなものなど気にもかけず、背を向けた学者を、睨み続ける――。
「間に合いましたね。ぎりぎりですけど」
その背を、振り向かせる声がひとつ。
きっと誰も知らないだろう、凛とした様相で、響いた。
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