男に限ったことではないが、このころになって、多くの参加者は一時、休息を取り始めた。ほとんどの参加者が地表――もとの世界において、『試練』を突破してやってきている。そのまま広大な地下世界を探索し尽くすには体力が足りないのだ。
「いいか。あんまりこっち寄ってくんなよ」
「えぇ~~……」
泡の地面に腰を降ろし、男は、ギャルへ釘を刺す。当然、布団も毛布もなく、野ざらしに寝転ぶだけだ。だが、行為としては『ともに寝る』と、言えなくもない。全年齢対象作品にあるまじきことが起きては問題だ。
そもそも、現実的に考えて、そんなことに体力を使ってしまっては本末転倒なのである。
「ねぇ、ハクぅ。一緒に寝る方があったかいよぉ?」
拒絶に突き飛ばされない程度に、少しずつ、ギャルはにじり寄る。寝転ぶ男の耳元で囁くように。言葉は紡ぎはするが、可能な限りにひそめて。まるで静寂こそを楽しむように。端的に言えば雰囲気を意識して。
「ここは過ごしやすい気候だから、あったまる必要はねえよ。どちらかというとむしろ暑いし」
だから寄ってくんな。ぴしゃりと男は言い放つ。仰向けに寝転び、ボルサリーノで顔を覆っているにもかかわらず、ギャルの行動などお見通しだと言わんばかりである。
「もうっ! 相変わらずいけずぅなんだからっ!」
ギャルは唾を飛ばしながら言い捨てて、男から距離を取った。そして、反対方向を向き、寝転ぶ。
そんな一連の行動を正確に脳内再生してから、男は一度、ボルサリーノをどけ、様子をうかがった。飛ばされた唾を拭い、もう一度、ボルサリーノで顔を覆う。
*
目を閉じて、自分自身に向き合うと、いつも不安になる。まだまだ果てしない『異本』集めの旅だ。危険もある。急がなければ、失われてしまう『異本』もあるだろう。そもそも、蒐集した『異本』は、まだ全体の一割にも遠く及ばない。このままでやり遂げられるだろうか?
そして本当に、このまま『異本』を集め続けていくことが、正しいのか?
改めて若者にも会った。そこで聞かされた事実。『異本』集めは、『先生』の遺志ではなかった。だが、それでも、生きる目的は必要だ。もう一つ、若者が言っていたこと。『先生』は、まだ生きているかもしれない。だとしたら、『異本』を集める先に、きっといつか、また再会できる。
とはいえ、その程度の目的意識で、過酷な蒐集を続けられるだろうか? 今回のように、そのもの『異世界』にまで旅立つことも、今後まだまだあるだろう。危険くらいならいい。命くらい、いつでも賭けてみせる。無意味に投げ捨てるつもりはないが、それでも、『先生』にもう一度会うためなら、ギリギリまですり減らして、どれだけの危険にも立ち向かっていく。それくらいの気持ちはある。
だが、この先、自分と同じくらいの気持ちを持つ者たちと対峙したら? 自分はそれを踏みにじってまで、自分の意志を押し通すことができるだろうか? それだけの強い覚悟が、いまの自分にあるだろうか?
男は考える。
考えて、不安になる。
そろそろ、ちゃんと決意する必要がある。『異本』蒐集を、続けるか否か。続けるなら、この先のどんな展開にも揺らがない、理由を持たなければ。
こんな曖昧な気持ちで、『家族』を巻き込み続けるわけにはいかない。
そう解っていても、いまだ答えは出ないまま。やがて、暗い暗いまどろみの中で、不安に沈むように、男は、眠りについた。
*
ところで、この泡の世界、眠るにはいい環境だ。泡の上はふかふかのベッドのように優しく体を受け止め、ほどよい弾力で、心地よい浮遊感すら抱かせる。快晴の空の下、静かな湖に筏を浮かべ、その上で寝転ぶような。俗世のしがらみを忘れ、ほんのひととき、大自然に身を任せる多幸感。もとの世界ではなかなか味わえない、限りなく心地よい眠りをもたらしてくれる。
その眠りの心地よさには、地面の泡だけでなく、世界全体の静けさも含まれるだろう。もとより人間などほぼいない。隣家の賑わい、虫の鳴き声、車の滑走音。そういうわずかな生活騒音すら微塵もなく、自らの鼓動だけが耳に響く。ウタカタと呼ばれる生物たちも、ただ世界を揺蕩うのみで、這う音すら、よく近づいてみないと解らない。
そして、泡の地面を歩いても、走っても、ほどよい弾力で受け止め、押し返してくれるだけで、足音など響かない。
「あ、あ、あ、ああぁぁ、――ああうあ!」
だから、その声は、遠くからでも顕著に聞こえた。視界を遮る建造物もない。まるで砂漠のただ中のように開けている。だから、遠くの小さな声にも機敏に反応し、周囲をうかがってみると、すぐにその影は見つかった。
「おい、アリス。起きろ」
どうやら遮二無二走ってくる。まだこちらには気付いていないようだが、警戒はした方がいいだろう。この世界にいるというだけで、尋常ではないのは確かだから。
そう思い、男はギャルのもとへすり寄った。
「きゃっ☆ ハクの方から夜這い!? なんていうか……きゃっ☆」
寝惚けているのか、わけの解らないことを口走っては、上体を屈めたままの男へギャルは抱き着いた。首に手を回し、またも唇を狙ってくるので、男は反射的に頭を前方へ下げる。互いのおでこがぶつかった。強かに。
「ってえ!!」
「いったぁ~いっ!!」
さすがに痛みから、ギャルは手を離し、泡の地面に改めて転がった。
男も一瞬、現状を忘れ、痛みに悶える。だが、すぐに思い起こした。
「とにかく、敵だ。アリス。騒ぐな」
努めて声を静め、男はそれでも、勢いよく言い聞かせた。それを聞き、ギャルは「ういぃ~?」とよく解らない擬音で、目に涙をため、男を見つめ返す。それでもコクコク頷くので、言葉は了解したということだろう。
近くの泡に身を隠し、様子をうかがった。
*
その男性は、走ってきた。すでに汗だくだ。余力など、もはや絞りきっている。だから必然と、ちょうどよく邪魔な位置で、彼は立ち止まった。
「なんだよ。走り去れよ、邪魔くせえ」
ぼそりと男は呟く。ところでいかほど眠れただろうか? 腕時計を確認。……眠りにつく前の時間は忘れたが、たぶん、三時間は眠れただろう。
「敵とかぁ、どうせゼノじゃないのぉ?」
手で隠しもせず、盛大にあくびを漏らして、ギャルは言った。まだ眠そうである。
「誰だよ、ゼノって」
「えぇ、ハクとは面識あるはずだけどぉ? ほら、中国で」
「ああ……」
思い出す。苦い思い出だ。あのときの戦闘がもとで、一か月も入院生活を送ったのだから、さもありなんといったところだろう。
「あいつらも来てんのか?」
「あいつらっていうか、ゼノだけね。えっとぉ、お坊ちゃんみたいなおかっぱの金髪。性格悪い方」
「ああ、カエルのやつか」
「そうそう、カエルみたいに狡猾な方☆」
やたら楽しそうに、ギャルは言った。カエルが狡猾だという比喩はおそらく一般的ではないが、なぜだか男にもその表現はしっくりきた。認めたくはないが、なぜだかギャルとは気が合うのだ、と、男は再確認する。
だがともあれ、走ってきた男性はその、ゼノとかいうやつではなかった。外見は学者……としか言いようがない。基本的にはノーネクタイのスーツ姿だが、頭部には印象的な四角い帽子。いわゆるアカデミックドレスの角帽のようなものをかぶっていた。……うん、どう見ても学者だ。もしくは大学生か。
「ん? ってことは、おまえら、『鍵本』を二冊も所有してたのか?」
そんな学者は泡の地面に座り込み、動く気配がない。ゆえに、男はギャルの言葉に違和感を見つける余裕があった。
『鍵本』一冊につき、地下世界に降りられるのは一人だけ。ならば、『本の虫』は当然、『鍵本』を二冊所有してたことになる。それが意外だった。
いやしかし、それくらいならあり得ることとも言える。自分だって個人で二冊持っていたのだから。たいして規模が大きいとは言えないが、一組織ならそれくらい持っていても不思議ではない。
「いんや、一冊だけだよん。ゼノとあたしは、二人で一緒に来たのぉ」
しかし、ギャルは予想される答えとは別の言葉を返した。そしてそれは、男にとって驚愕すべき事実だった。
「待て、『鍵本』一冊で地下世界に来られるのは、一人のはずだろう? どうやって二人一緒に?」
「本当はねぇ、『試練』を先にクリアした方が地下に降りるって約束だったんだけどぉ。たまたま『試練』が協力戦でね。二人一緒にクリアしちゃったもんだから、仕方ないかぁって」
「いや、事情を聞いてんじゃねえよ。二人でクリアしようが、降りられるのは一人だけのはずだ。それを二人で通過した、手段を聞いてんだよ」
「ハクはぁ、あたしの持つ『異本』を知ってるでしょぉ? そういうことだよ」
いたずらっぽく笑って、ギャルははぐらかした。いや、ただ説明するのが面倒だっただけだろう。
しかし、その『異本』を知っている、男にも解らない。その手段は。ただ、そういう荒唐無稽を幅広く実行できるだけのものだということは知っていた。ギャルの扱う『異本』は、ある意味一つの極致だ。扱い方次第ではどんな奇跡だって起こすことができるのだろう。
だから、それ以上追及しない。手段を聞いてもいまさら詮無きことだ。少なくとも、『異本』を用いてシステムの隙をついたなら、男に真似できることでもないのだから。
「ともあれ、あいつもいるのか……厄介だな」
「ゼノはぁ、ハクと決着をつけたいみたいだったしねぇ☆」
ギャルの言葉に、男は嘆息する。
ひっそりと始めた、『異本』蒐集の旅。それがいまや、多くの『家族』を巻き込み、敵をも生み出し始めていた。
この先、いったいどうなるのだろう? 眠る前に考えていたことを、また、考える。やはり答えなど、出ないのだけれど。
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