2018年、九月。イギリス、エディンバラ。
EBNA本部、地下施設の一室。
「暗殺、ですか」
面倒そうに目を細めた、頬にそばかすを蓄えたメイドが言った。感情の動きは見て取れない。その、物騒な言葉に対しても。
「そうだ」
対する醜男もまた、苛立った様子で応えた。肥え太った体を半裸で見せびらかし、なんとも言い難い異臭を放っている。いや、その臭いはすでに、その部屋と同化していた。ともすれば、彼はその部屋の一部とも言えるかもしれない。正確には、その部屋が彼の一部だと言うべきか。
薄暗い部屋に、数々のモニターが光源として輝いている。その画面ひとつひとつに映っているのは、『神』にも等しい存在から得られる莫大な、世界のデータだ。
「これが対象者のデータですの。あなたは彼を、殺すだけでいい。あとのことは他の者に任せますから」
醜男のそばに控えた女性が、数多くあるモニターのひとつをそばかすメイドへ向ける。メイド服というには開けっぴろげすぎに胸元を露出した、褐色の肌が艶めかしいメイドだった。銀縁眼鏡の奥で、彼女の紫に光る瞳が、わずかに揺らめく。
「というか、あなた。もう少し身なりにお気をつけなさいな。そんなことでは他の者へ示しがつきませんの。そんなのでもあなたは、第八世代の首席ですのよ」
涅色にくすんだ、たいして手入れのされていない長髪を一束掴んで、褐色メイドは言った。軽蔑するかのような視線とともに。
「でしたら、どうぞ、二位にも三位にも降格させてくださいませ。私が落ちこぼれであることは、自身で理解しておりますので」
「あなたはもっと――」
「そういう問題ではない」
褐色メイドが、呆れながらも続けて諫めようとした言葉を、ややの怒気を孕んだ声で醜男が制した。
「おまえの力は本物だ、フルーア。こと戦闘力だけで言うなら、アナンにも、あるいはダフネすら上回るかもしれん。EBNAの商品にとって、戦闘力は必ずしも必要ではないが、評価項目のひとつでもある。おまえのそれは、他の欠点を差し引いても余りある、強力な価値だ。内部だけの格付けだけであるならいざしらず、順位付けは、出荷時の宣伝要素でもある。おまえらの一存で軽々しく変えられるものではない」
怒気は継続したまま、しかして、言葉は淡々と、醜男は諭した。あくまで道具だ。わざわざ言い聞かせる必要も特段に大きくはないが、しかし、彼女ほどの逸材には細心の注意も払い、教育は施す。
完全管理体制を敷いているとはいえ、万一にも裏切り者でも出ようものなら、その脅威は計り知れないのだから。
「アナン。フルーアの、戦闘力以外の点についてはある程度、大目に見てやれ。こいつは戦闘力を目玉に売り出す」
醜男の言葉に、褐色メイドはうやうやしく一礼した。
「寛大なお言葉、ありが――」
いちおうはそばかすメイドもメイドらしく、一言告げようとした。
「だがな、フルーア」
しかしそれを、醜男は遮る。
「さすがにその姿はひどい。最低限、メイドとしての身なりは整えてもらう。髪くらいはなんとかならんのか。ケアが面倒ならせめて、そんな長髪、ばっさり切ってしまえ」
ばっさりと言われてしまった言葉に、さすがの彼女も、「はあ」と曖昧な肯定をするしかなかった。「まあ、この仕事が片付きましたら、そういたします」、と。
*
それで――。
やや本題から逸れた。ゆえに、改めてそばかすメイドは、今回の仕事について、詳しい内容をいくつか聞こうとした。顔は確認したが、その者の素性や立場、あるいはその者がいるであろう場所とその警備体制。いくら優秀なメイドであろうとも、それくらいの情報収集は必要だ。だから、そばかすメイドは声を上げかける。
「その髪を切らせるわけにはいかないな」
だが、その声は、一言目を発する前に遮られた。
いつの間にそこにいたのだろう? その声の主は、その場にいたEBNAの者、誰にも気取られぬまま、そこに唐突に、現れた。
「私はまだ、死ねないのでね」
そう言うと、その壮年は気軽に、しかして厳然と、ソファに腰掛けた。雑多に散らかり、いくらもの汚れすら目立つその場所に、見るからに上等の臙脂のダブルスーツをきりっと着こなした壮年が、ためらいもなく。
「見つけた…………」
いましがたモニターにて確認した、己が得物を見付け、そばかすメイドは速攻、動く。唐突な登場であろうとも、その驚愕は一瞬だ。そばかすメイドは『道具』として、あらかじめ組み込まれたプログラムに従うかの如く、殺意をあらわにした。
「待て! フルーア!」
だがその動きも、即座に制される。彼女が渾身に、その鍛えられた長い足を持ち上げ、対象の頭を文字通り、蹴り飛ばそうとした。その、寸前で。
なぜですか。スマイル様。そう問おうとした言葉も、出る前に引っ込む。
「メイドの癖に、不躾なお嬢さんだねえ」
直感。なにも見えてはいなくとも、戦闘力のずば抜けた者ゆえの勘で、瞬時にそばかすメイドは後退した。見るに、さきほどまで彼女がいた場所には、また新たな侵入者――白髪が混ざり始めた紅色の長髪が目立つ、妖怪じみた者が現れている。「やるねえ」、と、彼は言い、なにかを振り払ったような恰好で、にやりと笑った。遅ればせにそばかすメイドの首筋から一滴、血が流れる。
「これはこれは、WBOの最高責任者リュウ・ヨウユェ氏に、最近『本の虫』などという新興宗教を立ち上げた教祖、ブヴォーム・ラージャン氏ではないか」
諸手を広げ、余裕そうに、醜男は言った。ちらりと視線で合図を送る。手を出すな、と。褐色メイドは銀縁眼鏡を正し視線だけで、はい、と、応えた。
「それで、私の言葉は、聞き入れてもらえるのだろうか?」
「はあ? なんの話だ?」
壮年の多くを省略する言葉に、醜男は当然と、語尾を上げる。
「私はまだ死ねないのだ」
「それは私には関わりのないことだ」
「『ユグドラシルの切株』」
端的に言うと、壮年は、その言葉通りのものをテーブルに置いた。『啓筆』序列十位。最高の身体強化をもたらす一冊を。それが、眼前の醜男の目的物であると知ったうえで。
「これの研究には、いくら高名なスマイル・ヴァン・エメラルド博士であろうとも、十年ほどを要するだろう」
「これで己が命を、十年買おうというのか」
「いいや」
言うと、壮年は立ち上がった。そのままおもむろに、いまだ睨み合い拮抗している友人と、ひとりのメイドのもとへ、軽々に割り込む。
そばかすメイドの眼前まで到達し、彼女を見下ろす。そしてその涅色の髪に、優しく触れた。
「この髪をもらおう。こんなに美しい髪は見たことがないからな。ばっさりと切られるのは、心苦しいというものだ」
*
こうして、そばかすメイドは売られた。そのことに対する特段の感情は――感傷は、彼女にはなかった。
「おかえり、ヨウ。首尾は……って、誰、その子?」
移動に手を貸してくれた司書長が、友人と、その脇に連れた者を見て、怪訝そうな顔をした。
「私を殺そうとしたのでな。買ってきた」
「まあた女をたぶらかせてきたんだね」
そういう男性の行動を毛嫌いする彼女にしては、余裕のある物言いだった。だから、冗談なのだと壮年も理解する。長年の付き合いに基づいた、推察で。それとは別に、言葉の奥にはどす黒い怒りも感じた。それは、女性だけに限らずだが、人間を人間扱いしないEBNAという組織に対する感情であるのだろう。
だが、諦めもある。世界のすべてを敵にするわけにもいかない。どれだけの憤慨を抱えようと、人ひとりに――あるいは、たかがひとつの組織にできることなど限られている。その程度のことを理解するくらいには、司書長は大人だった。
それらすべてを理解して、壮年は、曖昧に微笑んだ。友人の冗談に対する、適当な反応として。
「あれ、ぶーくんは?」
今回の奇襲に対して助力を仰いだ友人のことを探し、司書長は周囲をきょろきょろと見渡す。座標から座標への移動。それが今回、司書長の行った仕事だ。だから、誰を移動させたかは把握していない。
「用は済んだから、もう帰る。そうだ」
罪から目を背けるように、壮年は言った。だから、そんな彼らから目を逸らすように、司書長も複雑な顔付きになる。
「まだ、忘れていないんだね」
それだけをようやく、司書長は紡いだ。そして、それはそうだろう。と、彼女自身も思う。
そして、眼前の壮年もまた同じであることも、いともたやすく、理解できた。だから司書長は、幼い顔をぶるぶると振って、薄い笑みを作った。
「で、その子、どうするの?」
数々の問題を捨て置いて、まず、一番直近にある問題に取り組むこととする。小柄な司書長から見ては、頭ふたつ分ほど見上げなければならないが、それでも、年齢差的には『その子』に違いない。そんな、そばかすを携えたメイドを見て、彼女は問うた。
「そうだな。……とにかく、風呂にでも――」
言いかけて、壮年は即座に、司書長の特性を想起した。彼女に誰かの面倒を見させることほど、おっかないこともないだろう。
「――リオはいるか? こいつを風呂に入れてやれ」
「りーちゃ……あの人に任せるの?」
「女の身だしなみなど、私には解らん」
「そういう意味じゃないん……まあいいや」
言うと、彼女は空五倍子色の装丁をした本を取り出し、その力を行使した。結果、瞬間に目的の者は現れ、壮年の言に従うこととなる。
「うまくいかないものだな」
彼女たちが去ってややあり、壮年は口を開いた。
「『異本』集めのこと? 仕方がないとはいえ、『ユグドラシルの切株』は本来、あんなところにあるべきものじゃない」
それとも――。と、いましがた去った彼女のことを想起する。だが、司書長は、あえて口にはしなかった。
「いいや、あれはあれでいい。物語の流れに沿った、適切な配置だ」
壮年は、司書長には理解できないことを、言った。
やがて、そばかすメイドは戻ってきた。彼女を風呂に入れた者とともに。
「リオ……いやいい。ご苦労だった。下がってくれ」
女性の身だしなみに無頓着な彼ですら、絶句する仕上がりだった。だがまあそれでも、全身を綺麗に洗い流す程度のことは達成されている。涅色だった長髪も、洗い流してみると、本当に美しい、見事な栗色だった。
「髪くらい梳いてやれないのか、あいつは」
ちらりと、司書長を見る。友人の意図を汲み取って、彼女はどこからか、ブラシを取り出し、彼に向けた。
「私にやれというのか」
「私がやったほうがいい?」
「私がやろう」
まったく。と、壮年にしては珍しいことに、大仰な嘆息を漏らした。
「私たちは本当に、みな落ちこぼれだな」
慣れない手つきで、壮年は、そばかすメイドの髪を梳く。長い時間をかけて、じっくりと、愛しむように。
「よし、こんなものだろう」
必要十二分の、さらに数倍の時間をかけて、壮年はそれを、ふたつの大きな三つ編みに、まとめた。その大仕事に対してなのか、あるいは、ただの純然たる感想であるのか――
「うむ、やはり、美しいな」
そう言って、満足げに笑う。
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