――数年前。
中国湖南省張家界。くしくも世界最長、世界最高度のガラスの吊り橋が2016年にオープンした、張家界大峡谷。世界遺産である武陵源風景区の一角にある、この大自然の奥深く。太古の原生林や美しい渓流や湖が広がるその片隅に、削痩拳という、小さな流派の道場が存在する。
といっても、建物があるわけではない。そもそも門下が多いわけでもない――というより、まったくいないという方が表現として近い――流派だ。ご立派な建造物などなく、ただただ大自然の中で黙々と技術を磨いていた。
「……よく来た。お嬢ちゃん」
背を向けて、瞑想でもしていたのだろう。そこへ音もなく近付き、ちょっと驚かせてやろうという少女の魂胆は、思った以上の距離を隔てて瓦解させられた。
「……遠いのよ。おじいちゃん」
だから、言葉だけでも強がっておく。ただでさえ中国くんだりまで呼び出されておいて、ちょっとしたいたずらさえ打ち砕かれたのだ。まだ年頃の少女の機嫌がよかろうはずもない。
それに、老輩は立ち上がり、少女を眼前に向き合って応えた。いくらか年を経たとはいえ、まだ少女のままの彼女と、さして変わらない背丈で。しかし、言葉は紡がない。
「……で、わたしはなにをすればいいの? 言っておくけれど、えっちなのはだめよ。指一本触れさせないわ」
だから、少女からもう一度、言葉を投げた。拳法を修める者として、十二分にしっかりとした肉体を持つとはいえ、もう米寿も近い老輩に対して、少女は貞操観念強めな発言を放つ。もちろん冗談なのだろうけれど。
「ん? ああ、そういう方向性もあったか。思い付きもせんかった」
はっはっは。と、老輩は笑う。これも老輩なりの冗談だろう。
その笑う姿を見て、少女は不思議な感覚を得た。目前の老輩――馮老龍が、もしかしたら少女でも勝つことができないほど強いのは理解できる。それなのに、いま目の前で笑う彼は、無邪気で、どこにでもいそうな老人に見えたから。
「なに、安心するがいい。体には触れるが、性的な欲求は、もう俺のような老いぼれにはないよ」
安心するような、警戒するような、そんな気持ちだった。だがまあ、少女にとっては、実のところ最初から解っていた申し出だったのだけれど。
「お嬢ちゃん。……削痩拳を継ぐ気はないか?」
*
その気はなかった。というより、ない。だが、少女は最初からその申し出を受けるつもりで彼を訪ねてきていた。
「……継げば、『異本』を渡すのね?」
そういう約束だ。『本の虫』の幹部たちは、必ず一冊以上の『異本』を持たされる。それを扱える・扱えないに限らず。『本というのは読むもの』という理念。といっても、この一言で言い表せるほど単純ではないが、ともかく、『本は使わねばならない』という信仰が、彼らにはある。それゆえに、幹部たちには最低一冊ずつ。
他面、『異本』をひとところに集めておいて、万一盗まれでもしたら、すべてを一気に失ってしまう、という懸念もあるそうだけれど。ともかく、『本の虫』の幹部は必ず一冊の『異本』を持つ。それだけは確かだ。
そして今回、馮老龍が少女へ持ちかけてきた提案というのが、自身の持つ『異本』を提供すること、だった。そしてその代わりに、頼みをひとつ聞いてほしい。そのために今回、少女は中国くんだりまで足を運んだわけだ。
ゆえに、ほとんど拒否権はなかった。あり得ないだろうとはいえ、本気で体を要求されたらおそらく少女は、力ずくで『異本』を奪い逃走しただろう。とはいえ、たいていの依頼ならば受けるつもりで来た。
そしてその依頼の内容も、少女の聡明な頭脳で想定してきた。いつかの戦闘の続行。でなければ、削痩拳という後継がいないだろう拳法の、継承。
「ああ、約束しよう」
「ちなみに、あなたが持つ『異本』って?」
少女の言葉に、老輩は準備していたのだろう。かたわらに無造作に置いていた、黒い装丁の一冊を拾い上げ、掲げる。
「『白鬼夜行 天狗之書』」
少女は少しだけ、目を見開いた。
なぜならそれが、そのシリーズの中でもかなり上位の――端的に、総合性能Bの、その中でも強めの一冊だったから。身体強化と、自然干渉。飛行能力、肉体強化、風を操り、天候まで変えられる。基本的に『異本』の性能は謎が多い。だから、なんとなく伝え聞くだけの性能しか、実際に使ってみるまでは解らないものである。それでも、簡単に挙げてそれだけの性能を有すると言われる、強力な、一冊。
「あなた、それに適性があるの?」
「いや、俺には使えん。知っての通り、一冊は持たされるのでな」
さも面倒そうに、老輩は言った。そして、その一冊を、適当に地面へ置く。
「そう……使えるなら、楽しかったでしょうに」
それは、少女が、だ。ただでさえ強い老輩が、さらに強くなる。少女は別段、戦闘狂ではないが、それでもスポーツのように戦いを楽しむくらいの感情はあった。これから削痩拳の修行をするにあたり、老輩との実戦もあるだろうと、実は楽しみにしていた節もある。
「俺は、使えたら、つまらんかったじゃろうがな」
老輩は笑って、先に、構えた。己が肉体、そして技術のみで相手を圧倒する。それこそが老輩の――拳法家の醍醐味でもあるのだ。
「でしょうね」
少女も笑って、承諾する。拳を構え、戦闘態勢へ。
『異本』の蒐集も、もちろん重要だ。だがきっと、それがなくとも、少女はこの一戦を受け入れただろう。修行をして、削痩拳を受け継ぐかはまた別としても。それくらいにあの、エジプトでの一戦は楽しく、なにより、学ぶことも多かった。
少女は慢心してなどいない。『シェヘラザードの遺言』。その『異本』により人間として、どこまでも強くなれる。が、それは肉体や頭脳のみ。精神や、技術は、その能力の埒外だ。
だから、鍛えなければならない。これからも『異本』を蒐集するためには。これからも、蒐集し続けるには。男のために、その悲願を達成させるために。
男がその目的に疑問を感じ始めていると、気付いてもなお。
「さっそくじゃが、始めよう」
老輩は言った。
「ええ、お願いするわ。……師匠」
そう言って、少女は、研ぎ澄ます。感覚を、肉体を。きっとそれでも、受けきれないから。
その予感は見事に達成されて、そんな日々が、半年ほど続いた。
――――――――
「……こんなんでよかったのかしら」
崩れたガラスと、褐色メイドを見て、それでも、なにかが違うような違和感とともに、少女は呟いた。
あの半年で、削痩拳を完全に教わることはできなかった。少女の学習スキルをもってしても。だから『皆伝奥義』というのは出鱈目だ。そういう技があることは知っている。老輩がそれを使ったのも見てはいる。しかし、それを教わる前に、老輩は――。
「まあ、いいわ」
首を振る。いまは、他に気にすることがある。そのために、少女は進んだ。散らばったガラス片を踏みしめて、男とメイドが向かったはずの、次の部屋へ。
ふと、足を止める。なぜだろう? 止まらなければならない気がした……?
ああ、と思い至る。そういえば服を着替えたいのだった。えっと、いくつか前の部屋に、クローゼット。あったわね。と、思い出す。だから、踵を返して――。
静止した。
「……うん?」
首を傾げる。いや、傾がない。
動かない。疲れている? そんなわけはない。いや、仮に疲れているとして、全身が微動だに動かないとはどういうことだ?
「やぁっとかかったなあ……。クソガキが」
立ち上がる。というよりは、持ち上がる。そんな動きで、ピン、と、メイド服というには露出の多い服を纏った、褐色肌の女性が、起き上がった。
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