1989年、九月。イタリア、エミリア=ロマーニャ州、ボローニャ県。
ボローニャ大学。
「ぐー。すぴー。ふにゃー」
「……おい、てめえ……毎度毎度――」
震える拳を握り締め、『先生』は言う。
いつも通りに拳骨を振り上げ、叱ろうとした。
『人間。この身は方今、我が入れ物である』
だが、容易に拳骨は防がれる。不可思議な感触だった。なにものも彼の拳を妨げてはいないのに、けっしてその先へは踏み入れられない。精神を惑わされてでもいるのか、自ら拳を止めたかのよう。だが、どれだけ意思を強く持とうと、やはり拳は、彼女から一定の距離を保ち、その先へ進めない。まるで、金縛りにでもあったようだ。そう、『先生』は感じた。
『良い。環境は許容しよう。だが、我に危害を――』
「またかこのボケええええぇぇぇぇ!!」
『ぐわああああぁぁぁぁ――――!!』
若女は、いきなり叫んだかと思えば、己が顔面を殴り飛ばし、それはもう飛んで、吹き飛んだ。声音を目まぐるしく変えて、ひとり芝居――というか、気でも違ったかのような行動を取る。
「私が寝てる隙に、何度も何度も、勝手に外に出るなって言ってるでしょうが! そのせいで寝不足よ! 私!」
ぷんぷん! 鼻血を流しながら凛とした顔で、若女は言った。怒ってはいるが、どこか楽しそうでもある。
『人間。汝、我を――』
「ふんっ!」
『ぶふうぉっ!』
若女のものとは思えない、低い声が、自身の手で両頬を思い切り叩き、醜く表情を歪めながら、盛大に唾を吹いた。
「なんかいじわる言おうとした! そういうの解るんだからね!」
壁に向かって指差し、憤慨して抗議する。それからうにうにと自身の両頬をつねり、彼女はやはり、面白い顔をした。
ややあって――。
「……! あっ! いなくなった! もう! もうもうっ! 困ったら引きこもるのズルっ! やーい、ばーか! ばーかばーか!」
ふん! と、そっぽを向いて、つかつかと彼女は、席についた。
「じゃ、おやすみ。『先生』」
ぐー。すぴー。ふにゃー。と、即座によだれを垂れ流し、無防備に眠ってしまった。『先生』は拳を持ち上げる。しかし、さすがに起こそうとはもう、思えなくなっていた。
この責任の一端は、自分にある。そう、思うから。
*
「……最近、寝過ぎじゃないですか、シンねえさん」
昼食ののち……とはいえ、幾度もあくびを漏らしながら歩く彼女に、才女は心配そうな目を向ける。
「うーん。私が寝たら、なにかしてるっぽいんだよね、イシちゃん。だからあんまり夜、寝れなくて」
「イシちゃん?」
「うんうん、イシちゃん。たぶん石の精霊かなんかでしょ、あれ」
そう言って、若女は自分を指さした。それから、「あれっていうか、これね」などと、眠そうに言い直す。
才女は、シリアでの出来事を思い起こした。あの、『石板』。それから彼女に取り憑いた、人格。……いや、その存在は、人間のそれではない。その『意思』は、さらに高位の、存在のようだった。
『石の精霊ではない。我は、天稟天与の化身』
「うわっ! イシちゃんだ!」
『否。我は――』
「イシちゃん! シンねえさんの身体から出てってください! 私は怒っていますよ!」
ぷんぷん! 才女は、尊敬する若女の真似をして、怒りをあらわにしてみた。
『……。受肉は、六合の再編に必要な行程。未だこの身は必須』
「……よく解らないですけど、あなたは目的を果たせば、シンねえさんから出て行くってことですか?」
『然り。但しどわああああぁぁぁぁ――――!!』
唐突に、その存在は、己が取り憑いた人体によって殴り飛ばされた。
「いけないいけない。ちょっと寝てた。……もうっ! 私の身体で、難しい言葉使うのやめてよね! きゃーシンねえさん知的で素敵! とか、ゾイちゃんが思ったらどうするの!」
「あ、思わないから大丈夫です」
「思わないらしいよばかやろー!」
『汝が精神は頑強に過ぎる。又、奇態且つ梼昧』
語尾に、『うにに……』と声と頬が伸びる。
「難しい言葉使うなつってんだろうが。それと、褒めるならちゃんとちゃんと、褒めてよね」
「シンねえさん、たぶん微塵も褒められていません。それと、めっちゃ注目集めるからひとり芝居やめてください」
「ひとり芝居じゃないの! ないないの! ごめんねうちのイシちゃんが。一緒にいて恥ずかしかったら距離取ってね」
少し寂しそうな顔で、若女は言った。
「いやですよ。私、シンねえさんと一緒にいたいですし」
すました表情で、才女は言う。だが、その頬はまるで、つねられたように赤くなっていた。
「はわはわぁ……。ゾイちゃんかわかわ! もうっ! キスしていい?」
言いながら、彼女はすでに、キスしている。
「そういうのは、ヨウ先輩にしててください」
邪険そうにするも、強く抵抗しない。それが無駄だということも知っているし、それに、言葉や顔ほど、嫌がっていないから。
「リュウくん最近冷たいの。ひえひえ。あーでも、ゾイちゃんあったか。ぬくぬく」
「人で暖をとらないでください」
むしろ、暴れたり自分で自分を殴ったり、身体が火照っているのは彼女のほうだ。それを思うと、いたたまれない。だからそれを押し返して、才女は、嘆息する。
彼女に呆れたのではない。呆れたとすれば、自分自身。あるいは、自分たち。
なにもできない自分たちに、才女は、辟易したのだ。
*
ふわあぁ……。と、あくびをして、才女は部屋に入る。彼女も――彼女たちも、最近あまり、眠れていない。
「おお、おちびさん。どうだい、シンファの様子は」
仮眠につきかけていた美男が、眠そうに言った。艶のある紅色の長髪が、わずかにくすんでいる。
「ラージャン。おちびさんはやめてください。まあ、言っても無駄でしょうし、いいですけど」
「それで?」
眠気で、おそらく少し、頭が回っていない。ソファにもたれ、うとうとしかけている彼に、才女は、端的に話すことにした。
「シンねえさんが寝てる間に、イシちゃん、なんかしてるみたいだって」
「イシちゃん?」
「あの人格を、シンねえさんはそう呼んでました。石の精霊だとか……あ、でも本人は、天稟天与の化身だとか、言っていましたね」
「天稟天与、ねえ」
まどろみに思考を沈めて、美男は目を閉じた。寝かせておこう。そう、才女は思う。どうせ伝えられることは、これくらいだ。
毛布でもかけてやろうかと、周囲を見渡す。ラックに置かれたダンボール箱の中に、それはあった。
「おつかれちゃん。クレマンお戻りー? じゃあ、うち代わるわー」
奥の部屋から、テンション高めに、子女がやってくる。テンションも声もハイだが、その表情には、わずかの疲労が見てとれた。
「しー、静かにしてください。ラージャン、寝たとこです」
才女が口元にあてた人差し指、そして、それを続けて向けた相手を見て、「なるへそ」と、子女は声を落とす。
「とにかく、フアたんの様子は、うちが見とくわ。……なんか報告ある?」
端的な質問に、端的に情報共有する。「ん」、と、短く了解して、子女は外へ出た。見送ってから、美男に毛布を掛ける。そうして、今度は才女が、奥の部屋へ。
「ヨウくん。シンねえさんに会ってないんですか」
入るなり、才女は棘のある声で、そう言った。
「報告を聞こう、ゾーイ」
質問には答えずに、若男は言う。
呆れて、それでも、才女は言うべきことを、言った。あくびを噛み殺して。
「天稟天与……」
「つまりは『才能』、って、ことですよね」
「…………」
なんとも応えずに、若男はただ、それに向き合ったままだ。
あの日、数週間前に、シリアのあの発掘隊から、なかば強引に借り受けてきた、『石板』。太古の知識が詰まった、それは、原初の書物だと、想定された。
「あ」
と、もうひとつ思い出して、才女は声を上げる。そばのソファで寝落ちしかかっていた『先生』が肩を震わせ、顔を上げた。
「そういえば、シンねえさんの身体を借りてるのは、なにかに必要だからとか。なんだったかな……六合の、再編?」
たしかに、難しい言葉を使われると敵わない。うまく記憶に定着しない。才女は眠気も相まって、頭痛さえ覚えながら、記憶をひねり出した。
「六合……つまりは、『世界』の再編か……」
『先生』が言う。その言葉に、若男が拳を握るのを、才女は、自身の低い視点から、見た。
「休め、リュウ」
それを見かねたのか。それは解らないが、『先生』が彼の肩を叩く。
「いえ、眠くありません」
「だったら、シンファの様子でも見とってやれ」
「それはいま、リオが行っています」
はあ、と、『先生』が嘆息した。それから、才女にちらりと、目を向ける。
「シンねえさんが寂しがってましたよ、ヨウくん。『リュウくんひえひえ』、だって」
わずかに肩を落として、若男は頭を搔いた。
「……少し、眠ります。頭が働かなくなってきた」
そう言うと、彼は隣の部屋に、そそくさと行ってしまった。才女が続けようとした言葉から、逃げるように。
「まあ、気持ちは解らんでもない」
言って、『先生』が若男の代わりに、『石板』に向かった。
「解らんでもないんですか」
わずかに蔑むような目を向けて、才女も、更新されている資料に目を通す。
だがはたして、若女を蝕む存在の研究は、やはり進捗が芳しくなかったけれども。
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