『お父さん、お母さん、先立つ不幸をお許し下さい』
暗い。何も見えない。手足の感覚は何故か多少残っているみたいだ。かなり痺れているような、麻痺しているような、そんな感じではあるけれども。ぼくはこれから死ぬのだろうか。それとももう、死んでしまったのだろうか。
何もかもがもうどうでもよくなっていた。
毎日がただ、無駄なものに思えていて、空しかった。生きているのが苦痛だった。
死んでしまったほうがどれだけ楽だろう。
そう、思った。
睡眠薬は手に入らなかった。病院で貰おうと思ったけど、どうやったらいいか判らなかったから諦めて。でも他の方法じゃあいろいろ苦しいだろうな、と思い、風邪薬で代用した。あの眠くなる風邪薬なら、大量に飲めば多分睡眠薬と同じ効果があるだろうと思ったのだった。
そうしてぼくは十七年の人生の幕を閉じる。
生まれ変わりとか、死後の世界とかは信じていないけど、そんなもの、無ければいい。
こんな人生なら、無に帰ってしまえばいい。
突然。
そう突然。目が開いて。白い天井。蛍光灯が二本、光っている。
ここは、病院か? ぼくは、死ねなかったのか?
身体は金縛りにあったように動かないけど、目の前に映る世界は現実のもののようであった。
でも、目を閉じようと思っても目を閉じることもできない。それはまるでぼくの意志とは別の処にあるもののように。そして、突然身体がむくっと起き上がった。
ぼくの意志とは関係無しに、周りを見渡して、ぼくの意志とは関係無しに、窓ガラスに映った自分の顔を見る。
そして、その顔は確かにぼくの顔であったのだけど、その窓ガラスに映った顔は一瞬びっくりしたような顔をして、フッと、笑いとも、ため息ともつかないような表情をしたかと思うと、そのままゴロンとまたベッドに横になった。
そう、ぼくはそうしようとしたわけでは無いのに。
「それでは、本当に何も覚えていないんだね」
「はい。ほんとに、なにも」
「直ちゃん」
「直紀。私のことも分からないのか?」
正面に、白衣を着た、先生。
そのとなりからぼくのことを覗き込む、お母さん、お父さん。
ぼくはその両親の顔を、無表情に、まるで見ず知らずの他人を見るような目付きで見ながら、ゆっくりと頷いた。
とたんに、母さんが泣き出した。父さんは、いつもぼくに向けていた威厳を保ったむっつりとした顔ではなく、驚きと落胆が交じりあった、悲しそうな顔になった。
――父さんは、こんな顔もできるんだ。
ぼくは、生まれて初めてこんな父さんの顔を見た気がした。
ぼくは少し――いや大分、後悔していた。
父も母も、ぼくのことは自分たちの所有物だと、思い通りになって当然の存在だと思っている、そう思っていた。
ひとりの人間として、ぼくがどんな事を考えているのかなんて、全然分かろうとしない、と。
でもそれは、ぼくの方にもいえたのかも知れない。ぼくはどれだけ、この両親のことを知っているのだろうか、人間として。いや、知ろうとしたのだろうか、そんな努力、したことがあっただろうか。
今なら、できるかも知れない。父さんの、あの顔の背後にある気持ちを、聞くことが、知ることが。 でも……もう遅いのか?
先生と両親は連れだって部屋の外に出て行った。後には、看護婦さんがひとり、残っていた。
両親は、ぼくの症状を確認した先生に、説明を受けているところだろう。
記憶喪失、だ、と。ほんとは違うのに。ぼくの記憶は、ぼくの心は、ここにちゃんとあるのに。
「ねえ、看護婦さん」
ぼくがそう、声を掛けた。
「なあに」
その看護婦さんは優しく、まるで小学生の子供でもあやすような声で、ほほ笑んだ。
「ぼくの名前、なんていったかな。もう一度、教えてほしいんだけど。あと、ぼくのこと、知ってる事があったら、なんでもいいから」
その看護婦さん、まだたぶん看護婦になりたて、かな。かなり若い。たぶんぼくが自分のことを少しでも思い出そうとしてるって、けなげ、とか、思ってしまったのだろう。
「いいのよ、そのうちぜったい思い出すから。ゆっくりでいいから、あわてなくても、いいのよ」
そう、涙目になって、言った。かなり情にもろい人みたい。
「でも、ほんと、お願いだから……」
「倉本直紀、十七歳、高二」
背後から声がして、ぼくは振り返った。いつのまに来たのか、三つ下の妹が入り口の所にいた。
「君は……」
「直くんほんとにみんな忘れちゃったの? わたしのことも分からないなんて」
「うん。そうみたいだね」
「そうみたいって、他人事みたいに! だからだめなのよ。記憶なくしたって軟弱なところは変わってないんだから! だいたいねえ、自殺しようってのがそもそも軟弱な証拠なのよ! 自殺なんて、自殺なんて、わ、わたしが悲しまないとでも、思った、の?」
最後はほとんど涙声になってしまっていた。 亜紀……、お前……、三つも年下のまだ中学生のくせに、いつもぼくのこと軟弱だ、とか、頼りない、だとか言って、ばかにしてたのに。泣く、なんて、思いもしなかった。
「そんなに泣かないで。君みたいな可愛い子に悲しい思いをさせるなんて、記憶をなくす前のぼくは、ほんと、どうかしてたんだよ。さあ、これで涙をふいて」
そう言ってぼくは、身近にあった綺麗なタオルを亜紀に手渡した。
「あ、ありがとう」
そう言って亜紀は、きょとん、としてぼくを見ている。そうだろう。いままでのぼくだったら、まちがってもこんな台詞、言うわけがないから。
「君みたいな可愛い子が、ぼくの恋人だったら嬉しいんだけどな」
こいつ、そんな台詞さらっと言うなよ! もう。おい! 亜紀! なんでお前が赤くなってんだ?
「どうしちゃったの? 直くん。なんか、今日、かっこいい。――ううん! そんなこと言ってる場合じゃない! 直くん! わたし、妹よ! 妹の亜紀よ! ねえ、思い出して!」
「そっか、それは残念だけど。ごめん、思い出せないや」
「そんなあ、お願いだからあ……」
亜紀はぼくの胸にすがりついた。
「無理言っちゃ、だめよ。そのうち必ず思い出してくれるから、それまで、ゆっくり、見守ってあげて」
そう言って、看護婦さんが間に入って亜紀をなだめてくれて。
「ごめんね、亜紀ちゃん。思い出す努力、するから」
そうぼくが駄目押しをして、亜紀はやっと、しがみついた手を離した。
「そだね」
亜紀はペロンと舌を出して、涙を手で拭って、ちょっとはにかみながら、
「じゃああらためて、はじめまして、おにいちゃん。わたし、協力するから、なんでも教えてあげるから、頼りにしてね」
と言って笑った。
それは、ぼくにはほんの小さい頃にしか見せたことのない顔だった。
じれったい。
じれったい、じれったい、じれったい!
自分の身体が、自分の思い通りにならないなんて!
それどころか、自分がここにいるっていうことを、自分が考えていることを、誰にも知らせることができないなんて。
なんて、なんて、じれったい、もどかしい、ことなんだろう。
もし幽霊ってのが実在して、それでもってその幽霊に意識があったら、こんな気分かもしれない。
あれから、記憶の無いぼくはなんとか無事にすごしていた。亜紀が、ほんと、かいがいしく、っていう表現が似合うぐらい、ぼくの世話をしてくれて。一応、精密検査っていうのを受けて、ぼくは二日後に家に帰ることができた。
でも。
これは、この状態は、やっぱり二重人格っていうことなのだろうか。
そうとしか、考えられないよな、やっぱり。
この記憶喪失のぼくの行動っていうのは、いままでのぼくの性格からは考えられないことばっかりだし。記憶の無い第二の人格っていうのが、いま、表面に出てる、と考えるのが、たぶん妥当な線なんだろう。
それでも、いまいち解らないことが、ある。
なぜ、ぼくの意識はこのままなんだろう?
ふつう、記憶喪失中って、もとの意識って、眠ってるかなんかしてるんじゃないの? ぼくの勝手な考えかも知れないけど、記憶が戻った時にもとの意識が戻ってくる、そう思ってたんだけど。
まあ、二重人格だからふつうの記憶喪失とは違うんだ、といえばそれまでなんだけど、それでも。
ぼくはいま、もともとの自分の目を通して周りのことを見ることができる。耳も聞こえる。触ったりしたものの感触も、ぼんやりとしてだけどある。でも、決して、たとえ一瞬でも自分の意志で身体を動かすことはできない。
よく、物語の中で、眠っている間に人格が交替する話なんかあるけど、それもできなかった。なんてったって、本体が寝たら、ぼくもやっぱり眠ってしまったのだ。これではどうしょうもないじゃないか。
ぼくはこのまま、記憶喪失の人格の中で一生を送ることになるのだろうか。
誰にも知られることもなしに。これが、自殺をしようとした報いなのか、こんな……。
「お兄ちゃん。わたしもう学校に行くね。いつまでも寝てちゃだめだよ」
という亜紀の声で、ぼくは目が覚めた。
亜紀は部屋のドアをちょっとだけ開けて覗き込むと、ぼくが起きたのを確認して、
「お父さんもお母さんも、もう仕事に行ったから。今日からおにいちゃんひとりだからね。じゃあ、いってきまーす」
と言ってドアを閉めた。パタパタ、という足音が、玄関の方へ消えていく。
今日は月曜日で、本当だったらぼくも学校へ行く時間だった。
記憶喪失っていっても、学力がまったく無くなるってことは稀らしい。ぼくの場合もどうやら、なんとか学校に行けるぐらいの知識はあったみたいだった。
ただ、授業の内容にいたっては、ほとんどちんぷんかんぷんで、とてもじゃないけどついていけそうになかった。
とはいえ、ぼくはこれでもこの地区では中の上くらいの進学校に通っていて、そこでの成績が学年で十位以内に入っていた、ということもあって、両親の期待も大きくて――まあ今は、ぼくが自殺未遂をしたことで、そんなことおくびにもださないようにしてたみたいだったけど――ぜひにも有名大学に進学してほしい、と思っていたので、ぼくが学校の授業についていけない、というのは容易ならざる事態だったようだ。
まあ、表面上は、『授業についていけなくて落ちこぼれたらかわいそうだから』というお題目で、一週間ようすを見て、それでも記憶が戻らなかったら家庭教師を雇う、こととなった。
結果として、ぼくはこの一週間を、記憶を取り戻すために費やすこととなっていた。
「あーあ、記憶なんて戻るわけないのにねえ。そんなもんはなっからないんだから」
亜紀が出て行ってしまってから、ぼくがそう、呟いた。呟いたんだけど……、ん? なに? どういうこと?
なんか変だ。
この台詞、なんか変だ。
どこが、じゃない。全部、喋り方まで。
ぼくは顔を洗って朝食をとると、洋服ダンスを物色して、溜め息をついていた。
「もう、ろくなのないんだから。センスのかけらもありゃしない」
悪かったなー。どうせセンスなんか無いですよっ。
「これは新しいの買い揃えるしかないわね。せっかく男の子になったのに、これじゃ、モテやしない」 どうせモテませんよーだ。
「まあ、顔がまあまあだったのが救いよねー。これでぶおとこだったらシヤレになんないし」
そうぶつぶつ独り言をいいながら、ぼくは、いや、ぼくの身体を操っているヤツは、外に出掛けて行った。ぼくの通帳と印鑑を持って。
乗っ取られた。この期に及んで、ぼくはそう気づいていた。二重人格なんかじゃない。そのへんにいた浮幽霊に、ぼくの身体は乗っ取られたんだ、と。
それも、たぶん女だ。若い女。
なんとかしなけりゃ。このままじゃ、ずーっと乗っ取られたままだ。そのうちぼくの方が参ってしまう。
なんとかしなけりゃ。
――こらーっ、てめーっ、からだかえせーっ!
――なんとかいったらどーだーっ、しかとすんじゃねーっ!
――やいっ、きこえねーのかっ!
――おいっ、ねえ、ほんと、おねがいだから……
――ねえ、きこえてよぉ……
はあ、はあ。
息が切れた、わけじゃない。
そもそも、その切れる息ってのが、ないから……。
でも……精神的に、そういう気分だった。
怒鳴って怒鳴って、もちろん声にはならなかったけど、怒鳴り疲れてしまった。
テキは、全然まったく気づいていない様子で、買い物を続けている。
ぼくの貯金を十万もおろして、この調子だと全額使ってしまいそうだ。
ぼくは、いままでこれといって無駄遣いする方じゃなかったから、子供の頃からのお年玉とか小遣いとかほとんど貯金してあって三十万円ぐらいたまってたけど、それを見たテキさんは「結構お金持ちじゃない。これなら十万くらい使ったってたいしたことないよね」なんてのたまって、結局、服やら小物やらに全額使ってしまうつもりのようだ。
もう、どういう思考回路してるんだか、訳解らない。
そうこう考えているうちに、テキさん、帰路についていた。
大荷物抱えてバスに乗って。
家に辿りついたときには、さすがに疲れたようで、肩でハアハア息をしていた。
「もおっ、なんなのよこの体、てんで体力ないじゃないの!」
そう吐き捨てて。
――悪かったなっ! そんなに気に入らないんだったらここから出てけ!
「ん?」
え?
もしかして……。
――出て行けって言ったんだよ!
「えっ? 出て行けって、聞こえた……」
やったーっ、やっと届いた!
「ねえ、その声、直紀くん? この身体の持ち主の?」
――そうだよ! わかったらさっさと出てけ、身体、かえせ!
「返せって言われても……。あたしだって、どうやって出たらいいのか判らないもん」
……わからないもんって。
「あたしだって、好きこのんでこの身体に入ったわけじゃないんだからっ。事故で、死んじゃって、で、死にたくない、死にたくないって思ってたら、なんか、穴みたいのが見えてきて、そこに吸い込まれちゃって。気がついたら、あんたになってたのよ。びっくりしたけど、まあしょうがないかって、生きられるんだったら男の子の体でも、まあいいかって思って。これも生きたい生きたいって思ってるあたしを可哀想に思ってくれた神様の思し召しなんだって納得して、第二の人生を歩むつもりになってた矢先なのに……。出てけなんて、あたしに死ねっていってるようなもんだわっ」
――でも、あんたもう死んでるんじゃ……
「生きてるわよっ、こうして心臓の鼓動を感じることだってできるもんっ。これでも十七歳の花もこれからの乙女なんですからねっ。まあ、いまは乙女じゃ、ないけどもさ」
――でも、これはぼくの身体だ
「だったらなんで自殺なんてしたのよ! あんたなんかに自分の身体、なんて言ってもらいたくないわっ! だいたいねえ、自分のだって言うなら、なんで実力で取り返さないのよっ。はーん、できないのね。結局あんたの生きる気力って、そんなもんなんだわ。この身体だって、あたしの方がよっぽど有意義に使えるってことよね」
…………。
「ほら、言い返せない。そんなことじゃ、あんたなんか生きてく資格ないわよ!」
ぼくは、落ち込んで、もう消えてしまいたい、っていうほどとんでもなく、落ち込みまくっていた。 彼女の、言う通りだ。
ぼくなんか、生きる資格がない。
と。
思いっきり自己嫌悪にはまって。
「ねえ、ごめんってば、言い過ぎた。あんたが攻撃的にくるからさあ、あたしも負けられないって思っちゃったのよお。ねえ、なんとか言ってよ。このままあんたが消えちゃったら、あたしが無理やり身体奪ったみたいで後味悪いじゃないのよ。ねえってば」
言葉は悪いけど、彼女の優しい心遣いが、なんとなく暖かい気持ちとなってぼくの心に染みてきた。 少し、浮上できそう。
「こうなっちゃったのも何かの縁だからさあ、仲良くやっていこうよ。ねえ」
なんて理屈だよ。でも……。
――うん
「よかったあ。あたしもさあ、悪いと思ってるのよ。ほんと」
――そんな風には見えないけど
「ほんとだってば。でも、元気、出たみたいね。よかった」
まあ、しょうがないか。そんな、悪い子じゃ、ないし。なんとか、うまくやってくこと考えないと。前向きに、考えよう。何事も。
そうだよね。
彼女の名前は、ようこ、といった。浅田葉子。
本人いわく、私立の三流女子校に通っていた十七歳。ぼくが自殺をしたその日に車に撥ねられた、ということだった。
しかし、女ってのはなんて順応性の高い生き物なんだろう。
これは葉子だけなのか、それともすべての女に当てはまるのか、ぼくには到底解らないけれども。
葉子はもうすでに、男としての人生を楽しんでいるようだった。
一応、記憶がある程度戻ったということにして、ぼくは学校に復帰していた。
「あんな授業、あたしに分かる訳ないじゃない」と言う葉子のおかげで勉強の方はぼくの担当になっていたけど、ひととの付き合いは完全に葉子の領分になっていた。もともと友達って呼べるような付き合い方を、ぼくはあんまりしてこなかったから……。葉子はあっと言う間にクラスの人気者の座についていた。
「直くん、もと、は悪くないんだから。ようは性格よ、性格」と言う葉子を、ぼくは少し羨ましかった。
女子の人気も上々で、葉子はそれも楽しんでいた。
「せっかく男の子になったんだから、モテなきゃソンよ」なんて言ってる。
でも、いいのかなあ?
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