この状況で逃げられないのは解ってた。
でも、ユウは仮に逃げられたとしても私を置いて行ったりしない。
そんな男じゃないからユウはユウなんだ。
私を引っ張っているときに伝わってきた手の震え。
教室の隅まで逃げて、それでもゆっくりと近づいてくる得体の知れないボールにユウは立ちふさがった。
震えてたけど……必死な姿が最高に格好良かった。
ただ一つ、心残りがあるとしたら。
『お前を置いて逃げられるか!』くらいは言って欲しかったなぁ。
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「おかーさん、なんでウチにはおとーさんが居ないの?」
妹の華日に悪気は無く、きっと単純に疑問が浮かんだだけだったんだと思う。
それを聞いた母さんは一瞬悲しい顔をしたが、そのあと華日にも分かるように話をしていた。
父さんは僕が小学校に入学した日に死んでしまった。
まだ三十代の半ば。
定期の健康診断で膵臓に腫瘍が見つかり緊急入院。
その日の内に、母さんは医者から父さんの余命を宣告されていた。
あの日は幼稚園におばあちゃんが迎えに来て、何も知らなかった僕はいつもと違うお迎えにはしゃいでいたのを覚えてる。
自分の家ではなくおばあちゃんの家に行って、おじいちゃんと一緒に遊んだり犬の散歩をして、僕は一人だけ楽しんでいた。
今思えば、おじいちゃんもおばあちゃんもあんなに泣きそうな悲しい顔をしていたのに。
「ユウ君、これから言うことをよく聞いてね」
真剣な顔で、おばあちゃんは僕に話をした。
お父さんが病気になったこと、それで入院したこと、治らないかもしれないこと、僕にお母さんを支えてほしいということ。
お父さんが治らないかもしれないと聞いて、僕は泣き出してしまいそうだった。
でも、おばあちゃんに「お父さんが居なくなっても、ユウ君がお母さんを支えてハナちゃんと三人で強く生きていくんだよ」と言われて、僕は涙を飲み込んだ。
それから数日後の卒園式の場に、お父さんは居なかった。
病院から出ることのできなかったお父さんに、僕は卒園メダルと家族みんなを描いた絵をあげた。
何度もお礼を言うお父さんは絵で顔を隠し、泣き顔を必死に見られないようにしていた。
それから数日後。
三日後に入学式を迎える日の事だった。
「お父さん、明日から帰ってくるからね!」
お母さんの言葉に自分の耳を疑った。
(病院から帰って来るって事は、お父さんの病気が治ったんだ!)
これからもお父さんと一緒に居られると思って、僕は大喜びした。
そしてまた、僕はお母さんの悲しみを押し殺した顔に気付くことが出来なかった。
「ねーねー!トーカ!きいてきいて!おとーさんがね!かえってくるんだって!」
久しぶりに一緒に遊んだ灯花に、僕は喜びながら伝えた。
「ユウくんのおとーさん、びょうきがなおったの?」
「うん!かえってくるんだから、きっとなおったんだよ!」
よかったね!と灯花は一緒に喜んでくれた。
父さんが入院してからというもの、僕は母さんの手伝いをなによりも優先して灯花と遊ぶ事はほとんど無かった。
父さんが帰ってくればまた前みたいに遊べると、僕も灯花も思っていたんだ。
そして次の日、父さんは帰ってきた。
「ただいま!」
帰ってきたお父さんを見て、僕は大はしゃぎで飛びついた。
お父さんは少しよろけたけど、すぐに立て直して何事も無かったように僕を抱きかかえる。
それから入学式の日まではお父さんとたくさん遊び、前から行きたかった遊園地に行ったり、いつもならお母さんが読む、寝る前の絵本を読んでもらったりしてた。
そして入学式の日。
お父さんはピシっとしたスーツを着て、すごく格好良く見えた。
「ぼくも、おとなになったらおとーさんとおなじのをきる!」
それを聞いた二人は少しの間顔を見合わせて、それからお父さんは僕を抱っこして一緒に車に乗った。
お母さんは少し遅れて助手席に座り、おじいちゃんが運転をして小学校まで送ってくれた。
「迎えに来るときにカメラを持ってくるから、終わる少し前に電話してくれ」
おじいちゃんはそう言って車を出し、僕はおじいちゃんに手を振った。
「ゲホッゲホッ」
お父さんが咳き込み、それを見たお母さんがすぐにハンカチを渡す。
白いハンカチが少し赤くなったように見えた。
「ユウ!おはよう!」
遠くから僕を見つけた灯花が駆け寄る。
「おはよ!」
灯花に挨拶を返した後、灯花の両親にも挨拶をする。
「すみません、稲代さん……ユウを一緒に連れて行ってもらえないでしょうか?」
お母さんは申し訳なさそうに灯花の両親に頼んでいた。
「おやすい御用ですよ天海さん!ユウ君、お父さんはちょっとトイレに行くみたいだから、灯花と一緒にクラス割りを見に行こうか!」
少し強引だったけど、クラスが灯花と一緒なのかどうか気になっていたから、僕は行くことにした。
クラス割りを見て、灯花と一緒のクラスだったことを二人で喜び、初めて履く上靴に戸惑いつつも体育館へと向かう。
体育館にはたくさんの大人と子供が居て、みんなが座れるくらいたくさんのパイプ椅子が置いてあった。
"あまがい ゆう"と自分の名前が書いてある椅子に座って、僕は隣の灯花と学校で習うことや遊ぶこと、これから先のことをたくさん喋った。
ふと、僕はお父さんとお母さんが気になって後ろを振り向き二人を探した。
少しの間うしろを見渡していたら、こっちに手を振る二人を見つけた。
なんだか安心した僕は、また灯花と話し始める。
式が始まると、前の方で男の人や女の人が話したり、みんなで歌をうたったりして……そうしているうちに式は終わりを迎えた。
教室で教科書を貰って正門へ行くと、おじいちゃんとおばあちゃんと妹を抱えたお父さんの方のおばあちゃんが待っていた。
「家族写真の後に、みんなで一緒に撮ろうな」
おじいちゃんがそう言うと、お父さんは何も言わずに頷いた。
「それじゃ、並んで並んで」
おじいちゃんはカメラを構える。
三、四枚くらい撮った後、今度は二人のおばあちゃんも一緒に並んだ。
「あなた、誰かにカメラを頼んで一緒に写りましょうよ」
おばあちゃんに言われておじいちゃんは少し、周りを見る。
「知り合いも居ないし、見ず知らずの人に頼むのものぅ……」
おじいちゃんは困っていた。
本当はおじいちゃんもみんなで一緒に写りたいのだろう。
「天海さん、私が撮りましょうか?」
灯花の父親だ。
「すいません……。あとはシャッターを押すだけですんで……」
「お任せ下さい!」
おじいちゃんがおばあちゃんの横に並ぶ。
四枚くらい撮った後、灯花が僕の手を掴んだ。
「天海さん……ついでと言ってはなんですけど、灯花がユウ君と撮りたがってるので一緒に撮らせてもらっても良いですか?」
「おねがい!ユウのおとうさん、おかあさん!」
それを聞いた二人は「ぜひ、こちらこそお願いします」と言い、僕は灯花と一緒に並んで写真を撮ってもらった。
そのとき、お父さんとお母さんが二人で何か話してたみたいだったけど、少し離れていたからよく聞こえなかった。
そして写真を撮り終わると、おばあちゃん達と一緒にご飯を食べに行った。
僕は明日からが楽しみでたくさんはしゃいでいた。
夜、家に帰った後お父さんと一緒にお風呂に入って、眠くなった僕は布団に入る。
布団に入る前、お父さんに「おやすみ、またあしたね」と言うと、お父さんはなんだか満足したような顔で「おやすみ」と言って僕を抱きしめた。
それが、僕とお父さんの最期の会話だった。
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