殺し屋。
それは二十年前。〝虐殺の二月〟と呼ばれる大殺戮を引き起こした異能者たちの総称だ。
生身で一国の軍隊を叩き潰すその化け物共が、それまでどこで何をしていたのか。それは誰も知らない。
その事件を境に世界は変わった。今や殺し屋を雇う金さえあれば、誰でも気にくわない奴の殺しを気軽に依頼できる。
道ですれ違いざまに肩がぶつかった。
一世一代の告白に良い返事が貰えなかった。
仕事のミスを叱責された。
隣人の生活習慣が気にくわない。
そんな些細な諍いで容易く命が奪われる。
殺し屋による殺し屋のための、無限に続く殺しの連鎖。
国も軍も警察も、いかなる存在も殺し屋を咎めることは出来ない。
そう……奴らと同じ力を持つ、殺し屋以外には――――。
――――――
――――
――
「ククク……ッ! 208号室……月城悠生……まさかの朝帰り……! これは離婚……破局の危機……!」
「するか馬鹿っ! 仕事だよ、アンタだって知ってるだろ!?」
「そういえばそうだった……クックック!」
小鳥のさえずりが響く早朝の路上。
三階建ての清潔感漂うマンションの前。
仕事帰りの俺をまず出迎えたのは、地面すれすれまで垂れた長い黒髪で顔を隠し、染み一つ無い白いワンピース姿に一本の箒だけを持つ酷く痩せた不気味な女だった。
彼女は〝サダヨさん〟。俺たち夫婦が世話になっているこの〝殺し屋マンション〟の管理人だ。なんでも以前は彼女も凄腕の殺し屋だったらしい。
「確か昨日は俺の他にも何人か仕事に出てたろ。他のはちゃんと帰ってきたのか?」
「ククッ! アンタで最後さ……! アンタの嫁も、さっきまでここで……」
「悠生――――っ!」
その時、マンションの前でサダヨさんと挨拶を交す俺の耳に、弾けるような明るい声が届く。声のする方向に視線を向けたその時には、俺の視界はすでに〝彼女〟に覆われていた。
「――――お帰りなさいっ!」
俺の名を呼ぶと同時。俺の最愛の妻――永久は、俺の口をその柔らかく甘い薄桃色の唇で塞ぐ。
永久のしなやかな両腕が俺の首に回され、少しでも俺と触れ合う面積を多くしようと限界まで引き寄せられる。
その状態で息をすれば、まるで日向のような心地よい香りが俺の胸を満たす。重なった唇から伝わるぬくもりは、肌寒い早朝の空気に冷やされた俺の体を真芯から温めた。
そして押しつけられた彼女の胸の奥。早鐘のような永久の鼓動がジャケット越しに伝わる。彼女が確かにここに居るという幸せを噛み締めた俺はそっと瞳を閉じると、永久の体をできる限り優しく抱き留めた。
「むちゅ――――っ! んんんん――――んん、んんん――……ぷはぁっ! お仕事お疲れ様です! 待ってましたっ!」
「永久……! 待ってたって……まさか昨日の夜からずっと待ってたのか!?」
「はいっ! 夫の帰りを待つのは妻として当然のことですっ! 遠くから悠生のとっても良い匂いがしたので、一度部屋に戻って朝食の準備をしてました!」
「そうか…………遅くなって悪かった。ありがとな、永久」
たっぷり数十秒にも及ぶ熱烈な口づけと抱擁。
それでもまだ名残惜しそうに離れた永久の頬は鮮やかに染まり、上目遣いに俺を覗き込む彼女の黒く透き通った瞳の中には、ふやけた笑みを浮かべる短髪黒髪のゴツい男が映っていた。俺だ。
永久の激しい愛情表現によってだらしなく弛緩したキモい俺とは違い、目の前に立つ最愛の妻は、まるで天上から舞い降りた女神のように可憐で、満天の星空のように輝いて見えた。
深い群青の色を湛えた艶やかな長い髪は、彼女の持つ好奇心と優しさの光に満ちた大きな瞳をより一層際立たせている。
さっきまで俺の分厚い胸板に押し当てられていた彼女の柔らかな胸の膨らみは今も緩やかに上下し、彼女が纏う少しオーバーサイズのパーカーの布地を一定のリズムで押し上げていた。
他にも色々と説明したいしこの瞬間の彼女を俺の目に焼き付けたいが、とにかく永久は途轍もなく可愛い。健気で素直な性格も、まるでリスやハムスターのような無邪気な仕草も、鈴の音のように透き通った声も――――なにもかもが俺にとって最高で究極なんだ。
「クヒッ……! リア充……! キラキラ……ッ! イイ……ッ!」
「サダヨさんも……今日はありがとうございましたっ! 実は、私がここで悠生の帰りを待ってる間、サダヨさんが一晩中話し相手になってくれて……」
「マジかよ……!?」
「クックック……! 〝リア充は愛でるもの〟……ッ! 気にしないで……クククッ!」
見つめ合う俺たちの横で、箒片手に不気味な笑い声を上げるサダヨさん。
永久はそんなサダヨさんにも満面の笑みを浮かべてペコリと頭を下げると、再び俺の手を取ってマンションのエントランスへと駆けだしていく。
「さ、私たちも早くお部屋に戻りましょう! 今朝はベーコンエッグにしたんです。パンももう焼けてますし、スープとサラダも用意しましたっ!」
「ははっ! そいつはいいな。楽しみだ!」
永久に手を引かれた俺は、一度サダヨさんに目線だけで挨拶すると、そのままエントランスからオートロックを解除する。だがその時、背後からサダヨさんが俺に声をかけた。
「待ちな悠生……〝オーナー〟がアンタに用があるって……後で連絡してみな……」
「直接俺に……? わかった。いつもありがとな、サダヨさん」
「クヒヒッ……!」
サダヨさんのその言葉に、俺はひらひらと手を振って応える。
そして今度こそ、永久と共にその場を後にした――――。
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