それからの日々は、まるで世界そのものが色をなくしたようだった。
相変わらず殺しの者は都市の者と交わることを禁じられてはいたが、国での俺たちの生業は神聖不可侵として崇められ、人々の見る目も徐々に変わっていった。
みすぼらしかった俺たちの住む一角は、都市と同様に整備され、厳かな装飾や植栽で彩られるようになった。
だが俺も、俺と同じように愛する者を失った仲間たちの傷は深く。
煌びやかになった街並みや家、俺たちの見た目とは裏腹に、心は色あせていた。
たとえ貧しくとも、蔑まれていようとも。
それでも俺たちは、かつての方が幸せだった。
愛する妻と、我が子の誕生を心待ちにしていた日々。
心を許せる仲間とともに、手を取り合って、肩を寄せ合って生きていた日々が。
それこそが、俺にとっての幸せだったんだ。
そんな、灰色に色あせた世界で、いつしか俺は、日々の終わりに大神エールに願うようになっていた。
〝どうか、もう一度愛するイーアに会わせて下さい。生まれてくるはずだった我が子を、この腕に抱くことをお許し下さい。それが叶うのならば、私は全てを捧げて神々に尽くします〟
それは、俺の嘘偽りない願いだった。
もしもその願いが叶うのならば、たとえどのような困難だろうと乗り越えてみせる。どんな犠牲が伴おうとも構わない。そう思っていた。
イーア……。
君は今、暗く冷たい冥界のどこかで我が子と共にあるのだろうか。
俺がこの命を神に捧げれば、俺も君の所へ逝けるのだろうか。
二人で決めていた、我が子の名前。
息子であれば、大空を意味する〝ユーセ〟と。
娘であれば、大海を意味する〝トワ〟と。
日が暮れる前の、紅く染まった荒野の墓標。
多くの仲間と共に眠る妻の墓標の前で、俺は毎日のようにそう語りかけ、生きたまま死んだようにして日々を送っていた。
だが――――。
『――――しかし、驚くほど順調に事が進みましたね』
『当然だ……この私を誰だと思っている?』
それは、あの疫病から一年と少しが経った頃。
なんということはない。盗みの弾みで一人を殺めた罪人の首を取り、一人神殿の安置所へと赴いていた俺の耳に、その声は聞こえてきた。
『以前から貴方は、殺しの者が自らの待遇に不満を持ち、反乱を起こすことを最も危惧されていた。殺しの力だけとはいえ、彼らは貴方たち以外で唯一、エールの力を授けられた者たちですからね』
『まったく……我らが偉大なる過去の王たちも、厄介な仕組みを遺したものだ。あのような穢れに満ちた者たちに、大きな力をわざわざ授けるなど』
俺は殺しの者として、大神エールから授けられた力以外にも、自ら様々な修練を積んできた。その中には、この神殿内部のように分厚い壁で区切られた場所であっても、物音を正確に拾う力も含まれる。
そして間違いない。
その声はエヌア様と、エヌア様が常に付き従えている〝四柱の神〟の声だった。
九人の使徒と違い、エヌア様の傍を離れることがない四柱の神は、エヌア様との会話以外でそのお声を聞くことは出来ない。
だがそれだけに、俺はその特徴的な、耳ではなく心奥に響くような声をはっきりと覚えていた。
『だから、貴方は殺しの者を消し去りたかった……彼らの力を奪い、出来ることなら根絶やしにしたいと、そう考えていた』
『本心ではそうだ……だが、私は〝慈悲深き神の使徒〟。そのような野蛮な行いは、私の魂を奴ら殺しの者と同じ穢れに落とすことになる』
なん、だ……?
エヌア様は、なにを……?
何を、仰っている……?
俺は身を潜めることすら忘れ、ただ罪人の首を抱えたまま通路に立ち尽くすことしか出来なかった。五感全てが会話に注がれ、その会話の内容をどうにか理解しようと、全身が粟立つのを感じた。
『故に〝半分だ〟。正確には半分と少々を殺して奴らの力を削ぎ、その上で待遇を向上させ、不満のくみ取りを施した。これで少なくとも、私の治世において殺しの者が私に叛意を抱くことはないだろう』
『疫病が殺しの者の居住区にだけ蔓延したのも、都合よく殺しの者の人数が半減するよう指定したのも、どちらも貴方がそう〝エールに願ったから〟だというのに……我が主ながら、本当に恐ろしいお方です』
分厚い壁を隔てた向こう側から聞こえてきた二人の声。
初め、俺の心は会話の内容を理解することを拒否しているようだった。
理解すれば……受け入れてしまえば、それは俺が今まで積み上げてきた全ての崩壊を意味する。俺という存在の全ての死を意味する。
咄嗟にそう判断した俺の心は、その話の理解をなんとか拒もうとした。
しかし――――。
『あの場での迫真の演技には、作られた身である私も笑いを堪えるのに苦労しましたよ。自らばらまいた病に、貴方自身がかかることなど決してないというのに』
『ふん……私とて、あの場で発した言葉の全てが偽りだったわけではない。特に、当代の主であるアルトは実に御しやすく、殺してしまうには惜しかった。あの無垢な心と私への忠誠……〝犬〟にも似て、実に愛らしい奴よ』
たとえ俺の心が理解を拒否しようとも。
それ以上、聞くことを拒もうとも。
まるで地の底から響く悪魔の舌のように伸びたその言葉は、すでに俺の心を何重にも掴み、離すことはなかった。
嘘だ。
エヌア様があの疫病を蒔いたと?
俺たちだけが死ぬように。俺たちの半分が死ぬように、神に願ったと?
俺たちを穢れと。
俺たちが、国の邪魔だったと。
だから、神に願って殺したと。
俺の妻と、我が子を。
千人を超える仲間の命を。
〝俺たちの死を願ったと〟
ただ神に願っただけで……殺したと。
『それにな……私は奴との約束を一つも違えてはいないぞ? より豊かな暮らし、人々からの尊敬の眼差し。どれもそのとおりに与えたではないか。施政者とはな、虚と酷薄だけでは駄目なのだ。常に国と民のことを考え、深い慈悲と恵みをも与えられてこそ真の施政者……この私のようにな』
『ええ、ええ……全くもって、貴方は恐ろしく、素晴らしい指導者ですとも。エヌア様……』
色褪せ、灰色になっていた俺の世界に〝色〟が戻ってくる。
だが……その色はもはや、かつてと同じではなかった。
〝紅〟
今までに俺が手にかけた、無数の罪人たち。
彼らが目の前で流したどんな鮮血よりも鮮やかで、おぞましい紅。
全てを塗り潰す殺意。
それがそのまま色を得たかのような、深い紅。
俺の視界が、感情が、思考が。
全てがその紅に染まっていくのを、俺はただ呆然と見ていた。
「……殺す」
その言葉を発したのは、俺だったのだろうか。
いつのまにか、俺は抱えていた罪人の首を力なく取り落とし、分厚い神殿の壁面。その遙か向こう側にいるであろう存在を、血の涙を流しながら射貫いていた。
〝ツヨイ……ネガイ〟
だがその時。今にもその手を振り上げ、与えられた力で全てを断ち切ろうとした俺の心に、聞き覚えのない声が届いた。
〝ネガイヲ……ササゲヨ〟
願い。
願いだと?
今さらそんなものが何になる。
俺にはもう何もない。
全てを失った。
命も、願いも。
俺自身の生き様すらも。
もう何もない。
俺が何度願っても、決して叶うことなどなかったにも関わらず。
この期に及んで願いだと?
突然聞こえてきたその声を、俺は無視した。
手を振り上げ、自分自身を殺意そのものと化し。
生まれて初めて殺してやると。
絶対に殺さなければならないという、強烈な殺意に全てを委ねた。
〝ネガエ……ネガエ……ネガエ〟
黙れ。
黙れ黙れ黙れ。
何が願いだ。
何が願いだ。
その願いによって、俺は全てを失った。
そして、もう戻ってくることはない。
〝ネガ、エ……オマエノ、ネガイ……〟
黙れ。
そんなに願って欲しいなら願ってやる。
殺す。
全てを殺す。
俺から全てを奪った、この先にいる男を殺す。
殺す。
殺す。
殺す。
殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。
殺す。
そうだ。
殺してやる。
俺から全てを奪ったお前を。
俺から奪おうとする者全てを。
それが……それだけが。
この俺に残された、最後の願いだ。
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