4月も下旬ともなれば、暖かいを通り越して暑いと感じる日もある。今日はまさにそういう日で、制服であるブレザーを着た身体を、容赦なく日光が照らしてくる。おかげで服の中では汗が流れ始めていた。俺としては早く家に帰って着替えをしたかったが、今日はある人に呼び出されて、学校近くの公園にある噴水の前で待つことになっている。指定された時間まであと1分。待ち人はまだ来ない。
「柏先輩、まだかな……」
そう、俺を呼び出したのはこれまで何度も命を狙われ続け、その全てを本人の意志に反して生き残ることになってしまったある意味薄幸の女性、柏恵美その人である。
俺は柏先輩に出会ったことで、これまでの考え方が大きく変わった。彼女に会うまでの自分がいかに独りよがりだったか。そしていかに罪深い存在だったか。暴力的なまでに思い知らされた。
もちろん、俺を変えたのは柏先輩だけではない。柏先輩の支配者である黛さん、その二人の良き友人である樫添先輩、戦いの末に親友の穢れを受け入れた柳端、厳しい目で見守ってくれた御神酒先生、そして……俺を導いてくれた大切な人である閂先輩。
彼ら一人一人が、萱愛小霧という人間を大きく変えた。だが、そのきっかけを作ったのは間違いなく柏先輩である。だから柏先輩には感謝しているし、誘いを無下にするつもりもない。もちろん、最優先は閂先輩ではあるが。
そう考えていると、俺の前に柏先輩らしきショートカットの女性の姿が映る。
「やあ、突然の呼び出しに応じてくれて感謝するよ、萱愛くん」
現れた柏先輩は、いつも通りの女性としては低めの声を発し、芝居がかった口調で話す。この口調にもすっかり慣れてしまった。
「いえいえ、今日は用事もなかったので、大丈夫ですよ」
「ふむ、愛しの彼女は君を放置して大学生活を満喫しているようだね」
「いやその、放置されているわけじゃ、ないです……」
「ふふ、君の彼女は私と違って、容赦ない絶望に浸る趣味はないそうだからね。大学で『狩る側の存在』に目を付けられる前に、君が守ってあげたまえ」
「は、はい」
柏先輩は、なにかと俺と閂先輩の関係についてからかってくる気がする。閂先輩を怒らせて、自分を殺しに来てほしいのだろうか。
「それで、今日はどうしたんですか?」
「ああ、実は君にどうしても会いたいという人物がいてね。もうすぐこちらに来ると思うのだが」
俺に会いたい人物? 一体誰だろうか。
少し考えてみたが、思い当たるフシはない。
「おや、来たようだね」
柏先輩は俺の後方に視線を向けて、右手を上げる。どうやら件の人物は俺の後ろにいるようだ。振り返ってみると、そこには俺より少し背が低いが、ガッチリとした体格でスポーツ刈りの男性が立っていた。 そして俺はその男性の顔を見て、思わず口に出してしまう。
「え? し、識霧さん?」
「久しぶりだな、小霧」
俺はこの男性を知っている。直接会うのは実に数年ぶりではあるものの、その顔ははっきり覚えている。
この人の名前は、斧寺識霧。俺の母親の弟……つまり俺の叔父にあたる人物だった。
「ふむ、萱愛くんと斧寺くんの再会はこんなものか。もう少し大きなリアクションを期待していたのだが」
「え、いやちょっと待って下さい。柏先輩が俺に会わせようとしていた人って、識霧さんなんですか?」
「その通りだが、何か問題があるのかね?」
「も、問題っていうか……そもそも二人は知り合いなんですか?」
「ああ、まずはそこから説明しなければならないね」
柏先輩がそう言うと、識霧さんはその横に立った。
「実を言うと……俺は恵美の後見人なんだ」
「は?」
「私の両親が他界していることは話したと思うが、親族のいない私の世話をしてくれたのが、彼だということだよ」
「え、ええ!?」
識霧さんが、柏先輩の後見人? そんなの聞いてないぞ。そもそもなんで?
「小霧、立ち話もなんだから、そこのベンチで落ち着いて話そうか」
「は、はい」
俺は識霧さんに促されるままにベンチに座った。
それから十分ほど、俺は識霧さんと世間話を交わしていたが、みるみるうちに彼の顔が意外なものをみるかのように変わっていった。
「いや、本当に変わったんだな小霧。昔のお前は姉貴に似て、本当に堅いヤツだったよなあ。俺に対しても、『タバコは身体に悪いです!』って説教してきたっけ」
「す、すみませんでした」
「謝るなって。あれはあれでお前の良さだとは思ってたんだよ。まあ、俺としては姉貴に似ていくお前が苦手だったけどな」
「やっぱり、そうなんですか……」
「姉貴とは、前からソリが合わないからな」
識霧さんは俺の母親……つまり実の姉と仲が悪い。というより母さんは、俺の祖父であり自分の父親であった斧寺霧人を蛇蝎のごとく嫌っていた。だから識霧さんというより、じいさんに関わる全ての人が気にくわないのだろう。
「でも、今のお前はある意味角が取れたって感じだな。根っこは変わってないけど、無用な衝突は避ける選択ができるようになったというか」
「それが良いことなのかはわかりません。ですけど俺も、高校に入って様々なことを経験したんです。その結果が、今に繋がってます」
「そうかそうか。その辺りは恵美に聞いたよ」
識霧さんは柏先輩を見る。そういえば、どうして識霧さんが柏先輩の後見人なんだろうか。
「あの、識霧さん」
「斧寺くんが私の後見人になったのは、君の祖父が殉職した事件に関わっているよ」
俺の疑問に答えたのは、柏先輩だった。
「俺の親父、つまりお前のじいさんが刑事だったことは覚えてるか?」
「はい、俺が小さい頃に殉職したとも聞きました」
「実はな……親父は恵美をかばって殉職したんだ」
「え!?」
「親父は恵美の父親が殺された事件を担当していた。その過程で、犯人に恵美を攫われてしまったんだよ。それで、恵美を助け出そうとして犯人に撃たれちまったらしい」
「そう、だったんですか……」
まさか、俺と柏先輩にそんな繋がりがあったなんて。
「親父が撃たれたって聞いて向かった病院で初めて恵美と出会ったんだが、なぜか赤の他人とは思えなくてな。『絶望が人を救う』っていう考え方とか、口調とかが親父とそっくりでさ。だから俺が恵美が大人になるまで後見人になるって申し出たんだ」
「そういうことだよ。斧寺くんには現在に至るまで、非常に世話になった」
「ほら、こういう口調とか、まさに親父のまんまなんだよな」
確かに、記憶の中のじいさんの口調と、柏さんの口調はよく似ている。まるで中身がそのまま移ったかのように。
「じゃあ、今日はそれを打ち明けるために来たってことですか?」
「いや、それよりもっとお前に関わることを伝えに来た」
「俺に、関わること?」
「済まないが恵美、ちょっと外してくれるか? ここからは俺と小霧の二人で話をしたい」
「構わないよ、じっくりと親族間で親睦を深めたまえ。私は家に帰るとするよ」
識霧さんに促されるまま、柏先輩は立ち上がって公園を立ち去っていった。それを見た識霧さんは、話を切り出す。
「ところでな、小霧。俺は他人の生き方に口出しはしないと決めている。お前が他人に希望を与えたいと思っても、恵美が絶望に浸りたいと思っていても、俺はそれを黙認してきた」
「柏先輩の願望も、知ってるんですね」
「ああ、まあ最近の恵美は、別の絶望を見つけたと語っていたけどな。それはさておき」
識霧さんは俺の目を見る。
「これは俺の警官時代の知り合いから聞いた話なんだが……『ヤツ』がこの街に戻ってきているそうだ」
「……!!」
ヤツ。
識霧さんが『ヤツ』と呼ぶ人間は、一人しか思い当たらない。だけど俺は、確認した。
「一応聞きますが、『ヤツ』というのは……」
「陽泉のことだ」
「そう、ですよね……」
陽泉。その名前を久しぶりに聞いた俺は、身体の震えを感じる。鼓動が高鳴り、口の中に苦い物が広がる。いつかその時が来るとは覚悟していたが、実際にその時に直面したという事実が俺を追い詰める。
間違いなく、俺は恐怖している。あの人に、陽泉さんに再び会うことを。
「やはり、聞いていなかったのか」
「陽泉さんは……俺を驚かすのが好きですから」
「小霧。さっきも言ったが、俺は他人の生き方に口出しはしない。人間は好きに生きるべきだ。しかしそれは、他人に迷惑をかけない範囲での話だ」
そして識霧さんは、一呼吸置いた後に、言った。
「だが陽泉は、確実にお前とその周りの人間の人生を壊す。俺はそう確信している」
「……だけど、陽泉さんは」
「聞け、小霧! もういいだろう。あいつから離れるのは逃げじゃない。お前の人生を生きるための手段だ!」
「……」
俺が、陽泉さんから逃げる?
そんなことは無理だ。どうあっても、彼の存在は付いて回る。
だって陽泉さんは……
「……とりあえず、俺の連絡先を置いておく。何かあったら連絡しろ。心配ない、警備員はシフトの融通が利く」
そう言って、識霧さんは立ち去っていった。
一方の俺は、考えていた。陽泉さんが帰ってくるとは何を意味するか。おそらくは……
世間的に見れば、それはまさしく理想的なことなのだろう。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!