目の前で涙を流しながら土下座をする飛天阿佐美を見て、私はほっと一息ついた。
「黛センパイ、後小橋川さんを解放してあげてください」
「……わかったわ」
私の言葉に従い、センパイは突きつけていたナイフを退ける。しかし当の後小橋川さん本人は何事も無かったかのように表情が動いていなかった。
だけど、何はともあれこれで決着だ。結果的には誰も傷つかず、誰も死なないで済んだ。今回もどうにかこうにか切り抜けたと言っていいだろう。
「黛センパイ、大丈夫ですか?」
「ええ、まだ足は痛むけどそれ以外の怪我は無いわ」
「ふむ、流石はルリだ。この危機的状況も難なく乗り越えるとはね」
「何言ってるの。エミと樫添さんがいなかったらどうなってたかわからなかったわよ」
センパイはああ言ってはいるが、何も言わずとも私の意図を察し、後小橋川さんにナイフを突きつけた決断力は流石の一言だ。やはりセンパイは覚悟が違う。
「さて樫添くん、これにて一件落着といったところかな?」
「うん。菊江くん、あなたももう降参したってことでいいの?」
私は飛天の後ろでどこかすっきりした表情をしていた菊江くんを見る。
「……はい。こう言ったらアレですけど、これでよかったんだと思います。俺たちのやっていたことは、やはり八つ当たりで責任転嫁でしかなかった。樫添先輩の言った通り、前に進む為の行動ではなかった。だから、俺たちは負けたんです」
「そう……」
菊江くんがなぜ飛天に協力していたかは詳しくは知らない。だけど彼も後小橋川さんの顔を傷つけた罪悪感で前に進めなかったのだろう。
「樫添さん……」
床に頭を着けていた飛天はようやく頭を上げて、私を見た。その表情はもう黛センパイとも先ほどまでの『レプリカ』とも違う、涙でグチャグチャになった弱々しいものだった。
「……申し訳なかったよ。私はこれから警察に自首する。何なら私がいかに愚かなことをしたかと証言してくれてもいい。私は……」
「謝る相手が違うんじゃないの?」
謝罪の言葉を遮った私に対し、飛天は目を丸くしていた。そして今度は黛センパイが口を開く。
「アンタが自首したいのなら好きにすればいいわ。だけど私たちは被害届を出すつもりはないし、アンタが大人しくしていればそれでいい」
「だけど、私は……!」
「アンタ、『弱い自分のままでいたくない』って言ってたわよね? だったら教えてあげる。そうやって友達と向き合わないままだったらアンタは一生、虫けら以下のザコのままだわ」
「……!」
……私も、そして黛センパイも、かつて友達にしっかり向き合わずに暴走してしまった経験がある。そうした彼女だからこそ、飛天に忠告しているのだろう。私としても同じ意見だ。
「だったら、ちゃんと相手を選んで謝りなさいよ。ねえ、樫添さん?」
「う……私に振るんですか。とにかく、アンタが一番謝るべき相手がいるんじゃないの?」
そして私は後ろにいる後小橋川さんを見る。彼女は無表情で飛天を見つめていた。
「カオルコ……」
飛天は立ち上がり、その後ろにいた菊江くんもその横に並んだ。
「後小橋川さん、俺が、俺たちが君にしたことは決して許されることじゃない」
「だけどもう、私たちは自分のやったことから逃げない。カオルコが私たちにどんな思いを抱いていたとしても受け入れる」
「だから……」
そして二人は、同時に頭を下げた。
「「本当に、ごめんなさい」」
……おそらく二人はこの一言を言うのに随分と遠回りをしたのだろう。その過程で私たちを巻き込んでしまったのだろう。だけどこれでよかったのだ。これで……
「二人とも、頭を上げて」
後小橋川さんは二人に声をかける。
「さっきも言ったけど、私はアサミのことも、それに菊江くんのことも別に怒ってないよ」
「カオルコ……! じゃあ……」
「ぶっちゃけた話、どうでもいいし」
「……!!?」
え? 今、彼女は何て言った?
飛天も、菊江くんも、黛センパイも、そして私も予想外の言葉に驚いている。柏ちゃんだけは彼女を興味深そうに見ていた。
「え、あ、カオルコ……? それ、どういう……?」
「そのままの意味だよ。私にとってはもう、全てがどうでもいいの。アサミが私を助けられなかったとかどうとか、正直興味ない。私にとっての今は、全て死ぬまでの待機時間なの」
「え……? 死ぬまでの……?」
そうだ。そういえば普段から彼女は言っていた。『何をしていても同じ』だと。そして『死ぬまでにはまだ時間がある』とも言っていた。
だけどどうしてこのタイミングでそれを言うのだろうか。やっと飛天が後小橋川さんと向き合うようになったこのタイミングでなぜそれを言うのだろうか。
「私にとってはもう、全てがどうでもいいの。そう……」
だけどその答えは直ぐにわかった。
「柏先輩、以外は」
彼女が隠し持っていたカッターを隣にいた柏ちゃんの首に突きつけたことで直ぐにわかった。
「エミ!」
「動かないで!」
黛センパイが動くより早く、後小橋川さんは柏ちゃんの背後に回り、首にカッターを押し当てる。柏ちゃんはこの状況においても平然としていたが、それは彼女の普段を考えれば当然のことだろう。
それより問題は、この状況だ。後小橋川さんは何故か柏ちゃんを殺そうとしている。
だけど私には、いや私たちには思い当たる原因が一つだけあった。そもそも彼女が柏ちゃんに好意を抱いているという話を聞いた時点で思いつくべきだったのだ。
「……やっと柏先輩に触れることが出来た。ああ、せんぱぁい。私はずっとあなたを手に入れたかったんです。どうせもう、私には人並みの人生なんて送れない。もう、私にはあなたしかいないんです。ですから……」
彼女は――
「私と一緒に、死んでくれますね?」
――『成香』だ。
「カオルコ! これは一体どういうことなんだ!?」
「言ったでしょ。私にはもう、柏先輩以外のことは全てどうでもいいの。アサミのことも、菊江くんのことも。顔にこんな大きな傷のある私なんて、きっと幸せにはなれない。それなら好きな人と一緒に死にたい。別に変なことじゃないでしょ?」
後小橋川さんは酷く粘着質な笑みを浮かべながら、恍惚さを滲ませた声で語る。その様は異常としか言いようがないが、私たちはこの光景を何度か目にしている。
『成香』として、変貌した者の顔だ。その証拠に、黛センパイがあからさまな嫌悪を表している。
「ほう? 後小橋川くん。君はそういう意味で私のことが好きだったのかね。何とも光栄なことだ」
「ああ、柏先輩に誉めてもらえたぁ。すごいなあ、今日はなんていい日なんだろう」
「さてルリ、こうなってしまった以上、私は絶体絶命だ。どうしたものだろうね」
「……」
柏ちゃんの問いかけに、何故かセンパイは答えない。
「後小橋川さん! 殺すなら俺を殺してくれ! 君が恨むべきは俺のはずだ!」
「だからぁ、私は君のことなんてどうでもいいの。怪我したのも事故みたいなものだって思ってるし。気安く呼ばないでくれない?」
「そんな……」
菊江くんの顔が絶望に染まる。その言葉は彼の心を抉るのには十分すぎるだろう。
「さてと、じゃあ柏先輩。邪魔されないところに行きましょうか。そして二人でゆっくりと最期の時を過ごしましょうねえ」
後小橋川さんは柏ちゃんにカッターを押し当てたまま、廊下に下がる。廊下の脇の通路に入ると、そこにあった浴室に二人で入り、カギをかけてしまった。
「セ、センパイ! どうにかしてドアをこじ開けないと!」
「落ち着いて、樫添さん。おそらくエミは大丈夫なはずよ」
「何でそんなことがわかるんですか!?」
「逆に何でわからないの?」
極めて冷静なセンパイの態度に、私も黙ってしまう。
「樫添さん、さっき後小橋川はこう言った。『私と一緒に死んでほしい』って。つまりアイツはエミを殺した後に自分も死ぬつもりなのよ」
「あ、じゃあ……」
そうだ、柏ちゃんの望みは、『狩る側の存在に容赦なく殺されること』。そして彼女の求める『狩る側の存在』とは、『自分を死という形で永遠に支配する存在』のこと。
決して、自分と一緒に死ぬような、同等の存在ではないのだ。
「見てなさい、樫添さん。エミは自分を望む形で殺してくれない相手には……」
そうだ、そういう相手には……
「案外、容赦ないわよ」
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