【50年前】
救うんだ。
「アイツが斧寺か……配属早々、パトロール中に空き家に潜んでた逃亡犯を捕まえたっていう……」
「ここ数年の若手の中でも一番の有望株ですよ。なんでもアイツ、市内の地図が全部頭に入ってて、人が身を隠しやすいところも全部アタリをつけてるらしいですよ」
警察官になったのは、人を救うためだ。困っている人を助け、犯罪者を逮捕して更生に繋げ、人々が安心して暮らせる社会を作るためだ。
そのためなら、どんな努力だって惜しまない。
【48年前】
救うんだ。
「なあ斧寺。お前は署長からも一目置かれてるし、俺の目から見ても優秀な警官だと思う。ただな、もう少し後輩とも上手く会話できないか? 実を言うと、お前と組ませた新人が全員転属願いを出しててな……お前の言ってることが良く分からなくて仕事が辛いと……」
分からないのなら、分からなくていい。私のやり方で人を救えればいい。
【47年前】
救うんだ。
「君が斧寺くんか。噂は聞いてるよ、刑事課へようこそ」
足を使って動き回る方が私には向いている。その方が人を救えるかもしれない。
【46年前】
救うんだ。
「斧寺くん。君もそろそろいい歳だし、身を固めるつもりはないか? いや、君が仕事熱心なのはわかるんだが、上からお見合いの話が来ていてな……」
自分が家族を持つなんてイメージは湧かない。しかし、上司が不安に思っているのなら顔を出すくらいはいいだろう。
【40年前】
救うんだ。
「なんでお父さんはわたしの誕生日にも帰ってこなかったの!?」
「やめなさい霧華。お父さんはお仕事が忙しかっただけなのよ」
「嘘だ! お父さんはわたしが嫌いなんだ!」
「霧華! そんなことを言っちゃいけません!」
私は誰も嫌ってはいない。誰かが私を嫌うことがあっても、私が誰かを嫌うことはない。人を救いたいと思っている私が、誰かを嫌うはずもない。
【33年前】
救うんだ。
「斧寺主任、この間の殺人未遂事件の被害者の妻が来訪しているのですが……追い返しますか? え、お会いする? わかりました」
私はいくら恨まれても別に構わない。
「なんでもっと遅くに駆けつけなかったのよ! アイツがちゃんと死んでいれば、私はこれ以上苦しまずに済んだのに!」
しかし私の行いが人々を不幸に突き落としてしまうのであれば、やり方は考えなければならない。
【28年前】
救うんだ。
「なあ父さん、なんで俺たち家族はこんなにギスギスしてるんだよ? なんで父さんは俺とも母さんとも姉貴ともロクに会話しないんだよ? 周りからしたら何も問題ない家族なのかもしれないけど、俺はそうは思えねえよ」
人を救おうとすればするほど、私の理想から遠ざかっていく。世の中における『幸福』は、私の思う『幸福』とズレているのかもしれない。
【25年前】
救うんだ。
「霧人さん、私はいつまで『良き妻』でなければいけませんか? 私はいつまであなたの本心を探って、怯える日々を送らなければいけませんか? あなたも『良き夫』であろうとしているのはわかります。ですが私は……あなたに『希望』を抱けません」
妻はいつも私に怯えていた。それと同時に、私の真意を悟っていた。
だから私は、妻を『絶望』で救った。
【24年前】
救うんだ。
「やめろ姉貴! 親父だって悲しいんだ! 悲しいはずなんだ!」
「違う! コイツは母さんの死を悲しんでなんかいない! こんな男が私の父親だなんて認めない! コイツさえいなければ母さんは……! こんなヤツの血が私の中に流れてるはずがない!」
「なあ親父、俺はアンタを信じたい。でも、姉貴の気持ちもわかるんだ。俺は時々、疑っちまうんだよ……親父は本当に……俺たちの親なのか?」
私は霧華と識霧の父親だ。それは間違いない。
ただ私は、子供たちも他の人間たちも同じく救いたいと考えている。
【21年前】
救うんだ。
「『絶望』が私を救うという意味を持たせられるなら……私のことを『アキヒト』と呼んで欲しいです」
たとえ一般的な道からズレていたとしても、人を救うためにはどんな努力も惜しまない。
【15年前】
救うんだ。
「君の『絶望』については唐沢くんから聞いているよ。今まで無理をして役者を続けて疲れただろう?」
「い、いやだ、俺は、やっと……」
「君が嫌いな『権力』を手放して、自由になりたまえ」
何も期待しなくていい。『希望』に縋りつかなくていい。私がその道を示すんだ。
【14年前】
「……じいちゃん? じいちゃん!」
「ん? ああ、済まないね小霧」
縁側で座っているうちにウトウトしてしまった私を、孫の小霧は心配そうに覗き込んだ。
「じいちゃん大丈夫? おしごとで疲れてるの?」
「そうかもしれないね。この程度で疲れているようでは務まらない仕事なのだが、情けない話だよ」
「えーと、よくわかんないけど、じいちゃんはおしごとを休めないの?」
「休みたいと考えたことなどないよ。小霧も含めた世の中の人たちが幸せに暮らせる世の中を作るための仕事なのだからね。明日もまた仕事があるのだよ」
「じゃあぼくが大きくなってじいちゃんの代わりに働いたら、じいちゃんも幸せに暮らせるの?」
「何を言っているのだね? 私が幸せになる必要などないだろう」
私の返答に、小霧は目を丸くした後、悲しそうに俯いた。
「……なんでそんなこわいこと言うの?」
「どうしたのだね?」
「お母さんとじいちゃんがそんなに仲良くないのは知ってる。でもお母さんはぼくに『困っている人を助ける人になりなさい』って言ってて、じいちゃんも困っている人を助けようとしてる。なのになんでじいちゃんとお母さんはケンカしてるの? なんでじいちゃんはお母さんとケンカしててもそんなに平気なの?」
そして小霧の両目から涙が溢れ出した。
「なんでぼくは、じいちゃんを助けちゃいけないの?」
……ああ、若い頃に感じていた予感は当たっていた。やはり私は家族など持つべきではなかったのだ。
私は私自身を救いたいとはどうしても思えなかった。自分を救っている間に他の人間の幸福を切り捨てる道を選べなかった。そんな私が家族を持てば、私を家族の一員だと考えている人間はどうしても不幸になる。
だから私は、小霧にこの道しか示せない。
「小霧、人は希望では救えないのだよ。そうだね、直接的な表現をすると……人を救うのは、絶望だ。そう言っているのだよ」
「ぜつぼう?」
「お前は私を助けられないし助けなくていい。そう考えれば、お前は私のことなど気にかけず、私以外の多くの人間を助けられるのだよ。霧華の望み通りにね」
しかし小霧は、尚も震えた声で言った。
「やだよじいちゃん。ぼくはじいちゃんも助けたいよ。誰もかなしい気持ちになってほしくないよ」
それが、小霧と交わした最後の会話だった。
【14年前】
「ぐ、は……」
「これ以上あんたの狂った考えを聞いていられるか!」
私はこの時、部下である真田に撃たれて自分の命の終わりを悟った。血を流して倒れ伏す私を見ても、目の前にいる少女――柏恵美は無表情のままだ。
彼女はずっと感情を出さなかった。私に対しても親である柏恵介に対しても感情らしきものを見せなかった。
しかし彼女は私に足りないものを持ち、私は彼女に足りないものを持っていた。
だから……私は……
※※※
【16年前】
たすけてほしい。
「なんとか言ったらどうなんだ! 恵美!」
おとうさんはわたしを叩く。叩かれるのは別にイヤじゃないけど、叩かれることに対して何を思えばいいのかわからない。でもおとうさんはそれが気に入らないみたいだった。
「なんだその目は? なぜ私の言うことを聞けない? なぜお前は泣きも笑いもしない? それでも私の娘か!?」
もう一回叩かれてもわたしの目から涙は出なかった。出ないんだからしょうがない。悲しくもないんだからしょうがない。
そもそも悲しいってなんだろう。楽しいってなんだろう。
「恵介さん。もうそれくらいに……」
「黙れ!」
「あうっ!!」
今度はおかあさんが叩かれた。
「お前、まだ斧寺と会ってるらしいな。なぜだ? お前は私より斧寺の方が恐ろしいっていうのか? 私より斧寺の方が力があると考えているのか!?」
「……ええ、そうですよ」
「お前……!!」
おとうさんに叩かれても、おかあさんはわたしを見て笑ってくる。
「恵美はいい子です。あなたにこんなに叩かれても文句ひとつ言わない。あなたは自分に逆らわない人がお好きなのでしょう? わたしも恵美も、あなたの思い通りに、あなたより弱くて力のない人間としてあなたに従っています。それがご不満ですか?」
「コイツがいい子だと? 私を恐れるわけでもなく、私に媚びるわけでもなく、カカシみたいに突っ立ってるコイツがか!? お前も! 恵美も! なぜ私より斧寺を恐れる!? なぜ私より斧寺に従う!? アイツさえいなければ私は自分の力を信じられたんだ!」
「斧寺さんは初めからあなたのことを心配されていましたよ。『権力』なんてくだらないものに縋るあなたのことを。だから私のことを紹介したんです」
「じゃあお前は最初から……!?」
「ええ、そうです。心が晴れやかになるでしょう? 自分が絶対に勝てない相手に翻弄されるのって」
おとうさんもおかあさんもなにを言ってるのかわからなかったけど、それ以上におとうさんの顔が『悲しい』のか『楽しい』のかもわからなかった。
【15年前】
たすけてほしい。
「『たすけてほしい』って、何からたすけてほしいの? エミちゃん」
クロエおねえちゃんにそう聞かれても、それもわからない。『たすけてもらう』というのがどういうことなのかわからない。
「だったらさ、とりあえずみんなに嫌われてみたら? そうすれば楽しい気持ちにはなるよ!」
嫌われているっていうのが『楽しい』ってことなんだろうか。でも、クロエおねえちゃんの顔はおかあさんと同じように笑っている。たぶんわたしがお父さんに叩かれている時の顔とは違う。
「ああそうか、エミちゃんはきっと自分がどうなりたいっていうのがないんだよ。だからエミちゃんはわたしのことも嫌ってくれないんだ」
クロエおねえちゃんを嫌いになったことはないし、おとうさんもおかあさんも嫌いじゃない。
「うん、わかった。じゃあわたしがエミちゃんに、嫌われ方を教えてあげる。そうすればエミちゃんもわたしが嫌いになるかもしれないし、エミちゃんがどうなりたいのかもわかるかもしれないからね」
でも、クロエおねえちゃんはわたしをたすけてくれる。だからクロエおねえちゃんは好きだった。
【14年前】
「ぐ、は……」
「これ以上あんたの狂った考えを聞いていられるか!」
大きい音がした後に目の前でおじいさんがお腹から血を流してその場に倒れる。床にどんどん血が広がっていく。でもわたしはそれがいいことなのか悪いことなのかわからない。
でも、おじいさんが私を見る顔は『楽しそう』だった。
「……これで、やっと、わたしは……」
何か言ったように聞こえたけど、何を言ったのかはわからない。でも、おじいさんの目は最後まで私に向けられてて……
『それ』は、突然起こった。
自分の頭の中に他人の人生が液体のように流れこんでくるような感覚。さっき目の前で息絶えた人物が『斧寺霧人』であり、彼の今までの体験も価値観もずっと心の中で抱えていた『絶望』も、その全てが私の中に欠けていた部分に液体のように流れ込み、固まっていく。
たすけてほしい。
『ならば私が救おう』
救うんだ。
『だから私を助けてほしい』
ああそうか。“私”はずっと自分を助けてくれる『何か』が欲しかった。自分自身が『幸福』だと思うための『何か』が足りなかった。
ああそうか。“私”はずっと私自身を救いたいと思うための『何か』が欲しかった。自分自身の『幸福』を求めるための『何か』が足りなかった。
そして今、ようやくその『何か』は満たされた。
私は、私こそが、『柏恵美』だ。
【5月27日 午後3時20分】
私が自分の『幸福』に不安を抱いたのは棗朝飛との一件が終わった時だった。
「……『狩る側の存在』とは、何なのだろうね」
「え?」
「もしかしたら、私の求めていたものは、幻だったとでもいうのだろうか?」
「エ、エミ?」
棗朝飛は姉である棗夕飛の説得を受け入れ、彼女自身が『夜』と呼んでいた『狩る側の存在』としての残酷さを捨て去った。
信じられなかった。棗朝飛は間違いなく香車くんに匹敵するほどに『狩る側の存在』であり、私が求める『絶望』を叶える存在だった。だがその棗朝飛ですら、家族の愛情を受け入れるために自分の願いを横に置いたのだ。
考えてしまう。私が求めていた『絶望』など、この世界には初めから存在せず、私を容赦なく追い詰めてくれる者も存在せず、ルリでさえいずれ私の元を離れてしまうのではないかと。
私はいずれ、『絶望』を追い求めるのをやめてしまうのではないかと。
それだけはあってはならない。そうなってしまえば私は……
【7月29日 午後4時27分】
子供の頃の記憶を思い返した時、私は『それ』を思い出してしまった。
悲しいってなんだろう。楽しいってなんだろう。
やめろ、やめろ。これは思い出してはならない。これだけは受け入れてはならない。
今の“私”がなくなってしまう。ルリに支配されて、『絶望』を享受している“私”がなくなってしまう。
しかし同時に、これを乗り越えれば私の『絶望』はより強固になるかもしれないという思いもあった。今の“私”がなくなっても、ルリが私を助けに来るのであれば。どんな私であっても、ルリが思う『幸福』を押し付けてくるのであれば……
私は完全に、完膚なきまでに、彼女に支配されていると思える。
ああそうだ。私は……
たすけてほしい。
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