【7月29日 午後0時15分】
『次のニュースです。俳優の白樺隆さんが芸能界を引退すると、先ほど所属事務所を通して発表しました。白樺さんは20年前にサスペンス映画の犯人役で人気を博して以降、多数の映画に出演し……』
大学の食堂のテレビには私が子供の頃にテレビでよく見た俳優が映っていた。とはいえ最近はすっかり見なくなってたし、周りの人も『そういえばそんな人もいたな』といった会話を友達と交わしている。
俳優のことなんてよく知らないし今まで興味もなかったけど、『スタジオ唐沢』のヤツらがエミを狙っている今の状況だと、思うところはある。
弓長くんの事件から一ヶ月弱が経った。先週、私は『スタジオ唐沢』に乗り込もうとしたが、教室があったテナントは既に引き払われていた。唐沢がどこに行ったのかもわからない以上、下手に追うのも危険だ。当面はエミを守ることに集中するべきだろう。
唐沢はエミの中から斧寺霧人なる人物を切り離せば、本来のエミが戻ると言っていた。つまり私と出会ってから今に至るまでのエミは斧寺霧人の影響を受けている状態なのだと。
確かに識霧さんもエミの考えや口調が自分の父親である霧人に似ていると言っていた。彼の日記にも幼い頃のエミは誰か別の人間が乗り移ったかのような言動をしたと書かれていた。
だから私は考えてしまう。
『つまり黛さんは、本来の柏さんには別に興味ないのか』
私が知っているエミは、別の人間が『柏恵美』を演じている姿なのではないかと。
……だけど、それだけだ。エミはどんな状態であろうとエミだ。たとえ私の知るエミから遠ざかったとしても、エミと一緒に生きると決めた。エミの願望を潰して、私に付き合わせると決めた。
私の望みはエミと一緒に生きることであり、自分に都合のいいようにエミを作り変えることじゃない。
それより、そろそろ待ち合わせ時間だ。食堂で待ってると伝えたから、もう来てもいいはず。
入り口に目をやると、見知った顔の男が入ってきていた。向こうも私に気づくと、いつも通りの固い表情で向かってくる。
「待たせたな、黛」
待ち合わせの相手、柳端幸四郎は部外者であるにも関わらずまるで物怖じせずに私の向かいに座った。
「……今日は別行動か? その間に殺されたがりの身勝手女が攫われないといいな、支配者サマ?」
「言ってくれるじゃない。心配しなくても、エミが校内にいるのは確認済み。アンタにとっては私やエミが痛い目見てくれた方が都合がいいかもしれないけどね」
「俺個人の気持ちはそうだが、今は状況が変わった。『スタジオ唐沢』は、俺にとっても無視できない連中だとわかったからな」
「……そうね」
柳端の身に起こったことについては事前に聞かされている。『スタジオ唐沢』に通っていたM高校の後輩が、柳端をたぶらかして仲間に引き入れようとしていたのだと。
結果的にそれは失敗に終わったようだけど、私からしたら安心はできない。柳端は前に『死体同盟』に協力した前科があるし、易々とエミに会わせるわけにはいかない。
「それでだ、事前に連絡した通り、お前や柏に聞きたいことがある」
柳端は私を見据えて言い放つ。
「楢崎久蕗絵という女について、何か知っていることはないか?」
その目にはやはり、私やエミに対する敵意が感じ取れた。
楢崎久蕗絵。『スタジオ唐沢』の演劇講師の一人であり、教室長の唐沢清一郎の部下にあたる女らしい。柳端はその楢崎という女が、生前の棗と連絡を取っていたという理由で警戒しているそうだけど、その名前には全く聞き覚えはない。
「生憎だけど、私がソイツに関して知ってることは何もないわ」
「なら、今すぐ柏に連絡を取って確かめろ。楢崎は確実に柏を知っている。お前にとっても楢崎は警戒すべき対象だぞ」
「アンタがその楢崎って女の指示で動いてないとは限らない。私からしたら、楢崎が棗の知り合いなら、アンタとも見知った仲だと疑うのは当然よ」
「……ちっ、疑り深いヤツだな。俺がこの場でお前を襲うとでも思ってるのか?」
「その可能性はアンタだけじゃなくて、エミと樫添さん以外の全員にあると思ってるわ」
柳端には言わなかったけど、既にエミには楢崎久蕗絵について聞いている。答えは弓長くんの時と同じく、『その名前には覚えがないね』というものだった。この場でエミに電話しても、同じ答えが返ってくるだろう。
「それに、楢崎について聞き出したいならアンタが詰め寄る相手はエミ以外にもいるんじゃないの?」
「どういう意味だ」
「そいつは棗と連絡を取っていたんでしょ? ならアンタが当たるべきは棗の関係者の方よ」
「……夕飛さんには既に聞いた。楢崎のことは知らないそうだ」
「なら、もう一人は?」
「……」
柳端は不機嫌そうに口を閉じたが、私は容赦しない。
「棗朝飛はなんて答えたかって聞いてるのよ」
コイツが朝飛に刺されたのは数か月前のことだ。わだかまりなく会話できる相手とも思えない。
だとしてもそんなことは私には関係ない。エミを疑う前に、棗の関係者から情報を集めてこいと言うのは当然のことだ。
「……朝飛さんには夕飛さんの方で聞いてくれるそうだ。まだ返事は来ていない」
「じゃあ、朝飛は楢崎のことを知っている可能性がある。そういうことね?」
「何が言いたい?」
「私たちを疑う前に、疑うべき相手がいるってことよ」
私としても楢崎は危険人物と認定してもいい相手だ。ただし、警戒する理由は柳端とは大きく違う。
その楢崎という女が、棗香車や棗朝飛の影響を受けて『狩る側の存在』に近い考えを持っていてもおかしくはない。
「黛、お前は……」
「あ、あの! ちょっと、いいで、しょうか!?」
柳端の抗議を遮るように、うわずった声が響き渡る。
横を見ると、長い黒髪と白のノースリーブニットが特徴的な背の高い女性が立っていた。
「あ、ひっ! ご、ごめんなさい! その、お話の邪魔をしちゃって! その、そちらの男の子に用があって……」
女性の視線の先には、驚きで目を見開いた柳端がいた。
「お前……楢崎!!」
「ああ、柳端くん。一ヶ月ぶりですね。いいですよ、そうやって私に敵意を向けてくれて嬉しいです」
ナラサキ。
その名前を聞いた瞬間、事前に想定していた行動に移る。エミと別行動の時に私の前に『スタジオ唐沢』の人間が現れた場合、まずはその場から離れて一刻も早くエミに連絡して合流する。一瞬の迷いもなくそう決断するように何度も体に覚えこませた。アイツが何してこようと関係ない。まずはここから全力で離れる。
なのに。
「ぐっ!」
立ち上がろうとしていた私の身体は、左肩に置かれた楢崎の右手によって止められた。
「ダメ、ダメ、ダメですよ。逃げるんじゃなくて向かってきてくれないと」
相手の言葉を聞く前に、私の身体は次の行動に移っていた。逃げるのに失敗した場合、スタンガンで相手を怯ませる。片方の腕が使えなかったとしてもスタンガンを取り出せるように練習もしてきた。
「なっ!?」
「うん、いいですね。そうやって躊躇いなく私に攻撃してくるの、すごく嬉しいです」
私の右手はスタンガンを取り出す前に、楢崎に掴まれていた。
それなら……! 足を踏んでコイツを怯ませ……!
「ダメですよ」
その前に私の身体は椅子ごと後ろに倒されていた。
「あぐっ!」
「ああっ! ご、ごめんなさい! そ、その、ここまで乱暴するつもりじゃなかったんです!」
言葉とは裏腹に、床に倒れた私の腰の上に体重をかけ、両肩を掴んで完全に動きを封じてくる。
間違いない、コイツの動きは日常的に相手を倒す術を想定している人間の動きだ。
だけど、まだだ。ここは大学の食堂、大声で騒げばコイツも……
「っ!?」
声を出そうとする前に、喉に尖った何かが突き立てられたのを感じた。
「ダメ、ダメ、ダメですよ。もっと私に敵意を向けてください、私という個人を嫌ってください、私を怯えさせてください」
……私はさっきまで、コイツのことを何一つ知らなかった。楢崎久蕗絵という名前と、背の高い若い女という要素しか知らなかった。
だけど今は違う。コイツの言葉を聞き、コイツの表情を見ればわかる。
コイツの目の奥に潜む黒い感情と、恍惚に歪んだ顔を見ればわかる。
「私を安心させないで」
コイツは最初から……棗と同類だ。
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