綾小路が『死体』となるための準備が整うまで、俺は大広間で待たされることとなった。
しかし考えてしまう。俺は何をしているのかと。俺は香車を理解したいという考えから、こんな怪しげな集団のアジトに来てしまった。その上、知り合いを殺す疑似体験までさせられそうになっている。いくらなんでも、迷走しすぎではないかと思ってしまう。
どうする? 今からでも適当な理由を付けて帰るか? いや、そもそもこの『死体同盟』の中で俺と関係があるのは、生花と綾小路だけだ。別に黙って帰ってしまっても後腐れはないはずだ。
だが俺には、どうしても心に引っかかっていることがあった。
『アンタは棗に殺されたいってことにならないかい?』
生花が言ったあの言葉。綾小路も、俺は自分の命を香車に握られているのではないかと指摘した。
俺は今まで、自分の意志で生きているのだと思っていた。しかし現実として、俺は一度、香車の幻影に縋っている。香車が既にこの世にいないことを認めずに、『成香』と成り果てたことがある。
もし、それすらも香車の意志だったとしたら? 俺が今こうして生きているのは、全て香車が俺を殺さなかったからだとしたら?
そして一言、たった一言、香車が俺に対して……
『もう死んでいいよ』と告げてしまったとしたら。
俺はその時、命を投げ出さない自信がない。
「柳端さん、コーヒーお持ちしましたよ」
考え込んでいる間に、湯川と名乗った女子が俺にコーヒーを運んできた。これでもう、黙って帰るのは難しくなったな。
当然のことながら、コーヒーに口をつける気にはならない。カップからたちこめる湯気に目を向けながら、思考は尚も香車に向けられていた。
「そういえば、柳端さんって沢渡さんの元カレなんですよね?」
「あ?」
いつの間にか、湯川は俺の向かいに座っていた。その上、スカートを穿いているにも関わらず、ソファーの上にだらしなく足を投げ出している。そのせいで下着が見えそうになったので、慌てて目を逸らした。
「沢渡さんから聞きましたよ。中学の頃に付き合ってたって」
「ああ、そうだ。仕方なくな」
「なんか意外ですね。沢渡さんの元カレっていうから、もっとチャラい人が来るかと思ってたのに、あなたみたいな短髪のイケメンが来たからびっくりしちゃいました。しかもM高校の人なんですよね? 頭良いんですね」
「ベラベラ喋っているところ悪いが、俺はアンタに身の上話をしに来たわけじゃない」
「あ、そうでしたよね。沢渡さんを追って、ここに来たんですもんね」
これ以上こいつと話していると、俺のことをどんどん追及されそうな気がしたので、黙っていようとした。
「それにしても、あなたの友達の棗って人、すごい魅力的な人なんですね」
だが湯川がいきなり香車のことに触れたので、思わず反応してしまった。
「……香車は、最高の友達だった。俺は今でもそう思っている」
「いいなあ、そこまで言える友達がいたなんて。私なんて、元カレも周りの友達も、バカばっかりとしか思えないですもん」
「そりゃ残念だったな」
「でも私、柳端さんとはいいお友達になれそうだなって思うんですよ。だって……」
湯川はいきなり立ち上がり、俺の顔を覗き込む。
「柳端さんって、私たちと一緒で、『死』を求めてますもんね」
その発言は、生花や綾小路が俺に向けて言った発言と同じものだった。
「だってそうですよね? 柳端さんって、棗さんのことを今でも求めてますもんね」
「……俺は香車のことを理解したいだけだ。お前らと一緒にするな」
「じゃあ棗さんのことが理解できたら、その後はどうするんですか? 柳端さんって、ただ棗さんを理解したいだけじゃないですよね?」「知った風な口を利くな。お前に何がわかる?」
「わかりますよ。だって私たちと同じですもん」
湯川は俺の前に置いてあったコーヒーカップを手に取る。
「『もう人生終わっちゃおうかな』って顔してます」
そしてそのコーヒーカップを、俺の顔の前に差し出した。
「柳端さん、きっとあなたもこの世に未練なんてない人だと思うんです。あなたが求めているのは棗さんですよね? そして棗さんはこの世にはもういない」
「俺は……」
「ね? あなたも『死体同盟』に入りませんか? 別に今すぐ決断しろって言ってるわけじゃないです。私たちは『理想的な死に方』を求めている。あなたも『理想的な死に方』をすれば、許されるかもしれない」
湯川の持つカップが、俺の口にどんどん近づいていく。
これを飲み干したら、俺はこいつらの仲間になるのだろうか? そして俺はそれを求めているのか? 俺は……
「お待たせいたしました、柳端さん」
そこに、空木の声が響いた。それを聞いた湯川は、コーヒーカップを机に置く。
「湯川さん、何をしていたのかはお聞きしませんが、強引なやり方はあまり好ましくありませんよ」
「はい、失礼しました」
「さて、では柳端さん。こちらへどうぞ」
……どうやら、助かったようだ。まだ俺は死人の声を求めるようにはなっていない。
少しの安堵を心に秘めて、俺は空木の先導に従って一階の奥の部屋に入る。
そこには口や腹から血を流し、目を閉じて横たわっている綾小路がいた。
「っ!?」
思わず後ずさってしまう。事前に綾小路の『死体』があると聞かされていたにも関わらず、動揺を隠せない。綾小路は実際には生きているはずなのに、薄暗い部屋の明かりに照らされた『死体』は、綾小路の『生』を否定しているようだった。
「う、あ、これは……?」
「ご安心ください、柳端さん。綾小路さんはもちろん生きています」
「あ、ああ。そう、だよな……」
「ですので、こちらで綾小路さんにトドメを刺して下さい」
空木は無表情で俺に『それ』を手渡した。
そう、赤い血がこびりついている、長く巨大な刃物を。
「あ、綾小路に、トドメを?」
「ええ。そういうお話でしたよね?」
「……い、一応聞くが、大丈夫、なんだよな?」
「なにがでしょうか?」
なにが? そんなものは決まっている。俺が殺人者にならないことの確認だ。
そうだ、大丈夫のはずだ。そもそも綾小路は『死体』を演じているだけのはずだし、この刃物もおそらく演劇用の偽者のはずだ。
しかし俺は、目の前に置かれた綾小路の『死体』に恐れをなしている。薄暗い照明が、綾小路が生きていることを否定している。本当に、俺は今、ただの予行演習をしているだけなのだろうか?
「どうなさいました? これは柳端さんが望んだことでは?」
「俺が……望んだ……?」
「柳端さんはお友達の思いを理解するために、ここを訪れたはずでは?」
そうだ。俺は香車を理解するために、香車が何を考えていたのかを感じるために、今こうして綾小路の『殺害』を体験しているはずなんだ。
なら、やるしかない。俺は、香車を少しでも理解したい。
空木から渡された刃物を両手で持ち、頭の上に振り上げる。
そしてそれを、横たわっている『死体』の腹に思い切り突き立て――
「ごぶっ!!」
その直後、『死体』の口から血液が思い切り吐き出された。
「……あ」
『死体』の腹に黒い血が広がっていく。俺の両手に、何かを突き破った感覚が残っている。
『死体』はまだ目を閉じている。ピクリとも動かない。綾小路は本当に生きているのか? 本当に? 俺はまさかこいつの命を奪ってしまったのではないか?
その疑問が頭に浮かんだ時、俺の喉から熱く酸味のある液体がこみ上げてきて、気づいた時には俺は嘔吐していた。
「ぐぶっ、おええええ……」
大丈夫だ、俺は、綾小路を殺してなんていない。そのはずだ。そうであってくれ。
「……柳端さん。どうやら、あなたは『狩る側の存在』とは対極にいる人のようですね」
「はあ、はあ……」
空木は俺の背中をさすりながら呟く。
「もし『狩る側の存在』が人を殺すことに向いている人間を指すのであれば、あなたは徹底的に人を殺すことに向いていない。この疑似体験にすら、追い詰められてしまうようではね」
「俺が、人を殺すことに、向いていない……?」
その言葉は、そう。
『君は人間としては優れているかもしれないが、狩る側の存在とはほど遠いよ』
いつかの柏の発言と同じものだった。
「柳端さん、あなたのお友達はこの殺人という行為を求めていた。あわよくば、自分の日常に組み込もうとした。それが、棗香車という方です」
香車が、これを、日常に組み込もうとした?
香車はこんなものを楽しんで行おうとしていたのか? こんな、一度だけで、俺をここまで追い詰めてしまうこの行為を?
そうだとしたら……
俺には、香車が、遠すぎる。
気を失いそうな意識をどうにか繋ぎ止めようとするが、俺を支えてくれる人間は、この場には誰もいなかった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!