【7月29日 午後0時40分】
「エミちゃん、行っちゃいましたね」
「追わないのか?」
「私は柳端くんの前にいた方が不安になれますから」
言葉通り、楢崎の目は落ち着かない子供のようにあちこちに泳いでいる。それだけ見れば、この女が俺に睨まれて怯えているのは演技じゃないとは思う。
だからこそ、『不安でありたい』という気持ちは全く理解できなかった。自分を敵視する人間に本気で怯えているのに、コイツは俺が目の前にいる状況が望ましいと言っているのだ。理解できるはずもない。
「なら俺の質問に答えてもらおうか。アンタは香車に何をした? なぜアンタが香車を知っている?」
「私は何もしてませんよ。それに香車くんに会ったのはあれきりです。でも、嬉しかったなあ」
「嬉しかった?」
「香車くんは私に全く心を開かずに、最初から私を嫌って怯えさせてくれたんですから。怖くて怖くて、嬉しかったなあ……」
恍惚の表情で過去を思い返す楢崎に対し、俺の方は疑問が拭えなかった。
香車がコイツを嫌っていた? 俺が知っている香車は誰とでも仲良くなれるヤツだし、利用するためであったとしても、俺に対しても優しく接してくれた。最後に俺を切り捨てたあの時まで、俺を表立って敵視することはなかった。
なのに楢崎に対しては、最初から嫌っていたというのか? そうする理由があったのか?
「質問を変える。アンタに香車を紹介したのは誰だ?」
「あの子のお姉さんですよ。私の大事な大事な人」
「香車に姉はいないはず……」
「あれ? ああ、そういえば正確には姉じゃないって言ってましたね」
そして楢崎はその名前を言ってしまう。
「朝飛さんって、あの子の叔母にあたるんでしたっけ?」
朝飛……!
考えたくなかった。朝飛さんがコイツと関わっているなんて可能性は考えたくなかった。だがそれはただの現実逃避なのだと、今この瞬間に突き付けられた。
当たり前だ、コイツと香車には接点がなさすぎる、共通の知人が間を取り持ったと考えるのが自然だ。だけど……!
そうなると、朝飛さんが楢崎を香車の元に連れて行った理由は……!!
「朝飛さんは……アンタの何なんだ?」
「私の大事な大事な人ですよ。ものすごく怖くて、私をものすごく嫌ってくれる人。一時期ルームシェアもしてましたよ。あの人が香車くんを紹介してくれたんです」
「……なんのために?」
「香車くんなら、自分の代わりに私を殺してくれるんじゃないかって」
……どうしてだ。
どうしてどいつもこいつも『その香車』しか見ないんだ。俺は知っている。香車がどんなに誰かと平和な日常を過ごすために心を砕いてくれたのかを。俺にその一面を見せまいとしていたことを。それを知らずになぜ香車を語れる。
『その香車』しか知らないお前が、俺の前で香車を語るな。
「あ、ひっ! す、すみません! 私のことが嫌いになりましたか?」
「……そんな話を聞かされて好きになると思うのか?」
「お、思いませんよ。嫌ってくれた方が助かります。柳端くんには怖い人であってほしいですからね」
「お前はそうやって相手の神経を逆撫でしないと気が済まないのか?」
「ええ、そうですよ」
「なに?」
「周りに敵しかいないのなら、何も安心しなくていいじゃないですか。怖くて不安で自分を嫌う人に囲まれていたい。とても自然な考えでしょう?」
「……」
今の話を聞いて、俺の中でひとつの結論が出た。
楢崎久蕗絵は、柏恵美以上に危険で理解しがたい女だ。
柏は確かに異常者だが、アイツは自分の願望がこの社会で受け入れられない考えだとある程度自覚している。『殺されたい』と願いながらも、自分を殺した後の香車の人生や自分が殺されるのを止めようとした黛の身を案じていたのがその証拠だ。
だが楢崎は自分の『敵に囲まれていたい』という願望が周りとも共通していると思っている。だから相手を怒らすことに躊躇がない。
つまりコイツと関わる人間は、必然的にコイツを敵視し、怒り続けないとならないのだ。『敵に囲まれていたい』というコイツの身勝手のために。
「どちらにしろ、お前が香車じゃなくて朝飛さんに関わる人間なのはわかった。柏のことも朝飛さんから聞いたのか?」
「エミちゃんのことは前から知ってますよ。それこそ子供の頃から」
「なんだと?」
「あの子が『殺されたい』なんて考える前の、本来のエミちゃんだった時から知ってますよ」
本来の柏だと? そういえば閂が言っていた、唐沢の目的は柏の中に潜む斧寺霧人なる人物を復活させることだと。ならコイツの目的は本来の柏を取り戻すことなのか?
「あ、そうでした。こんなことしてる場合じゃないんだ。今日は柳端くんにぜひお願いがあって来たんですよ」
「俺にだと? というかお前、なんでここに俺がいると……」
そのことに気づくのが遅れたのが、俺の最大のミスだった。
「はーい、ストップ」
「……!!」
低い声が聞こえたと同時に、背中に何かを突き付けられているのに気づいた。クソ、仲間がいたってことか!
いや、この声は……!
「久しぶりだね、柳端くん」
「唐沢……!」
『スタジオ唐沢』の教室長、唐沢清一郎が俺の後ろに立っていた。
「紅蘭ちゃんのこと蹴り飛ばしたんだって? ダメだよー、女の子には優しくしなきゃ」
「アイツを蹴ったのは俺じゃなくて生花だ。文句があるなら生花に直接言えよ。お前らと手を組んだんだろ?」
「うーん? それは……誰のことかな?」
「とぼけるなよ。お前らと手を組んだピンク髪でメガネかけた女のことだ」
「悪いけど、そんな子は知らないねえ」
「ふざけるな、お前らが……!」
叫ぶ前に、俺の肩は強く掴まれた。
「ぐうっ!」
「そんな熱くならないでくれよ。私は君にお願いがあるんだ」
「……言っておくが、俺を人質にしたところで黛はおびき出せないぞ」
「そんなのわかってるさ。でもね、あの子にはもう一人仲間がいるでしょ」
「なに?」
「樫添保奈美さんっていうんだっけ? あの茶髪の女の子は」
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