「ぐっ!!」
何が起こった? 自分が地面に横たわっているのはわかる。背中を打ち付けたからか痛みもある。
しかし見上げてみても弓長くんの姿はない。彼が俺に襲いかかってきたのは確かだけど、彼に殴られたり倒されたわけじゃない。後ろから引っ張られたんだ。
「しっかりしなさいよ! 早く逃げるよ!」
横から聞こえた高い声でようやく状況を理解する。そうか、樫添先輩が間一髪で俺を引っ張って転んだんだ。
寝てる場合じゃない。弓長くんの追撃に備えろ、早く身体を動かせ。
「弓長くんは!?」
立ち上がって周囲を見回すと、左腕で必死に弓長くんを押さえているメイジさんの姿があった。
「おい! お前ら瑠璃子の友達だろ!? 早くここから逃げてアイツと合流しろ!」
「邪魔するなよ! そいつは、僕の親を殺した憎い仇なんだよ!」
「瑠璃子に自分を紹介してくれた先輩に対して、そんな言葉を吐くようなヤツに従う義理はねえな!」
弓長くんのことも気になるが、今は逃げるのが先だ。こっちには俺を除くと女性しかいない。
「柏先輩、財前さん! ここから逃げ……!?」
声をかける前に、柏先輩たちの前には唐沢先生が立ちはだかっていた。
「ふむ、やはり今回の件には君が絡んでいたのだね。唐沢清一郎」
「……聞けば聞くほど、霧人先生みたいな話し方をするねえ」
まずい、唐沢先生の目的はおそらく柏先輩だ。ここで先輩が死ぬようなことがあれば、黛さんは救われない。閂先輩やメイジさんの行動も全て水の泡になってしまう。
「柏ちゃん!」
「待ちたまえ、樫添くん。少しこの男と話がしたいのだが……いや、君がそれを許すはずもないか」
「当たり前でしょ!」
「おいおい、そっちの彼女は血気盛んだけど、私は別に柏さんに何もしちゃいないよ?」
「それは通りませんよ、唐沢先生。あなたはもうメイジさんを傷つけ、弓長くんに俺を襲わせています。ここで俺たちが騒げば警察だってすぐに来るでしょう。大人しく退いてください」
「へえ、以前の君だったらなんとしても私を説得しただろうに、取引するつもりなのかい?」
どちらにしろ、柏先輩がここから逃げようとしないなら警察を呼んで強引に引き離すしかない。右肩を怪我している状態ではメイジさんだって長くは持たないだろう。
「そもそも、小霧くんは『先に襲い掛かって来たのは彼の方だ』という私の主張を信じないのかな? 現にあのメイジくんとやらは私の教室に乗り込んできたんだよ?」
「……確かにメイジさんのことは信用しようがありません。ですが、メイジさんが閂先輩の要請で動いているなら、それで十分です」
以前の俺なら、唐沢先生の言葉に納得したかもしれない。唐沢先生や弓長くんのことを信じた自分の選択を疑おうともしなかっただろうし、現にほんの一時間前まではメイジさんが黛さんや柏先輩の敵なのだと思い込んでいた。
だけどそれらの要素は閂先輩の協力者という事実だけで覆る。あの閂先輩が、俺を救い出す目的で動いている以上、メイジさんが悪人であるはずがない。
「まったく、口を開けば閂先輩、閂先輩と……やっぱり閂さんが君の前に現れたのが良くなかったなあ」
「どういう意味ですか?」
「彼女が君の前に現れなければ、君にも上手く役割を与えられたって意味だよ」
「……まさか!」
「まあいいよ、君は私に波瑠樹を紹介してくれたからね。それだけで役割は果たしてるよ」
この人は、最初から俺を利用するつもりだったと言うのか。俺のことを、目的のための道具としか見ていなかったと言うのか。
俺の信じていたものは……!
「萱愛! さっさと柏ちゃん助け出すよ!」
樫添先輩の声でやるべきことを思い出す。唐沢先生の真意を聞き出すのは、柏先輩を助けてからだ。
「困るなあ。波瑠樹、ハルキ、はぁーるーきぃー」
「はい!」
「『オーダー』だ。『暴漢に襲われたか弱い少女』になってくれ」
「パァン!」という音が響いた直後、弓長くんの顔が怯えたようにひきつっていく。
「だ、誰かぁ! 助けてください! こ、この人がいきなり殴りかかってきたんです!」
「っ!? テメエ、何を!?」
まずい! 弓長くんはメイジさんに襲われたと周りの人たちに訴えるつもりだ。俺たちが警察を呼ぶ前に、先に自分たちに味方するように働きかける算段か。
だったら……!!
「弓長くん! 『オーダー』だ!」
「はい?」
「『萱愛小霧のことを助ける頼もしい後輩』になってくれ! お願いだ!」
弓長くんの望みが、誰かの『オーダー』に応えたいというものなら俺の『オーダー』にも応えてくれるはずだ。現に彼は、俺が望んだ『素直な後輩』を今までずっと演じていた。彼の中で、萱愛小霧の存在は決して小さくないはずなんだ。
俺の意図を察した樫添先輩は素早く柏先輩の腕を掴んでいた。
「柏ちゃん!」
「おやおや、さすがに君の動きは速いね」
唐沢先生はそれを止めるわけでもなく、俺に向き直ってくる。
「なるほどね、波瑠樹がどういう人間か理解した上で、更にそれを直そうとはせずに利用するわけだ。本当に変わったねえ、小霧くんは」
「俺のやってることが間違っているのは認めますよ。ですが間違っているのはあなたも同じです。柏先輩は返してもらいますよ」
「まあ、私も君が変わったことは認めてあげるけど、おめでたいのは相変わらずだ。波瑠樹のことを、君は何も理解できていない」
「え?」
「波瑠樹、『追加オーダー』だ。『私のために動いてくれ』」
唐沢先生の言葉を受けて、弓長くんの動きが一瞬止まる。
しかしその直後、誕生日を祝われた子供のように口と目を大きく開いて笑顔を浮かべた。
「わかりました! 唐沢先生! 僕はあなたのために、あなたの望みのために頑張ります!」
「うん、いい子だね、波瑠樹」
その異様さに、一瞬だけ俺とメイジさんの動きが止まってしまった。それがまずかった。
「僕は、僕は、僕は唐沢先生の望みを、望みを叶えるために、全力で頑張ります!」
「しまっ…!!」
そのせいで柏先輩たちに向かって弾丸のように走っていく弓長くんを止められなかった。
「樫添先輩!」
「わかってる!」
既に樫添先輩は臨戦態勢に入っている。あの人だって何度も戦いを切り抜けてきたんだ。後れを取るはずがない。
「え……ぐあっ!?」
しかしその予想に反して、樫添先輩の身体は全力で突っ込んできた弓長くんに吹き飛ばされて地面に叩きつけられた。更には弓長くんは体勢を少し崩しただけでスピードをほとんど落とさずに柏先輩に向かっていく。
「やっと、やっと、僕は先生のお役に立てる! 誰かのお役に立てる! 誰かのお役に立つことが、僕のいる理由!」
「柏先輩! 逃げてください!」
俺の必死の叫びもむなしく、弓長くんの手が柏先輩に迫ろうとしている。
ダメだ、ここからじゃ間に合わ……
「ふむ、間に合わなかったようだね」
だが、柏先輩の残念そうな声が聞こえたと同時に。
「……ええ、間に合わなかったわ。残念ねエミ。もう少し私が遅ければ、コイツに殺してもらえたかもしれなかったわね」
もう聞きなれた声が。俺がよく知っている人間の声が。今日に至るまで柏先輩を守り続けた女性の声が聞こえてきた。
「あれ? 離してくださいよ。僕は先生のお役に立たないといけないんですよ」
「残念だけど、アンタの理屈は聞き飽きたわ」
弓長くんの腕を掴んでいたその女性は、全くためらうこともなく、当然のように彼の腹に拳を突き入れた。
「がっ!!」
「回りくどいことしてくれるじゃない。全部、アンタの差し金だったわけね。唐沢清一郎さん?」
もうその目に迷いはない。本当の敵を、間違えていない。
「黛さん!」
「瑠璃子……! 来やがったな!」
柏恵美の支配者、黛瑠璃子が再び俺たちの前に立っていた。
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