【1年前 10月15日 午後4時00分】
「こんにちは……あれ?」
唐沢先生の教え子になって一週間ほど経ち、この日も『スタジオ唐沢』に行くと、僕より年下に見える女の子がクロエさんと話していた。僕の顔を見ると、元気そうな笑顔を浮かべてその小さな体を近づけてくる。
「初めまして、最近入ってきた人っすよね? 私、紅林鈴蘭っていいます。今、中三っす」
「弓長波瑠樹です。初めまして」
紅林さんはショートカットと砕けた口調のせいか、年下の女の子というより頼りがいのあるクラスメイトのように見えた。この子に対しては……あんまり弱々しい姿を見せない方がいいのかな?
「紅林さんだね、よろしくお願いします。中三ってことは来年受験なの?」
「そうなんですよ。ていうか弓長さんの制服ってM高校のやつですよね!? めっちゃ頭いいじゃないすか! いろいろ教えてもらってもいいっすか?」
「うん、大丈夫だよ。僕で教えられることならなんでも教えるよ」
僕の返答に対して、紅林さんの顔が一瞬緩んだけど、すぐにそっぽを向いてしまった。
「……すごいっすね」
「え?」
「私に合わせて『頼りがいのある男』を瞬時に演じたくれたってわかってても、弓長さんに気を許しそうになりました」
「……!!」
この子にも見抜かれてたのか。でも、今の反応を見る限りじゃ完全に見抜いてたと言うわけでもなさそうだ。
「あ、ひっ! き、来たんですね、波瑠樹くん」
「クロエさん、こんにち……」
「ひいっ! す、すみません! あの、私、来てほしくないって意味で言ったわけじゃないですから!」
「……それはわかってますよ」
どうも僕はクロエさんの対処が苦手らしい。この人が僕に求めているものが全くわからないというのもある。
しかしそれ以上に、クロエさんが意図的に僕を操作しようとしているような、そんな気持ち悪さが離れないからだ。
「今日は唐沢先生はいないんですか?」
「お、お出かけしてまして、今日は私が担当することになってます」
クロエさんだけなのか。この人から僕が何か学べるんだろうか。
「……疑ってます、よね? 私から学ぶものがあるかって」
「いや、そんなこ」
否定の言葉を言い終わる前に、僕の右手がクロエさんに掴まれ、ものすごい力で握りしめられていた。
「あ、ぐ、ああ!!」
「ダメ、ダメ、ダメですよ。そんな言葉じゃ私は全然安心できません。あなたは私にとって恐ろしい敵なんですよ。ああ、こわい、こわい、こわい」
言葉通りクロエさんは顔に汗を浮かべながら怯えきったように目を泳がせているけど、言葉と表情に反して僕の手をどんどん握りしめて拘束してくる。
ダメだ、わからない。この人はなんなんだ? 何をすればいいんだ? 僕にそれがわかるのか?
今までのクロエさんの言葉と行動から推測してみる。彼女は最初から僕を恐れていた。僕が優しい言葉をかけたら彼女は僕に攻撃してきた。もしそれが全てクロエさんの本心なら……
ああ、わかった。
ひとつの可能性にはたどり着いた。後は僕がそれを出来るかだけど……
クロエさんはまだ顔を引きつらせている。『こわいこわい』と呟き続けている。
ダメだ、顔を見ながらでは出来ない。だから一旦目をつぶって……
「離してください!」
クロエさんの顔を左手で叩き、室内に高い音が響き渡った。
「……」
他人の顔をはじめて叩いた。僕が殴られることはあっても、僕が殴ったことは今までない。誰もそれを望まなかったからだ。
大丈夫だろうか。加減できた自信はない。クロエさんがどんな反応をするのか想像できない。
恐る恐る目を開けると……
「はい、よくできました」
満足そうに笑顔を浮かべるクロエさんの姿があった。
「これであなたのこともちゃんと怖がれます。ありがとうございます。じゃあ、指導を始めますね」
そう言ってクロエさんは指導の準備を始めた。どうやら僕は間違ってなかったようだ。
ほっと息をつくと、紅林さんが僕に近寄って小声で話しかけてきた。
「弓長さんも、あれが正解だってわかったんすね」
「え?」
「クロエさんって、出会う人全てが敵じゃないと納得できない人らしいっす。その辺は私にも共感できますけどね」
「……」
『出会う人全てが敵じゃないと納得できない』、か。だから僕が敵意を示して暴力を振るったら、僕のことを敵だと思えて笑顔になったわけだ。
クロエさんがなんでそう考えるのかはわからない。だけどそれはどうでもいい。重要なのは僕に何を求めているのか、そしてそれを僕が見極められるのかということだ。
それがわかれば、クロエさんや紅林さんがどんな人間かなんて別に興味ない。
【1年前 10月15日 午後4時25分】
「じゃ、じゃあ弓長くん。まずはこちらの台本を読んでみてください」
クロエさんが渡してきた台本は、他人を惑わす悪女に恋人を奪われて人生を狂わされた女性が主人公の、いわゆる復讐劇だった。初回の題材にしては穏やかじゃないなとは思ったけど、これも練習になるんだろうか。
台本を読み込んでいると、教室の奥にあるカーテンから髪をツインテールにした可愛らしい女の子が出てきた。まだ他に生徒がいたのか。
挨拶しようと立ち上がったけど、寸前で声を止める。
「……えっと、紅林さん?」
「うん、当たりだよ。でも今のわたしのことは『紅蘭』って呼んでくれる?」
さっきまでの紅林さんは頼りがいのある女の子という感じだったけど、紅蘭と名乗った今の彼女はまさに年下の女の子という姿に変わっている。
「あ、あの、最初は台本を持ったままセリフを読んでみましょうか。弓長くんが主人公役で、紅蘭ちゃんが悪女役をやってみてください……あ、いや! 紅蘭ちゃんが悪者っぽいとかそういう意味じゃないです!」
「はーい、わかりました」
クロエさんの言葉を受け流しながら、紅蘭ちゃんは台本を手に取ると……
「……ねえ、お兄ちゃん。わたしのこと、好き?」
その声を聞いただけで、僕は固まってしまった。
先ほど出会った紅林さんと紅蘭と名乗った今の彼女が同一人物なのは頭ではわかっている。だけど今の紅蘭ちゃんは出会った時の元気さや力強さは消え失せて、弱くて卑屈な笑顔を浮かべ、媚びるような声を発している。
確かにこんな子が目の前に現れたら、無条件で靡いてしまうのかもしれない。だけど今の僕は、彼女に恋人を取られた女性であることを求められている。なら、靡いてはいけない。
目を閉じて、敵意を向ける自分をイメージする。そうすれば僕は彼女に復讐するという自分に……
「……あれ?」
できない。イメージができない。
いや、そんなわけない。僕は求められればどんな役割だってこなしてきた。兄さんが望んだから無抵抗で殴られる弟になったし、父さんたちが望んだからM高校に入学した自慢の息子になった。
それなのに、なぜか『誰かを憎んで敵意を向ける』という役割がこなせない。そういえば、さっきクロエさんのことを叩いた時も、僕は目を閉じて叩いてしまった。
「どうしたの? 波瑠樹さん」
「ダメ、ダメ、ダメですよ。もっと敵意を出してくれないと」
紅蘭ちゃんが不思議そうに、クロエさんは怯えたようにそれぞれ僕を見ている。そんなこと言われても、できないものはできな……
そこまで考えて、僕はようやく気づいた。
「やあ、どうだい波瑠樹。自分の気持ちに気づいたかな?」
それを言葉にする前に、いつの間にか教室に戻ってきていた唐沢先生が僕に声をかけてきた。
「クロエちゃん、彼はやっぱり君のことも敵視できてなかったようだね」
「全然ダメですよ……こ、この子、私のことを叩く時も、目を閉じちゃってましたよ」
「そうだろうねえ。なあ波瑠樹。なんでお前がクロエちゃんも紅蘭ちゃんも敵視できないかわかるか?」
「あ、ああ……」
「わかってるけど、言葉にしたくないか? なら私が言ってあげよう」
ダメだ、それは僕が言わないといけない。僕が自分のタイミングで言わないといけない。そうしないと僕は……
「お前は誰かを嫌うのも嫌われるのも怖くて仕方ないからだ」
今まで取り繕ってきた全てを奪われてしまう。
「なあそうだろう? お前のことを調べさせてもらったよ。M高校の生徒や教師、それに通っていた中学の同級生はお前についてこう言ってたそうだ。『親しみやすいけど本心がわからない』と」
「あ、ちが、それは……」
「『それはみんなが望んでいるから』か? ならお前はどうして誰かの望んだ姿になる必要がある? 自分でもわかってるだろう? 波瑠樹、ハルキ、はぁーるぅーきぃー」
「あ、ああ……」
やめてくれ。その呼び方で僕を呼ばないでくれ。兄さんが僕を殴る時みたいに呼ばないでくれ。
今、そう呼ばれてしまったら。
「なあ波瑠樹、鏡を見てみなよ。そこには何が映ってる? 今のお前は、他人からどう見えてると思う?」
「あ……」
顔を上げると、教室の壁にある大きな鏡には僕の姿が映っている。
兄さんのことも両親のことも周りの全ての人間のことも嫌って誰とも深く関わろうとしないのに、身勝手な怒りを抱えて表に出せずに苦しんでいるちっぽけな男の姿が映っている。
言葉にしないようにしていた。本当は兄さんに殴られたくなんてなかった。兄さんと距離を取りたかった。だけど兄さんは僕を殴りたかったし、父さんは僕と兄さんが仲のいい兄弟であることを望んでいたからできなかった。
それだけじゃない。僕は誰かと接する時に相手の望む姿になるという手段しか知らなかった。それでいいと思い込んでいた。だけど今、唐沢先生にそれを暴かれてしまった。
「波瑠樹、ハルキ、はぁーるぅーきぃー。どうだい、今の気分は? 本当の自分を知られちゃった気分は?」
「……」
「何も言いたくないか。なら私が言葉をかけてあげよう。今のお前は、ちっぽけで身勝手でみすぼらしい。こんなお前を見ちゃったら、誰もがお前を嫌うだろうな」
「……っ!」
一番言われたくないことを言われたことで、思わず頭を抱えて俯いてしまう。
「でもねえ波瑠樹。これで踏ん切りがついただろう? 本当のお前なんて誰も好きじゃないし興味もない。もちろん、君のお兄さんもだ。だけどね波瑠樹。もしお前が私のために役割を演じてくれるなら、私はお前を見てあげるよ」
「見て、くれる……?」
唐沢先生は僕の顔を掴んで強引に目を合わせてくる。
「本当のお前を好きになってくれる人間なんていない。『絶望』しかないだろう? だけどその『絶望』こそがお前を救うんだ」
『絶望』が僕を救う……?
「お前を好きになる人間なんていないんだから、なんだって捨てられるだろう? お兄さんのことも、友達のことも、それに小霧くんのことも捨てられる。お前が誰かに好かれるなんて『希望』なんて持たなくていい。お前はただ、私が求める役割をこなしてくれればいい」
「そうすれば、僕は救われる……」
「そうだよ、波瑠樹。私の『オーダー』に応えてくれるなら、私はお前を必要とするよ。本当のお前は見なくても、私の『オーダー』に応えるお前は見てあげるよ」
ああ、そうだ。そうだったんだ。
とっくの昔から、僕に『希望』なんてものはなかった。誰も僕の本心を知らないし興味もない。だったら僕を好きになる人間なんていない。だけど『オーダー』に応え続けてさえいれば僕を見てくれる人がいる。兄さんが僕を見てくれなくても唐沢先生は僕を見てくれる。
「私のために、動いてくれるね?」
「……はい」
だから僕は、兄さんのために動くという目的を捨てた。
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