テーブルに置かれたアイスカフェオレをその小さな口で含むと、朝飛嬢は顔をしかめた。
「ちょっとまだ苦いね」
備え付けられていたガムシロップを3つ手に取ると、ためらいなくカフェオレにぶち込んでいった。アタシも甘いものは好きな方ではあるけれど、あそこまで入れたら甘さしか感じなくて楽しくはなさそうだ。
「私、ブラックコーヒーは苦手でね。こういう店に来たらだいたいカフェオレとかココアを頼むんだけど、この店のカフェオレはちょっと好みじゃないかな」
「ヒャハハ、その辺の好みはオンナノコっぽいじゃないか。とても『夜』を解放させたいって人間には見えないねえ」
「そう? ああ、確かに子供たちの親にもよく言われるかな。『棗先生は趣味を子供に合わせてくれてるから助かる』って」
「随分と好評なことだねえ。そんなアンタがアタシや晴天に協力してくれるのかい?」
「うん。どんなに私の社会的な評価が高くても、それは私の願いを叶えてくれるものじゃないから」
朝飛嬢の願いはこの社会では叶えることを許されないものだ。この女が抱える『夜』は、社会で生きていくにはむしろ邪魔なもの。それでも朝飛嬢は『夜』を捨てることなく、今日まで生きてきたのだろう。
「それでだ。アタシは晴天からアンタを紹介されたわけだけど、アンタは晴天から何を聞かされてるんだい?」
「うん。晴天さんは、私の『夜』を解放させてくれる人を紹介するって言ってた。最初はあなたのことなのかなって思ったんだけど、違うみたいだね」
「ふーん。恵美嬢のことを言ってんのかね。ああ、違うか。晴天は恵美嬢を生かしたいんだった」
「その『恵美嬢』って、柏恵美さんのこと?」
「知ってんのかい?」
「そりゃあ知ってるよ。香車くんが狙ってた子なんでしょ?」
狙ってた、か。ま、その言い方で間違ってないか。
「ああ、そうだ。香車くんのことも思い出したよ。とてもいい子だったなあ。お姉ちゃんに似て、やさしくて、私が面倒見るまでもないくらい、しっかりした子だったよ」
「へえ、アンタはあのボウヤの面倒も見てたのかい?」
「お姉ちゃん……姉が離婚しちゃったからね。子供たちを育てるために協力してほしいって頭を下げられたんだ。そこまでされたら私が手伝わないわけないよ。そうそう、だんだん思い出してきたよ。香車くんだけだったなあ。私のことを理解してくれたの」
「理解?」
「そう。香車くんだけが私の『夜』を理解してたよ」
確かに棗のボウヤなら朝飛嬢の言っている『夜』に理解を示せるんだろう。だけどアタシには、一つの疑問があった。
「朝飛嬢、アンタは棗の……香車のボウヤと対立しなかったのかい? ボウヤからしちゃ、アンタは自分の本性を見破っちまった人間だ。そしてアタシが知っているアイツは、自分の本性を知られることを極度に嫌うヤツだ。何とかしてアンタを排除しようとしなかったのかい?」
「そうだね。確かに私も一時期は香車くんに警戒されてるなあって思ったことはあったよ。だけどね、すぐに打ち解けたよ。というより、お互いの利害が一致したのかな」
「どういうことだい?」
「私は姉から香車くんの『夜』を上手く抑えてくれって頼まれてたの。でもね、姉は勘違いしてた。私が面倒を見るようになった頃にはもう、香車くんの『夜』は抑えようがない状態になってた。あの子はたぶん私より先に行ってたと思う」
「先に行ってたってのは……」
アタシが言葉を発する前に、朝飛嬢は顔を近づけて小声で囁く。
「もう“初体験”を済ませちゃってた」
……なるほどね。
アタシと出会う遥か前から、あのボウヤは誰かの命を既に奪ってたってことかい。
「感激したよ。私は姉のために『夜』を解放するのを我慢してたけど、香車くんは姉に悟られることなく、『夜』を解放してたんだ。すごいなあって思った。この子が順調に育っていけば、私の願いは叶うんじゃないかなって思った」
「ちょっと待ちなよ。今の話じゃ、『夜』を解放したのはボウヤであってアンタじゃない。なんでそれでアンタの願いが叶うんだい?」
「私はね、『夜』は解放したいけど、お姉ちゃんを悲しませたくはないんだよ。香車くんもたぶんそうだったとは思うけど、私には自分の欲望を満たしたいって思いと、平和な日常を送りたいって思いの両方があるの。昔の私は、後者の思いの方が強かった。だから『夜』を解放する方は香車くんに任せようと思ったんだ」
「なるほどね。ボウヤはアンタの代わりに『夜』を解放して、アンタはそれで自分の欲を満たそうとしたってわけだ」
「うん、そうだね。だから私はあの子が自分の『夜』を自覚する時を待ってた。あの子も私が邪魔をしないどころか手助けしていることをわかってくれたみたいで、警戒を解いてくれたよ。私が槍哉くん……香車くんの弟に向ける笑顔を見て、相手を安心させる術も勝手に身に着けていったね」
さっき、朝飛嬢が店員を安心させたあの表情か。つまりボウヤは英才教育を受けてたってわけだ。
「だけどね、私としても香車くんが死んじゃったのは予想外だったなあ。あの子は順調に大人になると思っていたのに」
「ボウヤが死んだ理由については知ってるのかい?」
「うん。晴天さんに聞かされたよ。柏恵美さんを狙った末に……失敗したって」
「その失敗の理由……というか、ボウヤを止めた人間についても聞いてるかい?」
「……」
その時だ。
朝飛嬢の顔に、さっきの笑顔が浮かんだのは。
「黛瑠璃子さん、だよね? その子がいたから、私の……私たちの願いは潰された」
事情を知らない人間が見たら、今の朝飛嬢はまるで喜んでいるように見えるだろう。その笑顔は心から相手に安らぎを与え、暖かい気持ちを芽生えさせる。
だけど、先ほどまで朝飛嬢を会話を交わしていたアタシは、この女の中にある感情が何かをおぼろげながら理解していた。
「ああ、すごいなあ。黛瑠璃子さん。香車くんを止めるなんて人が、いたんだなあ」
これは、怒りだ。朝飛嬢の中には、とてつもない怒りが渦巻いている。
おそらくは自然と身に着けている技術なんだろう。棗朝飛は、自分が怒りを感じた時にあえて笑顔になり、相手に安心感を与えるようにしている。相手の警戒を解くために。
だがそれこそが、『狩る側の存在』であることの証明だ。相手を油断させ、自分を信じさせ、弛緩しきった肉体を蹂躙する。この女はそれを何回もイメージしている。だから今、この笑顔を浮かべている。
「私さ、さっきも言ったけど、晴天さんに『夜』を解放させてくれる人を紹介してもらう予定なんだよね。それが誰かなのはまだ聞いてないんだけどさ」
そして朝飛嬢は笑顔のままアタシに言う。
「その子だったら、いいなあ」
その顔はまるで愛する子供の成長を見守る親のような顔だった。
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