【6月3日 午後3時30分】
6月になれば、当然雨の日が増える。午後3時半であっても、厚い雲に遮られて日の光は十分に届かない。そのくせ湿度が高くて蒸し暑い日を嫌がるのは俺も同じだが、今年はそれ以上に雨の日が憂鬱だった。
「ぐっ……」
「大丈夫? 柳端くん」
「……ああ、さすがに少しは慣れた。いつまでも痛いとは言ってられないからな」
空木晴天との戦いが終わってから一週間後。俺は朝飛さんに刺された腹の傷が完治するのを待たずに学校に復帰していた。出席日数が足りずに留年するわけにもいかないというのもあるし、一応は進学を目指している身である以上、勉強の遅れを取り戻さなくてはならない。
しかし強がって見せても、傷の痛みが引くわけじゃない。今日のような雨の日は特に痛む。腹だけじゃなくて、以前に骨折した左腕にも痛みが出てきていた。
それが顔に出てきていたのか、目の前の女は表情を更に曇らせていた。
「あのさ、カバン持つよ」
「いや、いい。今日は参考書が多く入ってて重いから、お前に持たせるわけには……」
「『持たせるわけには』じゃなくて、アタシが持ちたいの」
そう言われた直後、強引にカバンをひったくられた。
「……悪いな」
「柳端くんさ、そういう時は『ありがとう』って言ってほしいな」
「あ……ありがとう」
「はい、どういたしまして」
俺の言葉を受けて、隣で歩いている女――綾小路佳代子は、歯を見せながら明るく笑っていた。
この俺、柳端幸四郎と綾小路佳代子は共に県立M高校に通っている。だが俺は全日制に通い、綾小路は定時制に通っている生徒だ。本来ならこうして一緒に下校することはない。今日は綾小路が進路相談で昼間に登校してきたので、こうして一緒に帰ることになったのだ。
『死体同盟』の事件を経て、本当に綾小路は変わった。世の中を侮っていたコイツが、今や俺に礼儀を教える側になっている。まったく、人間何が起こるかわからないもんだ。
「それでさ。柳端くんはその……棗朝飛さんのことで被害届とかは出さないつもりなんだよね?」
綾小路が言ってるのは、朝飛さんが俺を刺したことについてだ。空木晴天との戦いについては、ある程度コイツにも話している。
「ああ。だがそれは朝飛さんや夕飛さんを気遣ってるわけじゃない。俺自身のためだ。治療代も貰っているし、ここで必要以上に事を大きくしてしまえば、最悪の場合は退学にもなりかねない」
「そ、そう、だよね……」
「大丈夫だ。俺の中でこのことには整理がついている」
朝飛さんは自分でも香車を止められなかっただろうと言っていた。ならそれで十分だ。香車が人を殺し続ける道を選び、そして死んだのは、アイツ自身の意志だ。
そうだとしても、俺は香車を忘れることも軽蔑することもしない。アイツがどんなに悪人だったとしても、俺を救ってくれたことには変わりがない。
「そういえば、生花は学校に来ているのか?」
「沢渡さんだったら、今月は珍しく頻繁に出席してるよ。なんか、柳端くん目当てみたい」
「俺目当て?」
「『幸四郎の傍にいりゃ、いつまでも『絶頂期』のままでいられるし、アイツにリベンジもできる。アタシにとっちゃ、いいことづくめさね』って言ってた」
「……あの女、まだ俺に付きまとうつもりか? お前に関わる暇はないって伝えておいてくれ」
「そうだよね。沢渡さん、柳端くんに怪我をさせた人とつるんでたんだよね? そんな人と関わってたくないよね?」
「ん? 確かに関わってたくはないが、お前はそんなに生花のことが嫌いだったか?」
「……別にー?」
綾小路の態度に何か引っかかるものを覚えたが、それを指摘する前に駅前に着いた。
「じゃあな。カバン持ってくれてありがとう」
「うん。そういえば……これからバイトなんだっけ?」
「……ああ」
バイト先の話題になったことで綾小路が気まずそうに俯いたのを見て、思わず言葉に詰まってしまう。
コイツは以前、俺と同じレンタルビデオ店で働いていたが、その店の金に手を付けたことで首になった。今ではそのことを心から反省し店に賠償金を払った両親に金を返すために必死で働いているらしいが、それでも過去の罪は消えない。綾小路からしたら、もうあの店に近寄ることもしたくないんだろう。
どうにか話題を変えようと思案していたが、先に口を開いたのは綾小路の方だった。
「あのさ、柳端くんも受験でアタシもバイトたくさん入れてるから、お互いにあんまり時間取れないんだけどさ。もしよかったら……今度どこか遊びに行かない?」
少し遠慮がちに提案するのを見て、俺も気持ちが軽くなった。どうやら会話を広げるのはコイツの方が上手のようだ。
「ああ。最近は俺もお前もゴタゴタしてたからな。予定が決まったら連絡する」
「うん! じゃあ、またね!」
そう言って笑顔を浮かべた後に駅の改札に歩いていった。
そういえば、俺がこんなにすんなりと相手の提案を受け入れたのは久しぶりかもしれない。思えば俺の周りにいる女たちは、ことごとく俺に無茶な要求をしてくるヤツばかりだった。こうして素直に一緒に遊びに行きたいと思える相手と出会えたのは久しぶりかもしれない。
そうは思いつつも、まずはバイトのことを優先して考えることにした。
【6月3日 午後4時30分】
「お疲れ様です」
「おっ、柳端くん。お疲れ様です」
店内に入ってきた俺を見て、バイトの先輩である弓長竜樹さんが挨拶してくれた。
「竜樹さん、今日は昼からですか?」
「うん、就活が本格化する前に金貯めておきたいからね。柳端くんもそろそろ受験勉強が本格的になるんだっけ?」
「ええ。そろそろお別れかもしれません」
「そうか、寂しくなるな。柳端くんってM高校の人にしては親しみやすくて好きなんだけども。ウチの弟も君くらい話しやすいといいんだけどな」
「弟さんもM高校の生徒なんでしたっけ?」
「そうなんだけど……ちょっと最近はロクに会話もできなくてね……」
そういえば、弓長という苗字を学校内でも見たような気がしたが、どこでだったかは忘れた。まあ、同学年ではないんだろう。
制服に着替えて仕事を始めようとしたら、竜樹さんが再び声をかけてきた。
「そういえば今日から新人さんが入るって聞いてるよね? 申し訳ないんだけどさ、柳端くんにその人の指導を頼んでいいかな?」
「大丈夫ですよ。もう来てるんですか?」
「うん、時間通りに来て店長から説明受けてるところだから、そろそろここに来るよ。年齢は僕の一個下だから、柳端くんからしたら年上だけど、やりにくかったりしない?」
「いえ、特には」
「そうか、よかった。いやさ、もう新人の指導ってあんまりしたくないんだよ。特に年下の女とか。ほら、前にウチの店の金盗んで首になった子いたでしょ?」
「え、ええ……」
「ああいうのって本当に迷惑だよね。せっかく丁寧に指導しても、店に迷惑かけて終わりとかありえないでしょ? ああいう人間ってずっと周りに迷惑かけて生きていくんだろうね」
「……」
竜樹さんの悪態にイヤな気分にはなったが、止める権利はない。綾小路がしでかしたことはまぎれもなく犯罪だし、竜樹さんからしてみれば、指導した相手に裏切られた感覚なんだろう。だから何も言わない。
だから気分を切り替えて、今日来る新人の指導だけを考えて……
「ヒャハっ、よろしくお願いしまーす」
……背後から、聞いたことのある下品な笑い声が聞こえてきた。
違うよな? 絶対違うよな? うん、そんなわけがない。いくらなんでもこんな狙いすましたようにここに来るわけがない。
後ろにいるのは単なる知らない女だ。たぶん全然知らない女だ。そうであってくれ。そう思いながらゆっくりと顔を後ろに向ける。
「今日から働くことになりました、新人の沢渡でーす」
無情にも、俺の目に映ったのはピンク色の髪と派手な化粧、そして丸いメガネが特徴的な、ここのところよく会う女だった。
「い、け、ばな……」
「あれ、もしかして知り合い? それならよかった。じゃあ柳端くんも教えやすいよね」
「あ、そ、その、竜樹さん……」
「そうなんですよーヒャハハ、アタシは幸四郎と仲良しなんですよー」
「お前……!」
悪夢としか言いようがない。晴天や朝飛さんとの一連の騒動を乗り越えたのに、またコイツは俺の前に現れた。
考えてみれば、俺の周りにいる女は俺をトラブルに巻き込むヤツばかりだ。柏も黛も閂も生花も、みんなそうだ。
そして予想通り、この出来事がきっかけで、俺は更なるトラブルに巻き込まれるのだった。
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