【21年前 6月15日 午後2時10分】
清美さんと別れた。私から別れを告げたのではなく、清美さんから別れようと言われたのだ。しかしこのことに関して、私の心はあまりにも動いてなかった。
別れてから思い知ったが、私は清美さんのことをあまりにも知らなさ過ぎた。あの人が私のどこを好きになっていたのか。私は清美さんの何を好きになっていたのか。一年も交際していたのに、私は清美さんのことを何も知ろうとしていなかった。
清美さんは自分の立場を守るために誰かに取り入らないと生きていけない人だった。私も、一緒にホテルに行ったという職場の上司も、清美さんにとっては同列だったのだ。
「はあ、はあ、はあ……」
そのことがわかった途端、私の俳優という職業に対する熱も急速に冷めていき、稽古中にも関わらず床に座りこんでしまう始末だった。当然だ、私が俳優を続けていた理由は清美さんのためだった。そしてその理由がなくなった以上、俳優を続けるモチベーションなど保てるはずがない。
そんな私にタカさんが薄笑いを浮かべて声をかけてきた。
「女取られたぐらいで動揺するんじゃねえよ、三流役者が」
知った風なことを言ってきたが、同時にこれが区切りだと思った。
「稽古場で座りこんでいるようなヤツが成功するわけねえ。早く辞めろよ」
タカさんの言った通りに、私はこの日に事務所を辞めた。
【21年前 7月31日 午後6時10分】
「ふむ、今日の君が元気がないように見えるね。何かあったのかね?」
「申し訳ありません……」
今日もバイト先の演劇教室で斧寺さんの指導を行ったが、あまりにも力が入っていないことを見抜かれてしまった。これでは演劇講師としても失格だな。
「清美くんのことを引きずっているかね?」
「いえ、清美さんのことはもういいんです。結局はあの人を利用してただけの私にも責任がありますし。それよりも、私にはもう何も残っていないことの方が問題で……」
「何も残っていないか、なるほど。白樺くんの言った通りだね」
「え? タカさん?」
どういうことだ? 斧寺さんはタカさんとも話したことがあるのか?
「君は興味ないかもしれないが、清美くんは新たなスタートを切った。『誰にも好かれていなくていい』という新たな価値観を得た。君と別れたおかげでね」
「私と別れたおかげ……ですか。なんだか皮肉みたいですね」
「皮肉ではないよ。むしろ交際している方が望ましい状態だと無条件で思い込む方が問題だ。そこには必ず優劣が生まれる。その優劣に引っ張られることで、『脆い希望』に縋りつく理由が生まれる」
「……じゃあ、斧寺さんは今の私の状態の方が望ましいって言うんですか!?」
思わず声を荒げてしまったが、斧寺さんは動じずに話を続けた。
「望ましいかどうかは君が決めることだ。そのために『絶望』が必要なのだよ」
「こんなものが望ましいわけがないでしょう! 私は何もかも失って……!」
「失った? とっくに熱意を失った夢と、君をその夢に縛り付けていた恋人をかね?」
「それは……」
「私は常々考えているのだよ、『希望』というものが必ずしも望ましいものではないと。君は恋人と添い遂げることが自らの望みだと思い込まされていた。君だけじゃない。私は脆い希望を押し付けられて、自らを騙し続けて苦しむ人間を助けたいと考えている。だが今までは、極度の口下手のせいでその意思を上手く伝えられなかったのだよ」
じゃあ……今のこの状況は、私が招いたことだというのか? 私が斧寺さんを指導したことで、何もかもを失う結果に繋がったというのか?
「ああそうだ、これで君は何も苦しまなくていい。君を縛り付けていたものはもう何もない。君の望むままに生き、君の望むままに死ねる。そうなれば私も喜ばしいよ」
「あなたは……何なんですか? 何が目的なんですか!?」
「先ほども言っただろう? 私は君を『絶望』で救いたいと。そうだね、いい機会だから私の過去について話そうか」
「え?」
「この後の時間は都合つくかね? 君を連れて行きたい場所があるのだよ」
【21年前 7月31日 午後9時23分】
斧寺さんに連れられてやってきたのは、車で一時間ほど走った場所にある山の中だった。既に夜中である上に、周りに街灯ひとつないため、明かりと言えば車のヘッドライトと月明りくらいだ。
そのヘッドライトが照らす先に、木に括られた形で花束が供えられていた。
「ここは?」
「ああ、私の妻が殺された現場だ」
「は?」
あっさりとそう返されたことで、私の方が固まってしまった。斧寺さんの方も予想していた反応だったのか、特に私を咎めることなくタバコに火を点けて説明を続ける。
「3年前のことなのだがね、私を逆恨みした男が買い物中の妻を連れ去ってこの場所で殺したそうだ。逮捕された後に『アイツの女房を殺したら苦しむだろうと思った』と供述してたよ。まったく、そんなに恨んでいるのなら、私自身に恨みをぶつければいいものを」
「そ、そうですか……」
「私が現場に到着した頃には妻はもう息もなく、どこか安らかな顔で横たわっていたのだよ。結婚して長かったが、幕切れはあっけないものだった」
煙を吐き出してそう呟く姿を見て、私の中で斧寺さんの行動や言動に急速に理由がついていった。
『絶望こそが人を救う』。斧寺さんはそう思わないと精神が保てなかったんだ。奥さんが悪漢に襲われ、理不尽にも命を奪われたという『絶望』。それに何かしらの意味を持たせないと、彼はもう生きていけなかったんだ。
「でも……なんでその男は奥様を連れ去れたんでしょうか?」
「ん? それは私が彼に妻の行動パターンを教えたからだよ」
「え?」
そのセリフと共に、私の目に映る斧寺さんの姿がヘッドライトで逆光となりよく見えなくなった。
「な、なに言って……?」
「君ももう気づいていると思うが、私は刑事でね。その男が私を恨んでいるのも、彼が起こした事件の捜査を私が担当していたからだ。だから彼の性格も行動パターンも熟知していたのだよ。私の妻に関する情報を彼に流せばどんな行動を起こすかも予想はついていた」
淡々と説明を続けているが、言っていることの意味がなにひとつ理解できない。
「自慢になってしまうが、夫婦仲は良かったよ。刑事という仕事柄、行先を口外できないことも多く、口数も少ない私のことを妻は献身的に支えてくれた。私も口で感謝を伝えられない分、妻の喜びそうな贈り物を贈り、妻が行きたいであろう旅行先に連れて行った」
「だ、だったら……なんで……?」
「決まっているだろう。私と共にいることは、妻の幸せではなかったからだよ」
斧寺さんの顔はやはり、逆光で見えない。
「警察官である夫と、文句ひとつ言わずに献身的に支える妻。周りからしても私からしても仲睦まじい夫婦だったし、妻もそう思っていただろう。だが妻は常にその『理想』に押しつぶされていた。常に解放されたがっていた。ならば私がやることはひとつだろう?」
「だから……自分を恨む男に奥さんを殺させたと?」
「先ほども言ったが、私がここに到着した時、妻の顔は安らかだったよ。それを見て、妻はようやく救われたのだと確信したのだよ。まあ、子供たちにも『絶望』こそが人を救うこともあると教えたら、娘の霧華には嫌われてしまったがね」
斧寺さんはそこまで言うと、私に近づいてくる。
「君はどうだね? 唐沢くん。私の考えを拒絶するかね?」
「わ、私は……」
「人は完全に自由には生きられない。どうしても社会的に求められたロールモデルのようなものが存在する。そして君は今、私を拒否しても受け入れてもいい」
その時、斧寺さんの表情がようやく見えてくる。
……どうしてだ、どうしてこの人は奥さんに愛されていないとわかったのに、自分の娘にも突き放されたというのに。『絶望』としか思えない状況に立たされたのに。
どうしてそんな、安らかな笑顔を浮かべていられるんだ。
ああ、そうだ。この人の言う通り、私は常に苦しかった。俳優としての夢を『追わなければならない』。清美さんのために『頑張らないとならない』。そうしないと私は、この社会で『生きていけない』。そう思い込んでいた。
だけど違ったんだ。この人の考えなら、どんな状況でも幸せを得られるかもしれない。この人は『絶望』さえも望ましいものとして考えられる。もし私がその境地に至れれば……
私はもう、不幸になることはない。
「霧人……先生……」
気づけば私は、彼のことをそう呼んでいた。
「お願いがあるのです。清美さんとの間に息子が生まれたらつけようと思っていた名前があるのですが」
「ほう?」
「『明人』という名前です。もうその名前をつける相手は生まれないと思っていました。ですが……」
偶然にも、その名前は『霧人』という名前に似ていた。
「もし、その名前にもう一度意味を持たせられるなら、清美さんとの子供がもう生まれないという『絶望』が私を救うという意味を持たせられるなら……」
いずれ私が、霧人先生のように『絶望』をも幸せに変えられる人間になるという願いをこめて。
「私のことを『アキヒト』と呼んで欲しいです」
私の申し出に、霧人先生は無言でうなずいた後に手を差し伸べた。
「いいだろう、アキヒトくん。君は私の恩人であり、大切な友人だ」
「先生……!」
「ついて来たまえ、アキヒトくん。たとえどんなに脆い『希望』を押し付けられたとしても、私たちだけはそれを『絶望』で塗り潰してやろうではないか」
「はい……!」
ああそうだ、これだったんだ。
誰のためでもない。私が思う幸せを、『絶望』をも幸せとして生きていきたい。誰かの考えた幸せなどいらない。やっと私の心は晴れた。
これからはどんな『絶望』も、私は受け入れられるはずだ。この人に着いて行きたいと本気で思ったんだ。私が私の意志で生きている限り、この人は導いてくれる。
この時ようやく、私は私の人生を歩み始めた。
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