中間試験が迫っている時期なので、M高校の生徒たちはほぼ全員が休み時間も試験勉強に精を出していた。俺も周りの人間に流されてるかのように、教師に言われた試験範囲を復習していた。
だが俺の頭の隅には、どうしてもあの男の存在が引っかかっていた。
萱愛陽泉。自らを『愛の泉』と称する男。
萱愛は明らかに陽泉に対して恐怖していた。陽泉の存在が萱愛の平穏を脅かしているのは明白だ。当然のことながら、俺は今日の朝一番に萱愛に陽泉のことを問いただすつもりではあった。
だが萱愛は始業時間になっても学校に来なかった。不思議に思ったが、ホームルームで教師が萱愛は遅れると連絡があったと俺たちに伝え、クラスメイトたちも珍しいこともあるといった様子を見せていた。 そして現在、二時間目が終わったが萱愛はまだ登校していない。
「萱愛……なにをやっている……?」
思わず呟いてしまったが、陽泉が俺たちの前に現れたのが昨日のことだ。その翌日に萱愛が学校に来ないとなれば、その二つを関連づけてしまうのは不思議なことではない。俺の頭は、萱愛が陽泉に危害を加えられているという最悪の事態も想像してしまっていた。
そんなことを考えている中、教室の扉が開け放たれた。教師が来るにしてはまだ早い。俺は入り口に目を向ける。
「なっ……!?」
そこには、右の頬にアザを浮かべた萱愛が立っていた。
クラスメイトたちも、萱愛の顔を見て騒然としているが、俺はその中でいち早く萱愛に駆け寄った。
「萱愛、お前……! その顔はどうした!?」
「柳端……」
「まさか、お前の父親か? あいつがこんなことを……」
「落ち着いてくれ!」
萱愛の叫びを受けて、俺は思わず言葉を飲み込んだ。
「これは、俺が自分でやったんだ。陽泉さんは何もしていない」
「なんだと?」
「それと、そのことに関連して少し話があるんだ。ちょっと場所を移してくれないか?」
「……わかった」
今から教室を離れれば授業には遅れてしまうだろう。だがそれは、萱愛にとってそれでも俺に話したいことがあるいうことを意味する。断るわけにはいかなかった。
萱愛と俺は、校舎の裏にあるベンチの前で話すことにした。
「柳端、まずは昨日のことについて謝りたい。お前に怪我をさせて、本当に申し訳なかった」
俺に深々と頭を下げ、謝罪の言葉を口にする。真面目な萱愛らしい行動ではあるが、俺としてはそれで納得するわけにはいかなかった。
「なぜお前が謝る? 俺を殴ったのはお前の父親であって、お前じゃない。お前の父親が俺に直接謝るのが礼儀じゃないのか」
「それはわかってる。だけど……陽泉さんは決して自分の行動を疑わない。だから、俺が代わりに謝るしかないんだ」
「俺はお前を責めてるんじゃない。陽泉を責めてるんだ。それに、そのお前の傷は本当に自分でつけたものなのか? ひょっとしたら、陽泉に……」
「やめてくれ!」
萱愛は固く目を閉じて、顔を伏せながら叫ぶ。俺にはそれが、見たくないものを見ないようにしているふうに見えた。
そして目を開けて俺を見たと思うと、絞り出すように言葉を出した。
「陽泉さんを、悪く言わないでくれ……」
それは、俺からすればまるで理解できない言葉だった。
「わからないな。俺はお前と陽泉の関係がどんなものかは知らない。だが昨日の様子を見る限り、萱愛陽泉が父親としてまっとうな人格をしているとは到底思えない。それでもお前は陽泉を庇うというのか?」
「……確かにそうかもしれない。俺もあの人と会うのは久しぶりのことだ。世間一般の親子の関係とはほど遠いかもしれない。それでも!」
萱愛は、痛みを堪えるかのように顔をしかめる。
「それでも陽泉さんは、俺の父親なんだ……」
それはまるで、自分に言い聞かせているかのようだった。
「萱愛、俺が殴られたことを謝罪したいのであれば、質問に答えてもらうぞ。陽泉はお前と直接話すのは十年ぶりだと言っていた。その間あいつは何をしていたんだ?」
「……人を殺して、刑務所に服役していた」
「なんだと!?」
あの男が、人を殺していた? 萱愛と十年も離れていたのは、刑務所にいたから?
「待ってくれ! 陽泉さんが人を殺したのは決して許されることじゃないのはわかってる! だけど!」
「だけど、なんだ?」
「……陽泉さんが人を殺したのは、俺のせいなんだ」
「お前のせい、だと?」
萱愛は少し沈黙した後、過去を語り始めた。
「十二年も前のことだ。当時、まだ俺は小学校にも入学してなかった。あの時、俺と陽泉さんは母さんが仕事で遅くなるっていうから、二人で夕飯を食べに繁華街に行ったんだ」
俺はその話を黙って聞く。萱愛の額には少し汗が浮かんでいた。
「夕飯を食べて店を出て家に帰ろうとした時だ。俺は前にいた男性が空き缶を捨てて立ち去ろうとしてたのを見て、口を出してしまったんだ。『おじさん! 空き缶ポイ捨てしちゃダメなんだよ!』なんてことを言った記憶がある」
「お前らしい行動だな。それで?」
「だけど、その男性はひどく酔っていた。俺に注意されたことを受けて、こんなことを言ってきた」
『なんだこのクソガキは! ガキのくせに俺に偉そうにしやがって!』
「そしてその男性は逆上して、陽泉さんが宥めるのも聞かずに怒り狂って俺を殴った」
「おい? まさかそれで……」
「そうだ。それからのことはよく覚えていないが……気がつくと陽泉さんは警察に取り押さえられてて……俺を殴った男性が血まみれで路上に倒れていた」
萱愛は額に汗を浮かべながら震えている。こいつからしたら、父親が人を殺す場面を目の前で見ることになったんだ。無理もない。
「だから……陽泉さんが罪を背負うことになったのは、俺のせいなんだ。俺があんなことをしなければ、陽泉さんは歪まなかった。だから……」
だから自分が、陽泉から離れるわけにはいかない。萱愛はそう言いたいのだろう。
だが俺は、かすかな違和感を抱いていた。
「なあ萱愛、ひとつ聞くぞ」
「え?」
「今の話、本当にお前が覚えているのはそれだけか?」
「……!!」
俺は今の話を聞いて、萱愛は何かを隠しているような気がしてならなかった。過去に起こった事件がショッキングなものであるなら無理もないが、萱愛は事件の核心部分については何も語らない。そこがどうしても気になった。
だが萱愛は、俺の質問に対してこう答えた。
「……すまないが、俺が覚えているのは本当にこれだけだ」
「そうか」
……今の萱愛から無理に聞き出すわけにもいかない。とにかく、萱愛は陽泉が罪を犯したのは自分に責任がある、そう思っているからこそ、陽泉を庇っているのだろう。
「だから、陽泉さんがお前や閂先輩を敵視するのであれば、申し訳ないが俺はお前や閂先輩と離れなければならない。これ以上……俺の家族の問題で、迷惑をかけたく、ない」
「それは受け入れられないな。確かにお前が陽泉に負い目を感じているのは無理はないかもしれない。だが俺は、陽泉に殴られていることに関しては、あいつ自身から謝罪を受けなければ許すつもりはない」
「待ってくれ! お前も見ただろう。陽泉さんは俺や母さんに危害を及ぼす人間に容赦がない。これ以上お前が俺に近づくのは危険なんだ!」
「萱愛……」
悲痛な顔をする萱愛を見て、俺はまっすぐ言い放つ。
「これ以上、俺に友人を失えと言うのか?」
「……!!」
「俺が香車を失った時、どうなったのか見ただろう。香車はもう戻ってこないことを受け入れるのも時間がかかった。だから……」
そう、だから。
「まだ生きている友人を、大切にさせてくれ」
もう二度と失わないための、決意だ。
「柳端……」
萱愛は涙を流す。こいつも俺の決意がわかってはいるのだろう。
だがそれでも、こいつにも譲れない物はある。
「それでもダメなんだ……俺は、俺は……」
嗚咽する萱愛を見ながら、俺はしばらく沈黙するしかなかった。
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