【7月29日 午後2時38分】
白樺隆と名乗った男は全身から怒りを発しながらこちらに向かってくる。だけど大丈夫だ。コイツは何か策があって向かってきているわけじゃない。それなら十分対処できる。
「見え見えっ!」
正面から突っ込んでくるなら、体を半歩ずらして蹴りを繰り出してやればいい。沢渡がやってたような蹴りを見よう見まねで放ってみたら、相手の腹に上手く当たってくれた。
「ぐがっ!?」
よろめきながら数歩下がったのを見逃さず、今度は背後に回る。そして相手が下がるのに合わせて足を引っかけて身体を後ろに引っ張ったら、簡単に倒せた。
「うぐっ!」
床に倒れた白樺が立ち上がる前に素早く両膝で相手の両腕を押さえて、体重をかけてその動きを封じた。
「あ、ぐっ! ちょ、ちょっと待て!」
「問答無用。アンタ、私のエミを襲おうとしたでしょ。その時点で許すわけにはいかないわ」
「……エミ? ああそうか。恵美か……その子が……清美の娘か……」
白樺は何かを悟ったかのように今度は目を閉じて何かを堪えるように眉を寄せる。真意はわからないけど、コイツがエミを知っているのは間違いない。襲った理由も含めて、洗いざらい吐かせるか。
「どうして……こうなったんだろうな……なんで俺はいつも……失ってから大切だと気づくんだろうな……」
「独りごと言ってないで、まずは襲ってきた理由から話してくれる? でないと警察に通報するわ」
「わ、わかった。もう何もしない。だから……もう一度、あの子の顔を見せてくれ」
「アンタの真意を説明するのが先。そうしないと今度は骨の一本でも折るわ」
「……わかった」
白樺は目を開けると、小声で語り始めた。
「俺がここに来たのは、ありとあらゆるものを失った上に役者も引退して、もう生きる理由も何もなかったからだ。死を肯定的に捉えようとする『死体同盟』の活動を見てみたかったからだ。あの子がここにいるなんて知らなかった」
「仮にエミがここにいることを知らなくても、アンタがエミに襲い掛かる理由はあるはずよ。それはなに?」
「あの子が……清美の娘が、俺が最も憎む男と同じ口調で話すのが耐えられなかった……」
そうだ、確かコイツは斧寺霧人の名前を口にした。それにさっきから言ってる『清美』という人はもしかして……
「どうやら君は、私の母親と深い関係だったようだね」
エミもまた真剣な顔で白樺を見下ろしている。私の推測は当たっていたようだ。
「だが母は私が幼い頃に亡くなっていてね。どういう人間だったかあまり覚えていないのだよ」
「そうだろうな……俺のことだって覚えてないだろう? お前がまだ小さい頃に一度会っただけだからな」
「そうだね、覚えてはいない。だが斧寺霧人は君のことをよく知っていたようだね。そのせいか君の正体も大体予想がつくよ」
「……何を言ってる? いや、まずは事情を説明するのが先か」
一呼吸おいて、白樺は話を続けた。
「俺の名は楢崎隆彦。白樺隆というのは芸名だ。そして楢崎……いや、柏清美は俺の妹だ」
……ナラサキ?
いやそれより、コイツの妹がエミの母親? じゃあコイツはエミの伯父ってこと?
「まさかこんなところに清美の娘がいるなんてな。自分の娘にも会えないのに、アイツの娘に会うなんて不思議な話だ。俺にもまだ繋がりがあったんだな……」
「感傷に浸ってるところ悪いけど、いろいろ聞きたいことがあるわ。まず、楢崎久蕗絵って女はアンタの娘なの?」
「っ! クロエに会ったのか!?」
「ついさっき、『スタジオ唐沢』っていう怪しいヤツらの手先として私たちを襲って来たわ。アンタがアイツの父親だって言うなら、説得してくれる?」
「唐沢……そうか」
何かを納得したように呟いた後、白樺は曇天さんに目を向けた。
「済まなかったな、アンタらの家で騒ぎを起こしてしまって。原因は全て俺にあるから、このお嬢さんは責めないでやってくれ」
「大丈夫ですよ。それに私にもあなたに説明していただきたいことがあります。柏様とあなたの関係について」
「……わかった。ただその前にそろそろどいてくれるか? 腕が痛くて話せそうにない」
白樺に敵意がないことを確認し、立ち上がって話を聞くことにした。
【7月29日 午後3時10分】
全員がソファーに座った後、私のスマートフォンが鳴った。たしかこの着信音の設定は……
「樫添さん!?」
『もしもし、黛センパイですか? すみません、連絡が遅れちゃって』
「それより大丈夫なの? 変なヤツに襲われてたりしない?」
『……特に何もないですよ。センパイの方は大丈夫ですか?』
「それなんだけど、色々と情報共有したいからどこかで合流できる?」
『わかりました。黛センパイは今どこにいます?』
「『死体同盟』のアジトにいる。また連絡するわ」
『わかりました。そちらに行きます』
通話を終えたと同時に息が漏れた。よかった……樫添さん、無事だったんだ……
「樫添くんかね?」
「うん、無事だったみたい。こっちに来るって」
「……ふむ」
エミは顎に手を当てて何かを考えていたけど、まずは白樺の話を聞いておきたい。
「先ほどは失礼した。改めて名乗るが、俺は楢崎隆彦。先月まで白樺隆の芸名で俳優として活動していた」
「ありとあらゆるものを失った結果、我々の活動に興味を持ったとのことでしたが、俳優の引退と何か関係が?」
「アンタらもわかってるだろうが、俳優・白樺隆の栄光は既に過去のものだ。歳を取るごとに俺の俳優としての価値は下がっていった。その原因は、俺が世の中を憎めなくなったからだ」
記憶を辿ってみると、白樺隆といえば『刃物』と称されるほどに世の中全てを刺し貫くような恨みと狂気を放つ演技で有名だった。演じる役は連続殺人犯だったり苛烈な復讐者だったりと、必ずと言っていいほど『悪役』を演じていた。
「若い頃は全てを憎んでいたよ。俺を評価しないヤツは全員敵だと思っていたし、そういった自分の攻撃性を演技に出していたら俳優としての名は上がっていった」
「私も子供の頃に白樺様の主演映画を拝見したことがあります。確かに鬼気迫る演技といいますか……テレビの向こうの出来事にも関わらず、まるで自分が当事者として巻き込まれているような感覚がありました」
「そうだろうな。仕事で爆弾をしかけるテロリストの役を演じたこともあるが、あの時だって俺は本気で世の中全てを爆破するにはどうしたらいいかを四六時中考えて細かくノートに纏めていた。どうやったら効率よく多くの人を殺せるかなんてことも考えてたよ。つまりアンタが『巻き込まれている感覚』を抱いたのなら俺の狙い通りってわけだ」
少し笑顔を見せた後に、白樺は俯いた。
「……だが、今の俺にはあの頃のような演技はできない。娘が……クロエがいる限りな」
「つまり娘さんが生まれたことで、世の中への憎しみより彼女への愛情が勝ったということですか?」
「違う!」
突然の大声に思わずエミを庇う形で立ち上がってしまったけど、相手が申し訳なさそうに頭を下げたのを見て座り直した。
「悪かった。ただ、俺はクロエに対して親らしいことなんて何もしちゃいない。育児も妻に任せっきりだったし、愛情なんて必要ないと思っていた。そんな俺を二度と戻せないように壊したのが……斧寺霧人だ」
「その人はエミを庇って亡くなった刑事でしょ? なんで俳優だったアンタとその人の間に接点があるの?」
「接点があるなんてもんじゃない。アイツさえ……斧寺霧人とさえ出会わなきゃあ……俺はまだ全てを憎めたんだ!」
「なに言って……」
頭を抱えて苦しむ白樺に声をかけようとしたけど、その前にエミに腕を引かれた。
「……ルリ、先ほどの通話だが、樫添くんの返答に何か違和感がなかったかね?」
「え?」
「『誰かに襲われていないか』という質問に対して、『なぜそんなことを聞くのか』ではなく『特に何もなかった』と返すのは妙だと思わないかね? それに樫添くんはルリの方は大丈夫なのかと聞いた。これではまるでルリが襲われたことを知っているようにも思えるのだよ」
「言われてみれば……」
よく考えたら、樫添さんがこちらの居場所を聞いてきたのもおかしい。いつもだったら彼女は自分の居場所をまず明かして私たちがそれに合わせる形で合流する。このことが示す意味は……
その時だった。
「おじゃましまーす、『死体同盟』ってここっすよねー?」
なぜか館の扉が開かれ、若い男と黒いレインコートの人物が入ってきたのを見て、私は自分のミスを悟った。
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