「私には、今この場での決断は出来ません」
そう言い放ち、惨めに505号室の玄関を開けて出て行った樫添保奈美の背中を見て、私は心底安堵した。そして玄関の扉が閉じられたと同時に、思わず笑いが漏れてしまう。
「くっ、ふふふふ……」
笑い始めた私を見て、横にいる黛瑠璃子も対峙する柏恵美も何が可笑しいと言いたげに顔をしかめた。
だけど仕方がないじゃないか。私に対してあれだけの啖呵を切った人間が、自分に決断など出来ないと言って、尻尾を巻いて逃げ出したのだから。
「あっはははははは!!」
だから私は、思い切り笑い飛ばしてやった。
「……何が可笑しいのだね?」
柏恵美が予想通りの発言をする。おそらくこの女は現実を受け入れられないのだろう。大切な友達が自分たちを見捨てて逃げ出したことを。だから言ってやった。
「何が可笑しいって!? 可笑しいに決まっているじゃないか! 私を許さないと言って友達を助けに来た人間が、いざ自分が危険な立場になったら、あっさり逃げ出したんだからさあ! これが可笑しくないわけがないだろう!? あっははははは!!」
やはりそうだった。私だけが弱い人間じゃなかったんだ。樫添保奈美は弱い。いや、樫添だけじゃない、皆弱い。
私がカオルコを見捨てたのは仕方のないことだった。そう、仕方のないことだったのだ。あの状況なら誰だってああした。現に樫添保奈美は二人の友人を見捨てた。これで私だけが弱いわけではないと証明された。
けど、まだだ。まだ終わってはいない。
「さて、アンタらの『親友』は役目を放棄した。したがって事前に言った通り、黛瑠璃子の指を切り落とさせてもらうよ」
そう、樫添が逃げたペナルティはきっちりと受けてもらう。そうでないとコイツ等の関係は引き裂けない。指を失った黛を見て、罪悪感に苦しめられろ樫添保奈美。尤も、黛に再び会う勇気があればだけどね。
「待ちたまえ」
包丁を黛の指に当てようとした私を、柏恵美が制止する。
「……なんだい? 言っておくけど文句があるなら逃げた樫添サンに言いなよ」
「そうではない。『レプリカ』、貴様は樫添くんだけではなくルリのことも試すのではなかったのかね? 今ここでルリの指を切り落としてしまえば、それは不可能になると思うのだが?」
「……へえ」
なるほど、流石は『異常者』と呼ばれた柏恵美だ。自分の指が切り落とされる可能性があっても、黛瑠璃子を救おうとするのか。それとも、指を失うことすらも彼女にとっては悦びなのだろうか。
「つまりアンタは、黛瑠璃子に自分の指を切り落とさせたいってわけか」
「結果的には、そうなるかもしれないね」
「……っ! 私がそんなことをするはずがないじゃない!」
「なら黛瑠璃子、やはりアンタが指を失うことになるね」
「くっ……!」
黛瑠璃子は鋭い目つきを保っているが、その顔は少し青くなっている。これは太陽が沈み始めたことによるものではないだろう。
やはり黛瑠璃子といえども人間なのだ。自分の指を失うとなれば、平然としていられるはずがない。
「さてどうする? 指を失うのは柏サンか、黛瑠璃子か? 私としてはどっちでもいいけど、いつまでも待ってはいられない。あと一分以内に決めてもらおうか」
「一分なんて……! 私の指を切り落としなさい、『レプリカ』! エミを傷つけるなんてこと、私は絶対に……!」
「くっ、ふふふふ……」
しかし慌てる黛とは対照的に、玄関へと続く廊下を塞ぐように立っているあの女は……
「くはははは! やはり貴様は『レプリカ』でしかない! それがたった今証明されたのだよ!」
柏恵美は、その口を大きく開き、その外見には似つかわしくないほどに豪快に笑っていた。
「……何が可笑しいんだよ?」
「ふむ、先ほどとは立場が逆になってしまったが、答えてあげようではないか」
そう言うと、柏は右手の人差し指を立てた。
「一分だ」
「なに?」
「貴様は一分待つと言った。『獲物』であるこの私に対して、一分もの猶予を与えてしまった。その一分間で状況が大きく変わる可能性があるというのに、貴様は一分という時間を私に与えてしまった」
何を言っている!? 私は黛瑠璃子を人質に取っている。この絶対的優位を一分そこらで動かせるはずがないはずだ。
「解らないようだね。やはり貴様は黛瑠璃子を名乗るに値しない。そして私が求める『狩る側の存在』でもない。こんなにも私たちに助かる希望を与えてしまっている貴様が、人を殺せるはずもない」
「時間稼ぎをしても無駄だ! そろそろ約束の一分だ。答えを出してもらおうか!」
「答え? ああ、そうだったね」
私が答えを迫ったことを受けて、柏恵美はようやくその場から動いた。
そう、柏恵美は『動いた』。そのことによって――
「これが私の答えだ」
『いつの間にか』、その後ろにいた樫添保奈美が消火器の噴出口を私に向けているのが見えた。
「なっ……!?」
「今だ!」
気づいた時には、もう遅かった。柏の号令と同時に、樫添は消火器のレバーを引き、消火剤を私に向かって吹き付けていた。
「ぐあっ!?」
私の視界が一瞬にして白く染まる。咄嗟に両腕で自分の目をガードしたが、少し薬剤がかかったのか目に激痛が走る。
「うおっ!?」
横にいた菊江の悲鳴が聞こえた。おそらくは菊江も消火剤の攻撃を喰らったのだろう。まずい、状況がわからない。とにかく武器だけは確保しなければならない。
「ゲホッ! ゲホッ!」
思わずせき込んでしまったが、目の痛みも少しずつ引いてきて、同時に視界が戻ってくる。窓に頭をぶつけながらも、私は薄目を開けた。
だが、もう遅かった。
「形勢逆転だ、『レプリカ』」
視界が戻った私の前には戒めを解かれた黛と、依然として消火器を私に向ける樫添、そして不敵な薄笑いを浮かべる柏恵美がいた。
「……くそっ!」
どうなっている……なぜ樫添保奈美がここにいる!? 奴は二人を見捨てて逃げたんじゃなかったのか!?
「不思議そうね、飛天阿佐美。なら教えてあげる。私は逃げたわけじゃなく、ただ単にこのマンションの廊下に備え付けてあった消火器を取りに行っただけなの。アンタたちに反撃するためにね」
「なんだと……!?」
「言ったでしょ、『私にはこの場での決断はできません』って。あれはそのままの意味。状況がまずかったから、反撃の材料を探しに外に出ただけ。その後再びこの部屋に入ってきたけど、柏ちゃんが廊下を塞いでいたからカギを閉められる心配も無かったし、ドアを開けるところを見られる心配もなかった」
「し、しかし! なぜ柏がお前の意図を察せた!? あの時お前たちが作戦を伝え合う暇なんてなかったはずだ!」
もはや自分の感情の任せるままに叫ぶ私に対し、樫添はあくまでも冷静に答えた。
「伝える必要なんてない。柏ちゃんにとって、黛センパイや私が自分を守ろうと動くのは当たり前のことなの」
……は?
なんだその論理は? 守られるのが当たり前?
「貴様には理解出来ないだろうね、『レプリカ』。だが私は身を以て体験している。この二人が私の願望を悉く打ち砕き、私の命を支配していることを」
「支配……!?」
「私は今でも殺されたいという願望を捨ててはいない。だがそれが叶うことは絶対にないということを、この二人に完膚無きまでに思い知らされた。だから私は確信していた。樫添くんはルリと私を守るために必ず戻ってくると」
「そんな……」
こんなことが、あるというのか?
樫添保奈美は全く諦めていなかった。友人たちを見捨てるつもりなんて微塵もなかった。それどころか逆転の一手を掴むために諦めた振りをして私を欺いてみせた。
樫添保奈美は、強い人間だった。
「だけど……! まだ終わってはいない!」
そうだ、人質を失ったとはいえ、私には武器がある。コイツで脅すことだってまだ出来る。私はまだ負けてはいない!
「お、おい飛天! もういいだろ! 俺たちは……」
「うるさい!」
菊江が私を制止しようとするが、私がそれを認めるわけにはいかない。
私だけが、弱いわけにはいかないのだ。
「残念だけど」
しかしその私の決意は……
「もう終わりよ、『レプリカ』」
黛瑠璃子が事態を見守っていたカオルコに果物ナイフを突きつけたことで遮られた。
「……」
カオルコはナイフを突きつけられても無表情だったが、私はそうはいかなかった。
「お前……黛瑠璃子!」
自分のやったことなどお構いなしに、怒りの叫びを発してしまう。
しかし黛瑠璃子は先ほど挫いたはずの足の痛みを感じていないかのように、極めて落ち着いた、そして鋭い目で私を見据えていた。
「さっきの会話で理解したわ。この子はアンタの友達なんでしょ? アンタが降参しないのであれば、今度は私がこの子に危害を加える」
「そんなこと……アンタに出来るって言うのか!?」
「出来るわよ。私は人殺しはしない、だけどエミを守ることに繋がる行動は出来る」
そして黛瑠璃子は果物ナイフをカオルコの指に押し当てようとする。
待ってくれ。本当にやるというのか? いや、ハッタリに決まっている。そんなことが出来るはずがない!
「そんなことがアンタに出来るわけがない! ハッタリに決まって……」
「いい加減にしなさいよ!」
しかし私の精一杯の強がりは、樫添の怒号によって打ち消された。
「まだわからないの? 飛天阿佐美、アンタがここで降参しなければ、また大切な人を助けられないってことを!」
「え……?」
樫添の言葉の意味を考える。
私が降参しなければ、カオルコは黛によって傷つけられる。私のわがままで、私の目的のためにカオルコが傷つくことになる。つまり……
私が弱い人間だと認めなければ、カオルコは更に傷つくことになる。
何だそれは……何なんだそれは……!?
「気づきなさいよ! アンタは一度は後小橋川さんを助けられなかったかもしれない。だけど彼女はこうしてまだ生きている! アンタはまだ彼女を助けることは出来るの! それがまだわからないの!?」
私は……弱い自分を認めたくない。私だけが弱いと認めたくない。だけどそれを認めなければカオルコを助けられない。カオルコを助けられなかったら、私はまだ弱いままだ……
じゃあ私は……私のしていることは……
「いい加減目を覚ませ! 飛天阿佐美!」
後ろを振り返って菊江を見る。彼は目を瞑って頭を横に振った。
待て、待ってくれ。お前まで諦めてしまったら私は……
いや、そもそも私はわかっていたじゃないか。こんなものは只の責任転嫁でしかないとわかっていたじゃないか。
私は最初から、カオルコを助けられなかったことを後悔していたじゃないか。
その私が自分の目的のためにカオルコを見捨てる? そんなこと……
「……私の」
出来るわけないじゃないか。
「私の負けです。それを認めます……」
そして私は持っていた包丁を落とし、しゃがみ込んで頭を地面に付けた。
「だからお願いです……カオルコを解放してください……」
涙声で発したその言葉は、どう考えても強い人間のものではなかった。
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