「悪いね、恵美嬢。結局アイツからは何も引き出せなかったよ」
「構わないよ。空木医師はああいう人間だ。私が今までに聞いてきたようなことしか言わないよ」
アタシたちは結局、空木晴天が患者が生きていることにしか興味のない人間であると知った後、さっさと病院を後にして、帰り道を二人で歩いていた。
空木晴天が川口を生かすためにアタシを利用したのは予想通りだったけど、それだけだ。川口がこの先アタシに対して歪んだ恋愛感情を持ち続けて警察に捕まるようなことになったとしても、たぶんアイツは『死んでないからいいじゃないか』としか言わないだろう。
だけどアタシはひとつだけ、空木晴天の言葉で気になったことがあった。
「なあ、恵美嬢」
「なんだい?」
「アンタはどう思う? 『死ぬより生きている方がいい』って、空木晴天は言っていた。アタシはそうは思わない。『死んだ方がマシ』って状況はこの世界にいくつもあるって思ってる。恵美嬢は……自分が殺されることを望むのが、異常だと思っているのかい?」
別にそれが悪いことだったとしても、アタシは『絶頂期』を求め続けるし、恵美嬢は『絶望』を求め続けるんだろう。だけどアタシの不安は、仮に自分たちの願望が『病気』という単語で片付けられてしまうものであるとしたら。今まで自分を構成していたものがただの異物だったとしたら。
その時、アタシはどうなってしまうのだろうということだった。
「沢渡くん。空木医師の言葉はいつだってつまらない。それがなぜかわかるかね?」
「なぜかって……説教臭いからかい?」
「それもあるが、彼の言葉は『一般社会から求められているもの』だからだよ。あの言葉の中に、彼自身の欲望は入っていない。あれはただ単に、彼の本当の欲望を隠すための方便だ」
「アイツの欲望?」
恵美嬢はアタシに顔を向けて、その手を自分の首に当てる。
「『他人の願望を踏み潰したい』という欲望だ」
そして、手で自分の首を掴んだ。
「彼の欲望は、おそらくそこにあるのだろう。だが同時に彼はそれを社会的に許されないものだと知っている。だから彼は合法的に他人の願望を潰す方法を考えた。それが、『死を望む者を無理矢理生かす』という方法だ」
「じゃあ、アイツは本当は患者の生にも興味がないってことかい?」
「そうかもしれない。だが私は『他人の願望を踏み潰したい』という考えには特に嫌悪感を持っていない。仮に私の願望を踏み潰したいという人間がいるのであれば、歓迎するかもしれない。だが少なくとも、彼のことは歓迎しない」
「そりゃ、なんで?」
アタシの質問に対して、恵美嬢は今度は顔の前で両手を組みながら言った。
「彼が自分の欲と社会的に求められている正義を意識的に混同しているからだ」
「『意識的に』ってことは、つまりワザとってことかい?」
「そうだ。彼は自分の欲望を表に出して他人にぶつけることはしない。だが、『他人の願望を踏み潰したい』という欲望を発散させたいとも思っている。だからあえて、社会の正義と自分の欲望の境目を自分から見ても曖昧にしている。おそらく彼の中では、自分は医者としての正義を全うしていることになっているのだろう。それが、私が彼を歓迎しない理由だ」
「じゃあ恵美嬢は、空木晴天の言葉は単なる嫌がらせにすぎないって思ってるのかい?」
「言ってしまえばそういうことだ。実につまらないね。私を苦しめたいのであれば、まっすぐにその欲望を私にぶつければいい。だが彼はそうしないからつまらない。沢渡くん、彼の言葉が真実で、我々の望みが正常なものではなかったとしても……」
恵美嬢は自分の首を再び掴んだ。
「私は、自分の命を『狩る側の存在』に捧げることを選ぶよ」
――ああ、これだ。
これだったんだ。アタシが恵美嬢に惹かれる理由は。
誰かに惑わされることも、誰かに操られることもない、圧倒的な存在感と揺るぎない願望を持つ人間。それが、柏恵美。
こんなに強固に『殺されたい』と願う人間の精神が、『病気』の一言で片付けられるはずがない。どんなに説得しても、どんなに懇願しても、恵美嬢は『狩る側の存在』とやらに殺される道を選ぶんだろう。
だから恵美嬢はアタシにとって、これほどまでに魅力的なんだ。人生の『絶頂期』を求めるアタシは、少しでも今のこの瞬間を盛り上げたかった。華さんと同じように、努力が報われることなく、後悔しながら死ぬのが怖かった。だから少しでも『生きていてよかった』と思いたかった。
だけど恵美嬢は、常に『殺されること』を願い続けている。常に自分の命がどこかにいる『狩る側の存在』に無慈悲に蹂躙されることを願い続けることができる。その願望が自分の中に在り続けている。
アタシからすれば、恵美嬢は全ての瞬間で『絶頂期』を生きている。
それがアタシは狂おしいほどに羨ましい。同時に、一瞬でも自分の願望を疑ってしまった自分が情けない。アタシは『絶頂期』を求めることを心のどこかで恐れていたんだ。
それを自覚したアタシは、ある決意をした。
「なあ、恵美嬢。アタシ……一旦アンタから離れるかもしれない」
「ほう? なぜだね?」
「アタシはまだ、アンタのように自分の願望を第一に考えられてない。まだ、自分の願望に向かってまっすぐに歩けていないって思ったんだ。だからこのまま一緒にいれば、アタシはアンタと決別してしまうんじゃないかと思う」
「ふむ、私は去る者は追わない主義だが……君という理解者を失いたくはないのだよ」
「ああ。アタシも恵美嬢を理解者だと思ってる。だからこそ、アタシは『絶頂期』を求める自分をもう一度見つめ直したい。それでもし、アタシが純粋に『絶頂期』を求められるようになって、その時もお互いに生きていたら……」
アタシは無意識に、右手を差し出していた。
「アタシと一緒に、死んでくれないかい? 恵美嬢」
――もしかしたら。
アタシは恵美嬢に友情を感じていたのだとしたら。今の言葉はアタシなりの最大限の敬意の表し方なのかもしれなかった。
社会的に見れば、好ましくない言葉なのはわかってる。だけど、『絶頂期』を求めるアタシの最期の時に恵美嬢がその場にいることを望むのは、アタシが恵美嬢を親友だと認めていることに他ならなかった。
そんなアタシに対して、恵美嬢は答えた。
「……残念だが、約束はできない。私と君の願望はあくまで別のものだ。私の求める『絶望』は情け容赦なく殺されること。私の最期の時に、君という『希望』があってはならない」
「そう、かい……」
「だが、沢渡くん。もし君が私の横に戻ってくることがあるならば……」
恵美嬢はアタシが差し出した右手を掴む。
「君の『絶頂期』に私も付き合わせてくれたまえ」
――この時、アタシは恵美嬢をはっきりと『親友』であると認識した。
その後。
アタシと恵美嬢は一緒に行動することはなくなったものの、メールでのやり取りは続けていた。
川口は相変わらずアタシに付きまとっていたので、金を受け取って何回か夜を共にしていたら、いつの間にか学校にバレてしまい、川口は学校を去ることなった。そのことによってアタシの名は学校中に知れ渡ることとなったが、特に気にはしなかった。
そして、中学校を卒業したアタシは空木曇天――リーダーと出会って『死体同盟』に入ることとなったが、それももう過去の話だ。
そうだ、アタシにとって重要なのは、今だ。今のこの瞬間……
※※※
――どうやら眠ってしまっていたようだ。
ああ、なんだっけ。長い夢を見ていたような気もするけど、よく覚えていない。それより、重要なことがある。
アタシはテーブルの上に投げ出していたものをもう一度見つめる。それは、空木晴天から受け取った名刺だ。
確かにこの名刺に書かれている名前は恵美嬢に縁がありそうだ。連絡を取ってみるのもいいだろう。
時計は午前十時をさしている。電話に出てくる可能性は高い。名刺に書いてある電話番号をダイヤルし、応答を待った。
何回かの呼び出し音の後に、若い女の声がアタシの耳に届く。
『……もしもし、棗ですが』
その名前を聞いて、アタシの心が躍ったのは言うまでもなかった。
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