「待ってたよ、樫添保奈美、柏恵美」
505号室のリビングで黛センパイに包丁を向ける飛天阿佐美は、喫茶店で会った時と同じく黒髪ロングヘアーのウィッグを被り、全く似合わない暖色系の洋服を身に纏っていた。その横には気まずそうに目を逸らしている菊江くんがいる。
「飛天阿佐美……!」
菊江くんの動きも気になるが、それ以上に黛センパイの姿を模してその存在を侮辱する飛天を見ると、思わず怒りの声が漏れてしまう。
「樫添さん、エミを連れてきたの?」
縛られた状態で椅子に座らされている黛センパイは柏ちゃんを見て呟く。その表情は少し怒っているようにも感じられた。恐らくはこの危険な場所に柏ちゃんを連れてきたことで、彼女に危機が迫ることを懸念しているのだろう。
「ルリ、樫添くんを責めないでやってくれたまえ。言ったはずだ、今回の件は私も協力すると」
「でも……!」
「そこまでだよ」
抗議の声を上げようとしたセンパイの首に、再び刃物が突きつけられる。
「……!」
「見ての通り、黛瑠璃子を生かすも殺すも私の意志一つ。それを忘れてもらっては困るね」
「アンタ……! そんなことをして只で済むと思ってるの!?」
「思ってないさ。だけどこうしないと私は前に進まない。黛瑠璃子、そして樫添サンが本当に強い人間なのか、それとも私と同じ弱い人間なのかを見極めるまではね」
「なるほど、それが貴様の目的というわけか」
私の横にいた柏ちゃんが口を開く。その顔はやはり怒りに染まり、その目は飛天を真っ直ぐ見据えている。
「生憎だが、ルリは貴様の身勝手に付き合ってやるような安い女ではない。泣きつく相手が欲しいのであれば、他を当たってもらおうか」
「この状況でよくもそんなことが言えるね。愛しのルリさんがどうなってもいいのかな?」
「良くはない。だが所詮、『レプリカ』に過ぎない存在にはルリをどうこう出来ることは絶対にないと確信している。だから私はこう言えるのだ」
そして柏ちゃんは飛天を指さし、言い放つ。
「貴様如きが背負えるほど、『黛瑠璃子』の名前は軽くない」
「……!!」
……やはりそうなのだ。柏ちゃんにとって、既に黛センパイの存在はこれほどまでに大きくなっている。そして彼女も、飛天がセンパイの姿を模していることに大きな怒りを抱いている。だからこそ今回の件に協力しているのだ。
しかし状況は不利だ。飛天の言う通りセンパイの身柄はあちらが握っている状態だし、こちらには対抗する手段はない。ここで飛天を挑発するのは明らかに悪手のはずだ。
「……言ってくれるね。本当に目障りな女だよアンタは!!」
「ふむ、貴様の事情は後小橋川くんから聞いた。全く、私のことが憎いのであれば素直にその殺意を私に向けて欲しいものだ。よりによって、こんな回りくどい方法を使うとは。私も貴様のことが腹立たしいよ」
「アンタのことは憎いさ。だけどそれ以上に、私にその強さを見せつけた黛瑠璃子、そして樫添保奈美が妬ましい。だからこそ私はアンタらの友情が本物なのかを確かめたい。これはそのための行動だ」
「……アサミ」
その時、ここまで沈黙を貫いていた後小橋川さんが口を開いた。それを受けて、飛天は一旦押し黙る。
「ねえアサミ。何でこんなことをするの? こんなこと、私は望んでないよ? だってあなたの行動は柏先輩を怒らせてるんだもの」
「……」
「もう止めようよ。あの時はアサミのことを嫌いだって言っちゃったけど、今はもう怒ってないよ。今ならまだちゃんと謝れば皆許してくれるし、私だって……」
「カオルコ!!」
だが飛天は後小橋川さんの必死の説得にも耳を貸さなかった。
「……許す許されるの問題じゃないんだよ。私はもう、弱い自分のままでいたくない。だけど自分がどうすれば強くなれるのかわからない。それでも行動を起こさないといけなかったんだ。例えそれが八つ当たりだとしても」
「そんなの……!」
「わかってる! だとしても私はもう止まれないし止まらない。止まってしまったら二度と進むことが出来ない。だから私にはこうするしかなかったんだ」
……私は、飛天の言っていることが他人事であるとは思えなかった。
私にも経験があるからだ。大切な人を失い、自分が何も出来なかったことへの後悔。そしてその後悔から、罪滅ぼしと自分を偽り、何かしらの行動を起こすことで自分を慰めるという経験が。
だけど、そんなのは……
「……ふざけないで」
「か、樫添さん?」
後小橋川さんの動揺する声が聞こえたが、私は構わず言葉を続ける。この状況ではまずいかもしれないが、言わずにはいられなかった。
「何が『前に進めない』の? アンタのやってることは前に進むための行為では決してない。更に言えばその場に留まってすらいない。他人の足を引っ張って、自分だけでなく大切な人の存在まで侮辱する、最低の行為なの」
「黙れ! アンタに何がわかる!」
「何がわかるって? アンタが友達を守れなかったことを後悔しているフリをして、本当は自分のことしか考えていない最低の女だってことが手に取るようにわかるの。かつての私のように。だから私はアンタが許せないし、アンタの好きにはさせない」
そうだ。私も既に決意はしている。
絶対にこの女の手から黛センパイを救い出すし、コイツにだけは負けるわけにはいかないんだ。
「飛天、そこまで熱くなるな」
菊江くんが飛天に近づき、諫めるように言い放つ。この場では唯一の男だ。おそらく単純な取っ組み合いになったら彼には敵わないだろう。だから彼の動きには注意する必要がある。
「お前には目的があるんだろう? それを忘れるな」
「……そうだったね。さてと、樫添さん。そろそろこちらの要求を言おうか」
そう言うと飛天は菊江くんに目配せをする。すると彼はキッチンから果物ナイフと鍋の蓋を取り出した。
「樫添先輩、これを受け取ってください」
そして何故か、その果物ナイフを私に渡してきた。
「……何のつもり? 私に武器を与えるなんて」
「それは、飛天が説明します」
菊江くんは鍋の蓋で自分をガードしながら後ろに下がった。意図が読めない私は取り敢えず飛天の言葉を聞くことにする。
「さてと、私の要求は何度も言ったように、樫添サンと黛瑠璃子に柏サンを見捨ててもらうことだ。だけど言葉だけで『見捨てます』と言われても信用できない。だから……」
そして飛天は、一瞬だけ顔をひきつらせた後に言った。
「樫添サンには、柏サンの指を切り落としてもらうよ」
「……なんですって!?」
動揺した私は、咄嗟に黛センパイを見る。彼女は目を見開いて首を横に振っていた。そうだ。センパイは柏ちゃんを守るために動いているし、私もそうだ。そんな私が自ら柏ちゃんを傷つけることなんて出来るわけがない。
「それが出来ないのであれば、私が黛瑠璃子の指を切り落とす。樫添さんには柏恵美か黛瑠璃子のどちらか、もしくは両方を見捨ててもらう」
「……両方?」
どういうことかわからなかったが、飛天は私の後ろにある玄関のドアを指さした。
「樫添サンがもし、柏恵美の指を切り落とすことも黛瑠璃子の指を切り落とすこともしたくないのならその玄関のドアを開けて尻尾を巻いて逃げればいい。別に私はそれでも構わないよ。アンタが逃げた後は黛瑠璃子に同じことを要求するだけだからね」
「そんな……!」
何て事だ。黛センパイを無傷で救い出すには柏ちゃんを傷つけなければならない。柏ちゃんを無傷で救い出すには黛センパイを傷つけなければならない。どちらも傷つけたくなければ、重い選択を黛センパイに背負わせなければならない。
手にした果物ナイフを見る。これで飛天に襲いかかることも考えたが、目の前には鍋の蓋を持った菊江くんがいる。もしあれでガードされたら、その間に黛センパイが殺されてしまうかもしれない。
「樫添さん」
「黛センパイ……?」
縛られているセンパイは決意をした目で私を見る。
「お願い。助けるのはエミにして。そうじゃないと今まで私たちがやってきたことが全て無駄になる。私たちがエミを傷つけたら、私たちの関係は二度と戻らない」
「でも、それだと!」
「わかってる。でも樫添さんの選択を私は責めないと誓う。だってそれはエミを助けるための選択なんだから。私たちの目的のための選択なら、私は後悔なんてしない」
そして黛センパイは微笑んだ。まるで私を安心させるように。
……黛センパイは柏ちゃんと平和な日常を過ごしたい。だから例え自分が指を失うことになっても柏ちゃんも私も恨まずに元通りに日常を過ごせると言いたいのだろう。
だけどダメだ。センパイが良くても私が良くない。それをしてしまったら私はもうセンパイや柏ちゃんと平和な日常を過ごせない。だからと言って……
「樫添くん、君が私の指を切り落としたところで、私は君を見捨てはしない」
今度は柏ちゃんが私に声をかけてきた。そうだろう、彼女はこう言うだろう。
「こういう形で傷を負うのは不本意ではあるがね、指を数本失っても私はまだ『獲物』として生きることは出来る。それに、ルリの支配もより強固になるかもしれないのだからね。だから私は君を恨まない」
……柏ちゃんはああ言っているが、本心は黛センパイと私を思ってのことなのだろう。彼女もセンパイと同じく、自分の指を失ってもセンパイも私も恨まないと言っているのだ。だけどそれではやはり、私が良くない。そんなことをしてしまっては、私もセンパイも元通りに柏ちゃんと接することが出来ない。
そう、どちらを救ってどちらを見捨てたとしても、私はもう彼女たちの友達を名乗れない。
「さて、いつまでもこちらも待って入られないよ。あと一分以内に結論を出してもらおうか」
どうすればいい、どうすればいい!?
私はどちらも見捨てられない。だけどこのままいけばどちらも見捨てることになる。どうする? 私は……
「別に逃げても良いよ。そうなれば樫添サンは柏恵美と黛瑠璃子の両方を我が身可愛さに見捨てた弱い人間だと証明されるだけ。それはそれで私にとっては都合が良いからね」
飛天の言う通りだ、私はこんな事態になっても決断が出来ない。躊躇ってしまう。私に強い心があれば、直ぐに決断が出来たはずだ。でも私は……
頭の中で様々な考えが渦巻き、全くまとまらない。どうすればいい、どうすれば……
「樫添くん。君はそれでいい」
混乱する私の頭が、その一言によって止まった。
それでいい? どういうこと? 私はその意図がわからず、その言葉を言った人物を見る。
柏恵美を、見る。
「君はいざとなったら直ぐに決断を下さない。だが君はそれでいい。それこそが君の長所だ」
長所? 何を言ってるの? こんな状況じゃむしろ直ぐに決断を下せない方がまずいんじゃないの?
「あの時もそうだった。君は感情に任せて私を殺すことを選ばず、私に殺されることを選んだ。自分の考えを一旦整理し、私により重い罰を与える方法を選んだ」
柏ちゃんが言っている、私の選択。それは私が柏ちゃんに出会った頃の、身勝手な選択だった。友人を失った原因を自分ではなく他人に求めた愚かな選択だった。
「でも、あれは……」
「樫添くん、ルリが私を支配し続けるのには君が必要なのだ。ルリは私を守る。そのために動く。だがその考えを一旦整理するための人間が必要なのだ。今の君のように」
今の、私のように?
待って、本当に選択肢は二つしかないの? そうだ、この状況をもっとよく考えるんだ。私も柏ちゃんも黛センパイも助かって、なおかつ飛天を止める方法……
でもダメだ。どうあっても時間が足りない。その方法を考えつくまでの時間が足りない。
……時間が足りない?
そうだ、時間が足りないなら……
「さて時間だ、樫添サンの選択を見せてもらおうか」
「……」
……この選択をして、どうなるかはわからない。だけど可能性があるとしたら、これしかない。
「わかった。見せてあげる、私の決断を」
そして私は……
「柏ちゃん、それに黛センパイ」
果物ナイフをその場に捨て、リビングに背を向けた。
「今まで、私を信じてくれてありがとうございました」
そして言い訳にしか聞こえないであろう言葉を残し、惨めに廊下を歩き……
「私には、今この場での決断は出来ません」
――玄関を開けて、505号室を後にした。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!