九月末とはいえ、夜はもう寒い。にもかかわらず、私は夜の九時という時間に『彼女』のアパートの前にある裏通りで身を潜めている。
理由は一つ。横井による『彼女』への襲撃を阻止するためだ。
「……どうやら、緊張なさっているようですね」
私のすぐ後ろで閂が囁く。明かりがほとんどない場所ではこいつの黒髪と黒い制服は闇に溶け込み、代わりにその白い肌をより青白いものに見せていた。
「流石の黛先輩と言えども、やはり平常心ではいられないのですか? ひひひ……」
「……何が可笑しいの?」
「いえいえ、この笑いに特に意味はございません。もちろん、先輩を嘲るつもりもありません。ですが、意外とは思いました。先輩ともあろう御方がこれほどまでに緊張なさるとは……」
「……」
確かに、閂の言うとおりだ。
私の手はカタカタと震え、口の中に苦い味が広がっている。さらに地に足がついている感覚が薄く、それでいてじっとしてはいられないような奇妙な感覚が私を襲っていた。
言うまでもない、緊張しているのだ。
……これから、人を殺すのかもしれないのだから。
今日の昼休みに起こった、横井との口論。
横井が今日でなくとも、近いうちに『彼女』を襲うのは間違いなかった。その理由も、私への逆恨みであるということはわかった。
しかし、疑問はあった。それだけで『彼女』に危害を加えようとするものだろうか。それだけの理由で犯罪者になるリスクを冒そうとするだろうか。
だとしても、その疑問を突き止める余裕はないだろう。今の横井と、まともな話し合いが成り立つとは思えない。
「どうやら、今夜の主役がご到着のようですね……」
そう考えているうちに、閂が私に再び囁いた。アパートの前を見ると、黒い服にニット帽を被った人物が『彼女』の部屋を見ている。その人物の体格は私とそう変わらない。
間違いない、横井だ。やはり今日、『彼女』を襲いに現れた。
問題はここからだ。ここから私がどう動くか。
ここで下手に横井に声をかければヤツを刺激するかもしれない。そうなれば『彼女』だけでなく私も危ない。しかし、まだ何もしていない横井にいきなり私が持っている催涙スプレーを吹き付けるわけにはいかなかった。そんなことをしてしまえば、私の方が警察に問い詰められる。
ならばここで警察に通報するか? しかし今から警察に連絡しても、すぐにここに到着するわけではない。その間に横井が『彼女』を襲ってしまったら、どちらにしろ対決は避けられない。そうなると……
「閂、もしものことがあったら警察に証言するって言ってたわよね?」
「はい、そのつもりでございます……覚悟をお決めになったのですか?」
「いいえ。アンタには私と横井がもみ合いになったら警察に通報してもらうわ」
「ひひひ、いいでしょう……ですが、決断はお早めにされるべきだとは思いますよ……?」
「私は自分で行動を決める。アンタの指図は受けない」
「これは失敬。ですが私としても、先輩がご自分で決心されることを望んでいるのですよ……」
「……!」
閂と話している間に、横井が行動を起こした。『彼女』の部屋のインターホンを押そうとしている。
そして左手には、背中に隠すように鋭い包丁が握られていた。
ま、まずい! ヤツは『彼女』が出てきた直後に襲いかかるつもりだ!
考えているヒマは無かった。私は身を潜めていた場所から飛び出すと、そのまま一気に横井のいる場所に突っ込んでいった。
「えっ!?」
私の足音に横井が反応する。どうやら私がここにいることは完全に想定外だったようで、固まったまま動かない。
そのまま素早く、その目にめがけて催涙スプレーを発射した。
「きゃあっ!」
包丁を持っていたため至近距離では発射できなかったが、横井は腕で顔を押さえて怯んだ。その間に私は包丁を奪い取ろうとする。
「うわああああっ!」
「っ!!」
しかしパニックになったのか、横井は腕で顔を押さえたままもう片方の手に持った包丁をがむしゃらに振り回した。これでは取り押さえられない。
だがこれで警察に通報する理由は出来た。
「閂!」
「ええ、わかっております」
私の後ろで状況を見ていた閂は携帯電話を取り出し、警察に連絡する。
よし、おそらく五分もあれば警察は来るだろう。何とかその時間を稼げば……
だが、その時。
「え……」
包丁を握りしめた横井がまっすぐこちらに向かってきているのが見えた。
「くっ!!」
横井が持つ包丁は、とっさに横に逸れた私のすぐそばを通り過ぎて行った。危なかった、あと少し気づくのが遅れていたら、私に包丁が刺さっていた。
催涙スプレーを構えながら後ろに何歩か下がって距離を取る。落ち着いて横井を見てみると、目や鼻から涙と鼻水が出ていた。しかし目に痛みを感じている様子はない。
どうやらガスを発射した距離が遠かったのと、横井がとっさに顔を腕で覆ったため、あまり催涙ガスを吸わせることが出来なかったようだ。
これはまずい。横井は包丁を持っている上にこちらの手を知られてしまった。警察が来るまであと五分。持ちこたえられるだろうか。
「黛先輩、一応申し上げておきますが、私があなたの命を守るために動くということはございません。あくまで私はあなたの行動を見届けるためにここにいるのでございます……ひひ」
閂が私に忠告する。この状況だともはや聞きなれたはずの小さな笑い声が妙に腹立たしい。しかし今はそんなことを考えている場合ではない。なんとか横井を止め、『彼女』を守らないと。
「あ、あんた、何でここに!?」
顔を液体でグシャグシャにした横井が、赤い目で私を睨み付ける。どうやら私が来ることは完全に想定外だったらしい。
「アンタのやろうとすることなんて御見通しってこと。大人しく諦めれば狂言ってことにしてあげてもいいけど?」
この状況で横井を挑発するような言動は危険だと頭ではわかっていた。しかし、『彼女』に危害を加えようとする横井がどうにも腹立たしかったので、ついこのような言葉になってしまった。私がそれを後悔したときにはもう遅かった。
「あんたは……どこまでもバカにして!」
激怒した横井が再度向かってくる。落ち着け、一年前の『あの時』に比べればこんなやつは大した相手ではない。こういう場合は退いたらまずい。避けてもまずい。ならば……
「……ほう!」
後ろから閂の感嘆するような声が聞こえた。そう、私はあえて突っ込んでくる横井に向かっていったのだ。
「え……」
その行動も横井は予想していなかったのか、一瞬動きを止めて怯む。その隙を私は見逃さなかった。
「やあああっ!」
そして横井の顔に至近距離で思い切りスプレーを吹き付けた。
「きゃあああああああっ!!」
今度は真っ向から催涙ガスを喰らった横井は包丁を取り落として顔を押さえ、その場に蹲った。
「あああっ! 痛い、痛いいいいいっ!」
催涙ガスによる目や鼻の痛みに耐えかね、地面でバタバタと悶えている。……どうやら、もう大丈夫なようだ。
「……」
だが、その時。
「……!」
私は横井の落とした包丁を思わず見てしまった。
「ひひひ……まだですよ黛先輩。まだ終わってはいません」
私と横井が戦っている間は距離を取って事態を見守っていたらしい閂が、再び私に近づいて囁く。
「先輩はまだ『決断』をしてはいらっしゃらない。さあ、お選びください」
そして左目を閉じ、髪の隙間からわずかに見える右目を目一杯見開きながら、言う。
「『あの人』のために、ご自分の手を汚すかどうか」
閂のその姿は、相手に有無を言わさないとてつもない圧力を持っていた。
私は思う、この状況で『選ばない』ということは出来ない。閂はそれを言っている。
ならばどうする? 横井をこのまま放っておくか、それとも……
二度と『彼女』に手出しできないようにするか。
……?
二度と『彼女』に手出しできないようにする?
私は改めて、地面で悶えている横井を見る。
その姿はどことなく、いつもより小さく見えた。それはなぜだろうか。こいつを攻撃してもまるで反撃される心配は無いという安心感だろうか。
そこまで考えて気づく。横井が今置かれている状況は、『彼女』が常日頃望んでいる状況だということに。
絶対に助からない、絶望的な状況だということに。
……なんだこれ。これが『彼女』の望む状況? こんなものを『彼女』は望んでいるの?
残念だけれど、全く楽しくない。
こんなやつを一方的に殺しても、私は全く楽しさなんて覚えない。『彼女』は今の横井のような状況を楽しむのだろうが、私は全く楽しくない。
……なら、私が取るべき選択は決まっているじゃないか。
この状況に楽しさを覚えられない私が、『彼女』の興味を引けるわけがない。『彼女』が求める存在になれるわけがない。
つまり、横井を殺しても全くの無駄に終わるということだ。
「……閂」
「なんでしょう?」
「アンタの提示した『提案』、却下するわ」
「ほう……ではこのままご自分の手を汚すことなく、『あの人』を独占することなくお過ごしになると……」
「いいえ、それは違う」
「はい?」
「私は、『彼女』のために自分の手を汚すことはする」
そう宣言すると、私は蹲っている横井の髪を掴んで引っ張った。
「い、痛い! やめて!」
顔を上げた横井を見ると、先ほど以上に涙を流して見るに堪えない顔になっている。ああ、バカみたい。こんなやつを殺そうか迷っていたなんて。
「ねえ」
「な、なに……」
「私は『彼女』の求める存在とは違う。人を殺すことなんてしない。その場でそう誓うわ」
「え……」
「でもね、『彼女』に今度手を出そうものなら……」
「ひっ!」
そして、横井の顔面をアスファルトの地面スレスレで止める。
「顔面を削り取るくらいはするから、そのつもりでね?」
「あ、は、はいぃ……」
私の言葉を聞いた横井は完全に抵抗を止め、全身から力が抜ける。その姿を見て、私は確信した。
ああそうだ。これだ、これだったんだ。私が求めていたのはこれだったんだ。
私が『彼女』を救うにはその望みを完全に潰さなければならない。徹底的に『彼女』にとっての汚れ役を担わなければならない。『彼女』と敵対しなければならない。
だけど、例えそうなっても私は『彼女』と共に過ごしたかったんだ。なら、そのために何をするか?
そう、『彼女』を徹底的に打ちのめして敗北させる。今の横井のように。
そうだ、私は『彼女』の敵になるんだ。そして『彼女』を救うんだ。それが私の選択。
やはり私は、『彼女』のために自分の手を汚すことを選んだ。
「ひ、ひひ、ひひひひひひひひひひ!!!」
その時、いつもより大きな閂の笑い声が聞こえた。振り返ると閂はまだ右目を見開いている。
「ああ、素晴らしいですよ黛先輩、あなたこそ、あなたこそ真の『友情』を持った素晴らしき……」
「もういいわ」
「ひ?」
「アンタの芝居はもういいって言っているのよ。あんたの目的は真の『友情』を見たいなんてものではない。そうでしょ?」
「……ひひひ、なぜそうだと?」
「今の私の選択が真の『友情』なんて綺麗なものではないなんてことは一目瞭然。それなのにアンタは私の行動を褒め称えた。なら、アンタの言葉は嘘で、その目的は別にある。ごく自然な理屈だわ」
「ひひ、ひひひひ……」
ここでようやく、閂は髪で右目を隠し元通りに左目を開いた。そしてポケットから小さなタオルを取り出し、横井の頭に乗せる。
「……いいでしょう、ならば私の本当の目的を」
「興味ないわ」
「おや、そうですか?」
「アンタが何を考えていようと興味はない。ただ一つ言えるのは、今後も私や『彼女』にちょっかいを出そうと言うのなら……ただじゃおかない」
「ひひひひ……」
私の言葉に少しも怯まない閂は、横井の顔をタオルで拭きながら答える。
「ならば、しばらくは先輩の前から姿を消しましょう。ですがまた、私はあなたの前に現れます、まだ確認できていないものですから……」
「……後悔しなければいいけどね」
「ひひ、ひひひひひ……」
――――その後。
駆け付けた警察には、予定通り私と閂が証言して横井は補導された。
怪我人がいなかったのと未成年だったことから、横井はすぐに解放されたようだが、学校を停学にはなったようだ。
そして閂は、言葉通り私の前に現れることは無くなった。おかげで私はしばらくは『彼女』と共に過ごしながら受験に専念出来た。
だが、このままでは終わらないだろうとは思っていた。そしてその予感が的中したとわかるのは、この出来事から数か月後のことだった……
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