【21年前 2月21日 午後2時11分】
「……あの、失礼します」
「はい、いらっしゃいませ。見学をご希望の方ですか?」
その日、講師のアルバイトで入っている演劇教室にやってきたのは50歳くらいの男性だった。中肉中背で少し年季の入ったコートを着たその姿は一見すると「人生に疲れた中年男性」というイメージを抱かせる。
だがその外見からもたらさせる印象とは裏腹に、男性の立ち姿には静かな力を感じられた。まるで表向きの印象でこちらを侮る人間を炙り出し、相手の警戒心や力量を計っているかのような不気味さが存在する。
それだけで私は、目の前の男性を「普通の人間ではない」と思ってしまった。
「……その、この教室、喋りを、上手く、やれますか?」
「はい?」
詰まりながら話す割にはよく通る声だったので何を言っているのかはわかったが、何が言いたいのかはいまいちわからなかった。
しかし男性の言葉とここに来る目的を考えてみれば、だいたいの予想はつく。
「はい、人前で上手く話したいという目的でいらっしゃったということであれば、『入門者コース』というのがございますよ。そちらを見学なさいますか?」
「……はい、お願い、します」
どうやら私の予測は当たっていたようだ。これでも役者の端くれだから、これくらいの観察はできないとならない。
「申し遅れました、私は講師の唐沢と申します。よろしければこちらの見学申し込みの書類をご記入してお待ちください」
「わかりました……」
男性が手早く書類に文字を書いていくのを見る。
そこには氏名欄に『斧寺霧人』と、職業欄に『公務員』と書かれていた。
この私、唐沢清一郎はいわゆる『駆け出しの俳優』だった。しかし現状、ロクにオーディションにも受からずにエキストラや役名のつかない仕事くらいしか掴めず、このように演劇教室のアルバイトで食いつなぐ日常を送っている。
『自分には俳優としての才能がない』、そんな『絶望』が突き付けられる日がもう目の前に迫っているのではないか。ここ一年余りの間そんな不安に苛まれていた。
「あの、すみません。よろしいですか?」
「あ、はい。なんでしょう?」
考え事をしていたせいで斧寺さんの質問に答えるのが遅れていた。
「……こちらの台本を、ただ読むのが、いいのでしょうか?」
「斧寺さんの場合、発声は問題ありませんので、まずは文章を口に出す練習をしてみましょう」
さっきの様子を見る限り、斧寺さんは人前で話すことに緊張してしまうというより、ただ単純に会話の組み立てが苦手なように見えた。それなら発声練習よりもまずは長いセリフを口に出して『話す』という行動そのものに慣れていくところから始めた方がいいだろう。
「それではこちらの『上司』と書かれているセリフを読んでいきましょう。私は『部下』の方を担当します」
「わかりました」
渡した台本は会社の上司に対して部下が食って掛かるというシチュエーションだった。やり取りとしてはこのようなものだ。
部下「部長、先日提出した企画書についてのご意見を伺いたいのですが」
上司「なぜ今それを訪ねるのだね? 内容を確認したら私から声をかけるとメールで通知していたはずだろう?」
部下「ですが既に一週間経っています。修正するにしても一から作り直すにしても部長のご意見を伺わないとその判断がつきかねます」
上司「ふむ、ならば君はこの私に『早くしろ』と言っているのだね? いつも君の出過ぎた行動の尻ぬぐいのために奔走しているこの私に」
部下「何が尻ぬぐいですか? 責任を持つのが上司の仕事でしょう」
上司「それは上司に話を通してから動く人間が言うセリフだよ。君はいつも誰にも何も報告せず、勝手な判断で状況をかき乱す。そんな人間の責任だけ持つほど、私は甘くはないのだよ」
部下「そんなの、責任逃れの言い訳でしょうが!」
上司「自分の出しゃばりの言い訳をしている男がよく言うね」
部下「……あなたが話にならない人だというのがよくわかりましたよ」
上司「そうやって自分の考えを全て相手に伝えるのが君の甘いところだよ。少しは建前というものを身に着けたまえ」
部下のセリフに対して上司が応じる形なので、斧寺さんもセリフに入りやすいだろう。年齢的に上司と部下という間柄もちょうどいいはずだ。
台本を見ながら、部下のセリフを読み上げた。
「部長、先日提出した企画書についてのご意見を伺いたいのですが」
読み上げた直後に斧寺さんに目をやると、台本を見ながらたどたどしく口を開いた。
「な、なぜ……今……それを訪ねるのだね? 内容を確認したら、私から、声を……かけると……メールで通知していたはずだろう?」
やはり声の大きさは問題ない。話すことに恥ずかしさを感じている様子もない。続けていこう。
「このままいきますよ、『ですが既に一週間経っています。修正するにしても一から作り直すにしても部長のご意見を伺わないとその判断がつきかねます』」
「……ふむ、ならば君はこの私に……『早くしろ』と言っているのだね? いつも君の出過ぎた行動の尻ぬぐいのために奔走しているこの私に」
「何が尻ぬぐいですか? 責任を持つのが上司の仕事でしょう」
「それは上司に話を通してから動く人間が言うセリフだよ。君はいつも誰にも何も報告せず、勝手な判断で状況をかき乱す。そんな人間の……くっふふふっ……」
「どうされました?」
突然笑い出したので一旦中止した。斧寺さんは私を見ながら浅く頭を下げる。
「申し訳ないね。ここまで長く喋る自分が珍しくてつい笑ってしまったのだよ」
「いえいえ、そういった生徒さんも多いですよ。自分の新たな一面を見つけると戸惑ったり笑ったりしちゃいますよね」
「ん? あれ、私、今、喋り、成立しましたか?」
「え?」
何を言っているのかまたわからなかったが、そういえばさっき一瞬会話が成立した。
「ああ、あれ、さっきの会話、どうしたのでしょうか?」
「もしかしたら、斧寺さんは先ほどのようにフランクに話すと上手く話せるのかもしれませんね。もう少しこの練習を続けてみましょうか」
「はい、お願い、します」
【21年前 4月30日 午後5時24分】
斧寺さんが教室に来て二ヶ月ほどが経ち、私とも普通に会話できるようにもなった。
しかし私としては気になることもあった。それは……
「今日の練習は終了です。お疲れさまでした、斧寺さん」
「今日もありがとう唐沢くん。感謝しているのだよ」
「それにしても斧寺さん、やっぱりその話し方は抜けませんか?」
「ふむ、どうも素直に話そうとするとこの口調になってしまうね。私としては別に構わないのだが、上司が相手だと不興を買う可能性はあるだろうね」
講師と生徒という間柄であるはずなのに、私は敬語で斧寺さんはどこか芝居がかった尊大な口調で話していた。私としては二十歳以上も年上の男性に敬語を使われるのも気まずいので問題はなかったが、私以外の人間にもこの口調で話していれば、本人の言った通りトラブルの原因になるかもしれない。
今日はシフトも終わりなので、斧寺さんと一緒に教室のあるビルの玄関まで歩くことになった。
「そういえば君の本業は俳優だと聞いていたが、そちらの方は大丈夫なのかね? 私に時間を割いてばかりでは申し訳ないのだよ」
「ああ、いや、大丈夫ですよ……スケジュールは全然埋まらないんで……」
これは事実だった。俳優の仕事はここ一ヶ月全く掴めていない。
「そうか。ところで近くに天ぷらが売りの店があるのだが、一緒にどうかね? ご馳走するよ」
「え? い、いいんですか?」
「いいも何も、私が一緒に行きたいのだよ」
せっかくの誘いなので乗ろうと思ったが、ビルの前にいる女性を見て思い直した。
「清一郎さん、お疲れ様です」
「清美さん! 来てくれてたんですね」
私を見て優しい笑顔を浮かべる女性――楢崎清美さん。もう交際が始まって一年ほどになるが、私のことを優しく支えてくれる。
正直、清美さんがいるから私は俳優業を続けられているとすら思う。それほどまでに彼女の存在は大きかった。
「おや、これは失礼したね。先約が入っていたのなら私は出直すとするよ」
「あ! す、すみません。せっかくお誘いいただいたのに……」
「構わないよ。君が空いている日にまた連絡しよう。ああ、それと……」
斧寺さんは私を見ながら底知れない微笑みを浮かべる。
「案外、君は自分が思うより演技派かもしれないよ」
「はい?」
言ってる意味がわからなかったが、今回の斧寺さんは言葉選びを誤っているような気まずさを見せなかった。
【21年前 4月30日 午後6時25分】
「清一郎さん、もしかしてさっきの人と何か約束されてました?」
ビルの前で斧寺さんと別れた後、私たちは駅から少し離れた場所のバーに入ったが、席についた清美さんの第一声がそれだった。
「い、いえいえ! その場で夕食のお誘いを受けただけですよ。また今度にしようって納得してくれましたし、大丈夫ですよ」
清美さんが申し訳なさそうに問いかけてきたので、その姿を見て逆に私が申し訳なくなってしまい、反射的に否定した。
「すみません、私も事前に連絡を入れておくべきでした。清一郎さんに会いたくなって、つい来てしまったので……」
「清美さん……」
その言葉を聞いて、思わず心が躍ってしまう。清美さんは申し訳なさそうに縮こまっているのに、そのいじらしい態度こそが私の存在を肯定してくれるような、ある種背徳的な喜びが生まれてきてしまう。
注文したグラスのビールとカクテルで乾杯した後、清美さんはカクテルを一口飲んで息を吐く。
「珍しいですね。清美さんが飲むなんて」
「別にお酒が飲めないわけじゃないんですよ。ただ、兄さんを見てるとお酒にあまりいい印象を持てないので……」
「ああ、タカさんのお酒の話は有名ですからね……」
清美さんの兄で私の先輩俳優である白樺隆さんは、俳優としての実力は認められていたものの、ヘビースモーカーの上に大酒飲みという不摂生さも有名だった。その不健康そうな顔が、真意の見えない犯罪者役としてのイメージとマッチするために役者としての名は知れ渡っていたが、その酒癖の悪さから家族仲が冷え切っていることは身近な人間しか知らない。
「そういえば、『静かなお店で話したい』とのことでしたが、もしかして何か相談事があったりしますか?」
「い、いえ。私が相談したいってわけじゃないんです。清一郎さんにお聞きしたいことがあって……」
「僕にですか?」
「清一郎さん、何か悩み事があったりしませんか?」
「……!」
心配そうにこちらを覗き込む顔に申し訳なさと喜びを感じた。
やっぱり見抜かれていたんだ、私が俳優として限界を感じつつあることを。清美さんに気を遣わせてしまったという申し訳なさと、清美さんが私の悩みを見抜いて気を遣ってくれたという喜びが私の心に渦巻いていた。
「……実は、俳優を続けようか迷っていまして」
こんなことを俳優ではない清美さんに相談するのは情けないと思う。ただ、仮にも清美さんと交際して『その先』も考えている身であるなら、そろそろハッキリさせないといけない。
夢を追うか、現実を見るか。
私の決断が清美さんの将来にも影響する。だからこの話を清美さんに相談するのは俳優としては情けないが、男としては誠実なはずだ。
「なんで迷う必要があるんですか?」
「え?」
「清一郎さんが俳優として活躍する姿を、私はずっと見てきました。だからあなたとお付き合いさせてもらってますし、だからあなたの隣にいたいと思ってるんです」
「清美さん……」
「私のことで清一郎さんの夢を邪魔したくないです。だから何も遠慮しないでください」
ああ、そうだ。だから私は清美さんが好きなんだ。
この人は私を否定しない。私の夢を無謀だと笑わない。この人だけが私の夢を応援してくれる。
よかった、まだ私は俳優を続けられる。清美さんと一緒にいたまま、俳優を続けられる。
この頃の私はそれが平穏だと勘違いしていた。
自分がいつまでも不安と恐怖に苛まれながら脆い『希望』に縋りついて停滞する地獄にいることを、まだ知らなかった。
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