柏恵美の理想的な殺され方

さらす
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第三十五話 終わり

公開日時: 2024年10月29日(火) 19:46
文字数:3,620


 【21年前 5月26日 午後8時20分】


「お待たせしました、清一郎せいいちろうさん」


 この日、私は先日も二人で訪れたバーで清美きよみさんを待っていた。約束の時間を少し過ぎてからやってきた彼女は、少し息を弾ませながら席に着く。


「遅れてすみません。思ったより残業が長引いちゃって……それで、そちらの方が紹介したいという人ですか?」

「……はじめまして、斧寺おのでら霧人きりひと、と、申します。唐沢からさわさん、とは、生徒になってます」

「え? は、はい」


 清美さんは何を言っていいかわからない時にとりあえず浮かべる微笑みを浮かべていた。こうなるだろうとは思っていたので、まずは斧寺さんに口調を変えてもらおう。


「斧寺さん。話しにくいならいつもの調子で話して大丈夫ですよ」

「済まないね。どうも会話というものはまだ苦手だ。それでは改めて自己紹介を始めようか」


 斧寺さんはいつもの底知れない微笑みを浮かべる。


「私の名前は斧寺霧人。今は唐沢くんの生徒の一人だ」

「……えーと、は、はじめまして、楢崎ならさき清美と申します。去年から清一郎さんと交際させていただいてます」


 お互いに自己紹介をした後、斧寺さんはウイスキーを、清美さんはウーロン茶を頼んだ。アルコールを頼まなかったのは、まだ斧寺さんに対して警戒心があるからだろう。

 十数分ほど身の上話を交わした後、斧寺さんは話を切り出した。


「さて、先ほど話した通り、私は唐沢くんに非常に感謝していてね。彼の力になるために、今回あなたと話をしたかったのだよ」

「どういうことですか?」


「単刀直入に聞こう。君は本気で唐沢くんの夢を応援しているのかね?」


「……!」


 清美さんの表情があからさまに変わり、少し怯えたように目を泳がせていた。


「唐沢くんは君のことを信頼している。だから私も君のことを信じたい。そう言っているのだよ」

「……いきなり失礼じゃないですか? 何を根拠に私を疑っているんですか?」

「根拠を示せと言うのなら答えよう」


 斧寺さんは胸ポケットにしまっていた手帳を開く。


「楢崎清美、26歳。N短期大学卒業と同時にJ化学株式会社に事務職として入社し、現在6年目。無遅刻無欠勤だが月に数度体調不良を訴えて早退するため、社内での評価は芳しくない」

「え?」

「しかし上司である鴨居かもい修二しゅうじと頻繁に密会し、鴨居の手により勤務評価は改ざん。現在に至るまで表立った注意を受けることなく勤務している一方で、自身に苦言を呈した社員が立て続けに辞職している」

「ま、待って! なんで……!?」


 ……なんだそれ? 聞いてないぞ?


「ち、違います! 清一郎さん、違うんです! 私、密会なんてしてません!」


 清美さんは涙目でこちらに訴えかけてくるが、私はもうその顔を以前と同じように見れなかった。


「唐沢くん、聞いての通りだよ。彼女は社内での立場を得るために、不貞を働いていたようだね」

「清美さんが……上司と不倫を?」

「そんなはずないじゃないですか! 私は清一郎さんと一緒にいるって、そう言ったじゃないですか!」


 確かにそうだ。清美さんは私の夢を応援していると言ってくれていた。こんな私の傍にいてくれると言ってくれていた。

 だが同時に、本当にそうなのかを見極めるためにこの場を設けたのも確かだ。既に私は、自分の清美さんへの好意を疑っている。


「ふむ。ならば更なる証拠を提示しようか」


 斧寺さんは何枚かの写真を取り出す。そこには……


 清美さんが見知らぬ中年男性と腕を組んでホテルに入る姿が収められていた。


「きよ、み、さん……」

「……」


 清美さんは俯いて私と目を合わさない。


「見ての通りだ、唐沢くん。君が抱いていた『希望』など、このようにあっさりと崩れ去る。今回はたまたま私が手を回したが、いずれ他の誰かが君にこの『絶望』を突き付けていただろう」


 ……斧寺さんの言う通りだ。仮に私と斧寺さんが出会っていなくとも、いずれ私は俳優としての限界に直面し、清美さんへの好意を疑っていただろう。

 私が俳優の夢を追い続けられたのは、清美さんがいたからだ。清美さんが私の夢を笑わなかったからだ。


 だけどそれは、あまりにも私に都合が良すぎた。


 7年以上も俳優を続けてロクに仕事も取ってこれない私を『いつか大成する』と何の根拠もなく持ち上る一方で、自分を卑下して申し訳なさそうに接する清美さんの存在は、あまりにも都合よく私の承認欲求を満たし過ぎていた。


「……仕方ないじゃないですか。こうしないと、私は生きていけないんだから」

「清美さん?」

「私はこうしないと生きていけないんです! 誰かに気に入られて、誰かに好かれて、誰かに守ってもらわないと生きていけないんです!」


 清美さんが感情的に叫ぶ姿を初めて見たが、これこそが彼女の本性とも思えなかった。


「ずっとそうだった……兄さんが私を否定するたびに、自分がダメな人間だって……そんな考えから逃げられなかった……誰かに好かれていると実感できるときだけ、兄さんの言葉を忘れられた。でも、そんなの一瞬だけ。気を抜くとすぐに兄さんは私を責めてくる!」


 そして清美さんは私を見る。


「だからあなたが必要だった! 清一郎さんが兄さんを超える俳優になれば……私の恋人が兄さんを超えれば! 私は兄さんを否定できるんです! 兄さんが間違ってるんだって……私の生き方の方が合ってるんだって……私はそう思えればよかったんです!」


 ああそうか、最初から清美さんは私のことが好きなわけじゃなかったんだ。


 清美さんの目的は、タカさんへの復讐だったんだ。


 聞いてみれば、あまりにもくだらない話だ。清美さん本人の中では他人を巻き込んででも果たしたい目的だったんだろうが、私から見れば子供の頃のわだかまりを大人になっても引きずっているに過ぎない。そう、くだらない話だ。


「どうしてこのままにしてくれなかったんですか……? 私は兄さんを否定できればよかったし、清一郎さんは俳優の夢を追ってればよかった、私だって好きでもない上司と一緒にホテルなんて行きたくなかった! でも、そうでないと生きていけないんだから仕方ないじゃないですか!」


 だけど清美さんの身勝手な言い分を否定する権利は私にはない。

 私の方も、清美さんを俳優に縋りつく言い訳にしていただけだった。好きな人のために夢を追うというある種の『理想』に清美さんを巻き込んでいただけだった。

 結局、私たちの関係は終わっていたどころか始まってすらいなかったのだ。


「はは、ははは……」


 力のない笑いがこぼれてくる。これでもう完全に俳優としての私は終わった。幼い頃からの夢も、自分を支えてくれる人も失った。


 もう私には何もない。ついに私は、『絶望』に飲み込まれた。


「何なんですか……? あなたは何なんですか!? 清一郎さんを惑わして、私たちの仲を引き裂いて! あなたは一体何がしたいんですか!?」


 清美さんの怒りが斧寺さんに向くのが、私にはどこか遠くの光景のように見えていた。


「言っただろう、私は唐沢くんの力になりたいのだよ。そのためには、君のことも救う必要がありそうだね」

「え……?」


 斧寺さんは再び手帳を開く。


「楢崎隆彦たかひこ、29歳。『白樺しらかばたかし』の芸名で活動する俳優で、株式会社Fカンパニーに所属。家族構成は27歳の妻と2歳の娘。芸能界では実力を評価されつつあるが、事務所内では酒癖の悪さから評判が悪く、家族仲も冷え切っている」

「に、兄さんのことも調べていたんですか?」

「更には娘への虐待が疑われており、児童相談所の職員が複数回自宅を訪問しているものの、証拠はなく直近の危険は無しと判断されている」

「娘って……兄さんがクロエちゃんを虐待してるんですか!?」


 そこまで読み上げた後、斧寺さんは手帳を閉じた。


「さて、ここで君に再度質問しよう。君が求めているものは、『誰かに好かれていたい』というものなのかね?」

「え?」

「先ほどの君の言葉によれば、君の目的は『お兄さんを見返すために力のある者に好かれていたい』というものだった。だが現実には、誰も君のことなど好きではない。そうだね、唐沢くん?」

「あ……」


 斧寺さんの指摘に、清美さんが愕然としながら涙目になった。


「ああそうだ、君のことなど誰も好きではない。私からしても、唐沢くんを利用し、脆い『希望』に縛り付けようとした君のことは許しがたい。だがそれでいい。君は誰にも好かれる必要などない」

「わ、た、しは……」

「そして君の兄もそうだ。彼は実の娘に暴力を振るい、『絶望』に叩き落としていることだろう。だがそれでいい、その『絶望』こそが君を救う」


 『絶望』が、清美さんをも救う?


「一度、君の姪に会いに行ってみるといい。そうすれば君が真に求めるものが見つかるだろう」


 そう言って斧寺さんは立ち上がり、手帳のページに連絡先を書いて清美さんに渡す。


「その後に私の話を聞きたいなら、いつでも連絡してくれたまえ。それでは行こうか、唐沢くん」

「は、はい……」


 もはや私が清美さんと一緒にいるわけにもいかないだろう。そう思って斧寺さんと一緒に店を出ることにした。

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