「……これが、『あの時』陽泉さんが起こした事件について、俺が覚えている全てだ」
萱愛は過去を語り、自分が陽泉に抱いている恐怖の根源を語った。
以前聞いた話の通り、陽泉は萱愛を殴った男を激しく殴打し、死に至らしめた。そこは変わりない。
だが、萱愛を恐怖させているのは……
陽泉が人を殺したのは、息子である萱愛のためではなく、自分自身の欲望のためだという部分だ。
「萱愛。今の話は、お前が見た全てなんだな?」
「ああ、今でも覚えている。間違いない」
「なら決まりだ。お前が恐れている萱愛陽泉という男は、お前の父親ではあるが、ただの殺人鬼でもある。それだけだ」
「……そう、か」
先ほどまでの俺には迷いがあった。例え陽泉が人を殺したとしても、それが息子を守るためであるならば、陽泉は父親としての責務を果たしたのではないか。父親として、人を殺したのかもしれないのではないか。その考えが、萱愛を陽泉から引き離すことに僅かな迷いを生じさせていた。
だが今は違う。陽泉は息子のためではなく、自分自身の愛を示したいという身勝手な欲望のために人を殺した。つまりあの男が人を殺したという事実と、萱愛の親父であるという事実は全くの別物。この二つは全くの無関係だ。
「萱愛、お前は言ったな? 例え人を殺したとしても、陽泉はお前の父親なのだと」
「ああ、今でもそう思っている」
「それは正しい。だが、俺は人間には二面性があることを既に知っている。陽泉はお前にとってただ一人の父親ではあるが、同時に腐りきった殺人鬼でもある。それが現実だ」
「……」
――かつて俺には、無二の親友と言えるほどに信頼していた男がいた。そいつの言葉で俺は救われ、そいつの悲しみに同調し、そいつの喜びを共に分かち合っているつもりだった。
だがそいつには、『人を殺したい』という隠された欲望があった。そいつは俺のことを親友だと思ってくれていたが、同時に『人を殺したい』という欲望を満たすために俺を排除しようとした。
……かつての俺は、そいつにそんな邪悪な欲望があると受け入れなかった。他の誰かがそいつを惑わしたのだと決めつけようとした。だけど今ならわかる。
『人を殺したい』という欲望も、棗香車という人間が持つ一面だったのだと。
「お前にとっては受け入れがたいかもしれない。父親が息子を愛するためじゃなく、ただの欲望で人を殺したのだと、受け入れられないかもしれない。だが……」
俺は今こそ、萱愛に言い放つ。
「現実を受け入れろ。萱愛陽泉は、お前を愛してなんていない」
既に確信した。陽泉が愛と呼んでいるものは誰かを守るためのものじゃない。誰かを攻撃するための口実だ。そんなものが、愛であるはずがない。そんなものを愛と呼ぶ男が、息子を愛しているはずがない。
愛を理由に他人に暴力を振るう。それが萱愛陽泉が持つ、邪悪な一面だ。
「柳端……」
「なんだ?」
萱愛は俺の言葉を聞いた後、涙を拭って言った。
「俺は、陽泉さんが俺のために人を殺したのだと思いたかった。陽泉さんは俺のせいで歪んだのだと思いたかった。だけどそれは、違ったんだな」
「そうだ。そしてさっきも言ったが、お前が陽泉の元にいるということは、その歪みの前に俺や閂を晒すということだ」
「……それなら」
萱愛は一呼吸を置いて、そして決意する。
「俺は、陽泉さんを選ばない。あの人の歪みに立ち向かって、お前や閂先輩を守る」
その顔は、かつて閂を大切な人だと俺に伝えた時と同じく、爽やかな表情だった。
「決まったな。なら行くぞ。陽泉もそろそろ戻ってきているはずだ」
「ああ」
萱愛は覚悟を決めた。なら俺も腹を括らなければならない。いくら前科があったとしても、父親である陽泉から未成年である萱愛を引き離すのは難しいだろう。だが今は、萱愛本人が陽泉に立ち向かう決意を固めている。俺はそれにとことん付き合ってやる。
「ちょっと待ってくれ柳端。陽泉さんからメールが来ている」
「なんだと?」
萱愛は携帯電話の画面を俺に見せてくる。そこに表示されているのは、メールの文面だった。
『ちょっと用事が出来たから、小霧くんは先に帰ってて』
用事? このタイミングで?
それに萱愛を先に帰らせるほどの用事が、陽泉にあるのか?
「なあ柳端、そういえば柏先輩ってまだフードコートにいるのか?」
「……俺たちを待っているなら、そうなるな」
だがそこまで言われて考える。俺たちが会話している間に、陽泉はフードコートに戻ってきていたとする。そうなると柏は陽泉と二人きりということとなる。
その状況で、柏は陽泉に何を話すのか。
――とてつもなく嫌な予感がする。
その時、俺の携帯電話が鳴った。発信者は閂だ。
「もしもし」
『もしもし。随分と長話をなさっていたようですね』
「すまない。ところでお前はまだフードコートにいるのか? 柏はどうしている?」
『ひひ、こちらも少し状況が動いてましてねえ……』
「なに?」
『柏先輩と陽泉氏なのですが、今……おや?』
閂が何かに気づいたような声を上げた直後。
『何をしているのかな?』
通話口から、陽泉の声が聞こえた。
「……!? おい、閂!?」
そして通話口から雑音が鳴り響いたと思うと、電話が切れてしまった。これはまずい。明らかに閂の身に何かが起こっている。
「おい萱愛、緊急事態だ。閂がやばい」
「え? な、なんで閂先輩が?」
「説明は後だ! とにかくフードコートに戻るぞ!」
俺と萱愛は人混みをかき分けながら、全速力で走った。
俺たちはフードコートに着いたと同時に二手に分かれて陽泉の姿を探した。
先ほどまで俺たちがいたはずのテーブルには、既に別の客が食事をとっていた。当然、陽泉も柏もいない。
「や、柳端! こっちにはいなかった!」
「こっちもだ。くそ、どうなっている……?」
「とにかく陽泉さんに電話をかけてみる! 柳端は引き続き探してくれ!」
「わかった」
萱愛は必死に電話をかけるが、電話が通じたような素振りは見せない。俺はその間にも柏や閂の姿を探すが、日曜日のデパートは客が多く、彼らが俺の視界を塞いでしまう。
まずい、このままだと柏と閂の身が危ない。せっかく萱愛が決意をしても、柏や閂の身に何かあれば、あいつは一生自分を責め続けてしまう。それでは無意味だ。
しかしどうする? 萱愛は尚も電話をかけているが、返事がある様子はない。どうすれば……
「柳端!」
だがその時、俺の耳に聞き慣れた声が届く。
そうだ、柏の身に危険が及べば、たとえ地球の裏側まで駆けつけるであろう女がいたじゃないか。
殺されたがりの柏恵美の願望を、残酷なまでに完璧に潰した女。自分のエゴのために、一人の人間を完全な支配下に置いた女。
その女――黛瑠璃子は、今の俺にとっては羨ましいほどに超越した人間のように見えた。
「状況は?」
この期に及んで、『なぜここにいるのか?』などという質問は無意味だ。黛はそれをわかっているからこそ、端的な言葉を投げかけている。
「……柏と陽泉はおそらく二人でいる。閂に見張らせていたが、たぶんあいつも見つかった」
「わかった、じゃあアンタも来なさい。エミの居場所はわかるわ」
「なんだと? いや、そうだろうな」
この女が、柏の動向を把握していないはずがない。そうでもないと、柏恵美の支配者になどなれない。
「樫添さん、ここから先は単独行動はなし。必ず複数で行動して」
「わかりました。とりあえず萱愛を呼んできます」
黛にとっては、今回の件もこれまでの戦いと変わらないのかもしれない。それほどまでに、この女は数々の危機を乗り越えてきた。
だから思ってしまうのだ。
黛瑠璃子なら、萱愛陽泉という怪物すらも退けてくれるのではないかと。
だがそれは期待しない方がいい。あくまでこの女が守るのは柏恵美ただ一人。
陽泉は……あくまで俺と萱愛小霧で倒さなければならない相手だ。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!