【15年前 4月15日 午前11時21分】
「……あ?」
今、クロエはなんて言った? 『ちゃんと殴ってくれるでしょ?』と言ったのか?
「うん! おとうさん、わたしのこと殴って来たよ!」
「そうでしょ? おとなってねえ、泣いてる子がきらいなんだよ。だから泣いて震えてたらみんなわたしたちのこと嫌ってくるんだよ」
「そうなんだ! ありがとう、クロエおねえちゃん!」
何を言ってる? クロエは何を言ってるんだ?
思い返してみれば、確かにクロエは俺の前で怯えてばかりいた。それは俺に怒鳴られるのが怖いから、清美のように俺に媚びを売るために怯えているんだと思っていた。
しかし今の発言の意味は……
クロエは俺に嫌われるために今までわざと怯えていたとでもいうのか?
「それでねエミちゃん、今度はおとうさんに『わたしのこときらいなの?』って聞いてみて。そうしたらもっと嫌ってくるから。自分を嫌っている人に囲まれてるといつも不安になれるから嬉しい気持ちになるんだよ」
「でもクロエおねえちゃん、おとうさんはわたしのこと嫌っててもいいのかな? 疲れちゃわないかな? それに、わたしもおとうさんと一緒に楽しく遊びたいって思った方がいいのかな?」
「別にだいじょうぶだよ。それともエミちゃんは、おとうさんと一緒に遊びたいの?」
「うーん、わかんない。仲良くした方がたのしいかもしれないし、怒鳴られて殴られてた方がたのしいかもしれない」
「じゃあそれでだいじょうぶだよ。でも、もしエミちゃんがおとうさんのことを嫌いになったら、私がエミちゃんを連れて行ってあげる」
「連れてくってどこに?」」
「今は内緒! でもエミちゃんとわたしにとって嬉しいところだと思うよ」
なんだこれは? なんだこの会話は?
これが普通のガキの会話でないことはわかる。俺がガキの頃に周りでこんな会話をしているヤツなんていなかったし、たぶん今もいないだろう。それなのによりによって俺の娘は、『自分を嫌っている人に囲まれているのが嬉しい』と言っている。
「おい、清美。こいつら何言ってるんだ?」
「何を言ってる、とは?」
「クロエが何のつもりで大人に嫌われようとしてるのかって聞いてんだよ! お前の入れ知恵か!?」
「どうしたんですか兄さん? 何をそんなに焦ってるんですか?」
清美の指摘でようやく気付いた。確かになぜ俺はこんなに焦ってるんだ? クロエは俺の娘だが、特に愛情なんてなかったはずだ。どうなろうが興味ないと思っていたはずだ。事実、子育ても妻に丸投げして妻が死んだら唐沢に押し付けた。俳優業に専念できれば、『白樺隆』として権力者をビビらせる存在になれればそれでよかったはずだ。
「兄さん、恵美はいい子でしょう? 私とは違って、周りの人のことまで考えられる」
「あ?」
「自分のことしか考えてなかった私と違って、恵美はもうこの歳で恵介さんやクロエちゃんの気持ちも配慮できる。『自分だけ好きに殴られたり嫌われててもいいのか』って、『本当はお父さんも自分と仲良くしたいんじゃないか』って心配できる」
「だからそれが何を言ってるんだって聞いてんだよ! アイツらは周りに嫌われるのが嬉しいとか言ってやがる! なんであんなことになってるんだよ!?」
「恵美もクロエちゃんも自分の幸せを追求しているだけですよ、恵美の方は周りの人のことも考えてしまいますけどね」
「その幸せってのが、他人に嫌われることだってのか?」
「そうですよ。兄さんには理解できないでしょうが」
言われた通り、すぐには理解できなかった。
だから考える。なぜクロエの幸せが『他人に嫌われること』なのか。その答えはすぐに出た。
「……自分が嫌いな相手には嫌われていた方が都合がいいってことか?」
「……」
「そ、そうだ。そういうことだろ? クロエは俺のことが嫌いで、恵美は柏恵介のことが嫌いだから、自分を怖がらせる相手が嫌いだから、あえて嫌がらせしようってことだろ? 俺もそうだ。俺より権力のあるヤツが嫌いだから、そいつらをビビらすために……」
だが、俺の返答を聞いた清美は……
「本当に、兄さんってみんなと同じことしか考えないんですね」
今まで見たことのないこちらを見下したような冷酷な視線を向けた。
「兄さんの怒りはみんなと同じです。周りの人の行動を自分が解釈できるものに歪めて、勝手に怒ってる。恵美のことも私のことも、自分が想像できる範囲のものに歪めないと見えない。だから兄さんにはクロエちゃんのことも理解できないんですよ」
「理解できない? 違う! 俺はただ単にクロエと離れていたから……」
「離れていなかったら、君は娘のことを理解していた。そう言いたいのかね?」
会話に割って入ってきた斧寺は清美の横に立つ。
「お前……! 何が言いたいんだよ!?」
「君が仮に娘と共に過ごしていたとしても、彼女のことはなにひとつ理解していなかった。そう言っているのだよ」
「斧寺さんの方が兄さんよりもクロエちゃんのことを理解してますよ。あの子は兄さんのことが特段嫌いなわけでも好きなわけでもなくて、自分を嫌ってくれる大人の一人でしかないのもわかっています」
「知った風なことを言うんじゃねえ! お前が俺やクロエのことを語るなよ!」
「おやおや、何をそんなに怒っているのだね? あの時君に聞かせただろう? 私の持論を」
確かにコイツは初めて会った時に言っていた。
『『絶望』こそが人間を救うという持論だ』
だが、それはあくまで柏恵介を追い詰めるための方便だと思っていた。ただ単に柏恵介が気に食わないから陥れたいという気持ちを取り繕っているだけだと解釈していた。
「清一郎さんの紹介で斧寺さんと知り合って、私は変わったんです。『絶望』に浸っていれば誰にも好かれなくていい、何も期待しなくていい、兄さんに認められる必要もないって気づいたんです。クロエちゃんも清一郎さんからそう教わったから、自分の幸せを、『みんなに嫌われていたい』という目的に突き進んでいられるんです」
「待て、じゃあ、クロエがああなったのは……」
俺は唐沢にクロエの子育てを押し付けていた。その結果、唐沢はクロエに『絶望』に浸ることが幸せだというおかしな考えを植え付けた。
じゃあ唐沢にその考え方を植え付けたのは誰だ? そんなの、一人しかいない。
「斧寺……! 全部、お前が……!?」
「私が何かしたと言うのかね。いや、仮に何かをしたとしても、なぜそこまで動揺するのだね? 君は初めから望んで私に協力してくれたのだろう?」
「違う! 俺が手を組んだのは、柏や唐沢を陥れるためだ! お前のおかしな考えに賛同したつもりはない! ましてや、クロエを変えちまうことなんて望んでいなかった!」
「それはおかしいね。私は最初から唐沢くんや柏本部長を『絶望』で救いたいと君に話していたはずだよ。君がそれをどう解釈したのかは知らないが、私の目的は最初から変わっていない」
そう言って、斧寺は俺に近づいてくる。
「何をそんなに怖がっているのだね?」
指摘を受けて気づいた。いつのまにか自分が後ずさっていることに。
「白樺くん、私は君の出演作を見ているうちに気づいたことがあるのだよ。君が演じる役には『狂気』があるが、それは君自身から発せられるものではない。君と今まで対立していた権力者や自分より強い者たちが何をされたら恐れるかを考えた上で調整された『狂気』だ。役者としてそれが優秀かどうかを論じるつもりはないが、私からすればそれは『絶望』とは似て非なるものだったよ」
「な、何が言いたい!?」
「君は権力者を恐怖させたいと言っていたが、それは世間が君に求めていた姿でしかない。本当の君は権力者のことも大して嫌ってもいないし、それほどの『狂気』もない。その証拠に……」
斧寺は俺の前に立ち、右手を俺の肩に置く。
「この期に及んで、私を恐怖させようともしない」
肩に手を置かれてから、俺の身体は少しも動かない、動かせない。だから斧寺から逃げられない。
「権力者が嫌いなのだろう? 自分より強い者が嫌いなのだろう?」
「や、やめろ……俺から離れろ!」
「さあ、君が嫌う権力者が、君の家族や友人を変貌させてしまった元凶が、君の地位を脅かしてしまう敵が目の前にいるよ。君は私を怖がらせるために役者になったのだろう? 意地を見せてみたまえ。もし、それができないのであれば……」
「やめろ、俺は、俺はまだ……!」
斧寺は不敵に笑う。
「私が君に『絶望』を与えよう」
……いやだ。
俺は今や看板役者だ。権力者をビビらせる存在だ。かつて俺を見下していた奴らが、今じゃ俺にへりくだっている。
やっと『それ』を手に入れたんだ。絶対に手放したくない。俺は、俺はずっと……これからも……!!
「ああああああああっ!!」
気づけば俺は、斧寺の手ごと、自分の肩を握りしめていた。
「ぐ、うっ!」
肩に激痛が走り、俺の手と斧寺の手が肩から離れた直後にしゃがみこんでしまう。だが、これでいい。
「は、はは……アンタ、やっちまったな……」
「何をだね?」
「警察の幹部が一般人を傷つけちまった、こりゃ一大スキャンダルだぜ。俺がマスコミに訴えればすぐにもニュースになるだろうさ、なんせ俺はテレビ局にも顔が利くからな」
「……」
「は、はは、ビビって何も言えねえか?」
そう言いながらも俺は悟っていた。斧寺の顔は恐怖していない。
さっきの清美と同じく、俺を見下した表情だ。
「無様だね」
「え?」
「権力者を嫌い、自分より強い者を嫌い、彼らを恐怖させたかった。それが君の望みだった。それなのに今の君は『権力』で私を陥れようとしている」
「……!」
「確かに君の言う通り、警察が一般人を傷つけたとなれば一大スキャンダルとなるだろう。しかしだ、仮にその企みが成功してしまったら……」
待て、待ってくれ。それを言わないでくれ。
「君が『権力』に縋りついた事実は消えないよ」
それを言われたら、俺が今まで支えにしていたものが無くなってしまう。
ああそうだ、今わかっちまった。なんで俺がクロエのことでこんなに動揺したのか。なんで俺が斧寺の企みに協力したのか。
初めて出会ってから今日に至るまですっと、俺は斧寺霧人という、理解できない強大な存在にビビっていたからだ。
「さて、約束通り君には『絶望』を与えてあげよう。心配いらないよ、君はこれで救われる」
「あ、ああああ……」
「君の『絶望』については唐沢くんから聞いているよ。今まで無理をして役者を続けて疲れただろう?」
「い、いやだ、俺は、やっと……」
「君が嫌いな『権力』を手放して、自由になりたまえ」
……この時、俺は悟った。
もう俺はこれから先、今までのような役者ではいられない。権力者を嫌っていながら、自分より明確に強い相手にビビって権力を行使した事実が俺を縛り続ける。どんなに取り繕おうとも、その事実からは逃れられない。
そんな俺の頭の中で、かつての自分の言葉が響いた。
『俺は権力者をビビらすために役者をやっている』
『俺の演技を観て、『もしかして自分の権力はこういうヤツの手で一瞬で崩れ去るんじゃないか』と思わせるためにやっている』
『だからその敵意が消えちまうのが一番の『絶望』だな』
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