5月の中旬。定期テストが終了し、俺のクラスでも一息ついた雰囲気が漂い始めていた。
だが俺は返却されたテストを見て、少しの戸惑いを感じていた。思いの外点数が良くない。クラスの平均点よりは上回っているものの、決して飛び抜けたものではない。
入院していた期間もあったので仕方ないと自分に言い聞かせるのは簡単だったが、今の俺にそんなごまかしは通じなかった。今や何の目的もない俺には少しでも学力を上げて選べる選択肢を増やすしかないのに、こんな調子ではダメだ。
今の俺には何もない。大切な親友を助けられなかった俺には何も……
「くそっ!」
苛立ちのあまり、つい机を叩いてしまう。驚いたクラスメイトたちが俺をチラチラと見てくるが、それにも苛立ちを感じてしまう。
こいつらに何がわかるというのか。今お前らが仲良く会話している友人も、何かのきっかけで死んでしまうかもしれない。いや、もしかしたらその友人は、お前の命を狙っているのかもしれない。俺もお前らも簡単に死んでしまう。そんなこともわからずにのんきに暮らしているこいつらに、俺の苛立ちなんてわかるはずもない。
俺の苛立ちが理解できるとすれば……
そう、共に数々の戦いを乗り越えてきた男、萱愛小霧。俺の頭にはその顔が浮かんでいた。
「いや、ダメだ。あいつには相談できない」
しかし萱愛は今、俺の相談如きに気を回せる状況ではない。大切な女を生涯をかけて守ると誓ったあいつを、俺の個人的な悩みなどで邪魔するべきじゃない。
だからやはり考えてしまう。俺の隣に香車がいてくれればと。
だがそれが叶わぬ願いだということはわかっている。そんなことはわかっている。わかっていながらも、俺はそれを願ってしまう。
俺は弱い。一人では何も出来ない腰抜けだ。だから香車も俺を見放したんじゃないのか? だから俺は香車の幻影に縋ってしまったんじゃないのか?
そんな弱い俺が、これから先、まともに生きていけるのか?
そう思っていると、携帯電話が震えた。画面を見てみると、そこには綾小路からのメールが入っていた。
『柳端くん、今学校の近くに来ているから、そっち終わったらお茶でもしませんか?』
メールの文面は、綾小路からの誘いだった。正直、俺はあいつにそこまでいい思い出はない。普段なら断っていたかもしれない。
だけど今の俺は、少しナーバスになっていたこともあって、気分転換にはなるかもしれないと思い、了解の返信をしてしまう。
それが俺を、新たな騒動に引きずり込むきっかけになるとは、思いもしてなかった。
今日はテスト後ということもあり、居残って勉強する生徒も少なかった。俺も授業が終わると早々と学校から出て、学校近くのファーストフード店で綾小路と合流する。
「あ、柳端くん。来てくれたんだね……ケガはまだ治ってないの?」
綾小路は俺の左腕を見て、心配そうな表情を浮かべる。
「ああ。もう少しでギプスが取れるらしいが、あまり無理に動かすと悪化するとかで、まだ固定している」
陽泉に折られた腕はまだ完治していない。しかし痛みはだいぶ無くなってきたし、このままいけば元通り動くとは医者に言われていた。
「そうなんだ。でも柳端くん、そんなケガするような無茶したの?」
「ん? いや、ちょっと転んだだけだ」
陽泉との戦いについて正直に打ち明けると話がこじれそうだったので、適当にごまかすことにした。別に向こうもそこまで俺のケガを気にしているわけでもないのだろうと思っていた。
「そうなの? 転んだだけでそんな骨折なんてするの?」
だが綾小路は、こちらの予想に反して食い下がってきた。
「もしかしてなんだけどさ、柳端くん。それって何か言いにくい事情でケガしたってことない?」
「何が言いたい?」
「例えばなんだけど……自殺しようとして、ケガをしたとか……」
「なんだと?」
綾小路は俺の目を覗き込んでくる。その顔は以前と比べて明らかに覇気がない。気弱な人間のような顔だ。だけどその顔を見ていると、俺はなぜか吸い込まれていくような気分になった。
しかし俺はこれまでの経験から、そのまま流されるのは危険だという予感がした。綾小路から目を逸らし、会話の主導権を握られないようにする。
「わからないな。なぜお前がそこまで俺のケガの原因を気にする? 言っておくが、お前が言ったようなことはしていない。これは本当にただケガをしただけだ」
「じゃあ聞くけど、転んだっていうのはどうやって転んだの?」
「……ああ、わかったよ。転んだというのはウソだ。本当の理由はケンカに巻き込まれたんだ。それでケガをした。ケンカでケガしたなんて言いたくないからウソをついた。これで満足か?」
ある意味ではケンカに巻き込まれたようなものなのだから、今度はウソは言っていない。
「ケ、ケンカって……柳端くんがそんなことするんだ」
「言っただろ。俺はケンカに巻き込まれたんだ。俺が自分から吹っかけたわけじゃない」
「うん、ケガの理由はわかったよ。じゃあもう一つ質問するね」
綾小路は、弱々しく微笑む。
「柳端くんは、自分が生きていてはいけないって思ったことある?」
その質問は、まるで俺の心中を見抜いているかのようだった。
「……生きていてはいけない、か。そうは思ってないが、この先を生きていけるのかという不安はある」
「柳端くんも、そうなんだ」
「だがそれでも、俺は生きていなければならない。生きていないといけない理由がある。だから『生きていてはいけない』という考えは持っていない」
「生きていなければいけない理由?」
「そうだ。俺にはかつて大切な友人がいた。だが俺はそいつを助けてやれなかった。だから俺はそいつの分まで生きなければならない」
これは本心だ。俺は香車の本質に気づかず、あいつを死に追いやってしまった。そんな俺が今さら命を投げ出すなんてことはあってはならない。
そんな俺に対して、綾小路はこう言った。
「じゃあ柳端くんは、その友達に命を握られてるんだね」
その言葉は、俺を大きく動揺させるものだった。
「俺が……命を握られている?」
「え? だってそうでしょ? 柳端くんはその友達を助けられなかったから、生きることを強制させられているってことじゃん。もし友達がまだ生きていて、柳端くんに『死んでもいいよ』って言ったら、君は死んじゃうってことにならない?」
生きることを強制させられている? 香車に?
俺は考えてみる。もし香車の言葉が再び聞こえてきたとする。そして香車が『もう君は死んでいいよ』と言ったとする。そうなったら……
俺は、死を望んでしまう?
「ヒャハッ、珍しくビビってるのかい、幸四郎?」
俺の耳に高笑いを発する女の声が響いてきた。
派手な髪色に露出度の高い服装。そして頭に乗せた眼鏡。
「生花、またお前か。今度は何の用だ?」
「ヒャハハ、今のアタシは佳代嬢の仲間だからねえ。要件は佳代嬢と同じだよ」
そう言いながら、生花は綾小路の横に座る。
「さて佳代嬢。幸四郎のお友達の話をしようか。棗香車ってヤツなんだけどねえ」
「やめろ生花。お前が香車の何を知っている?」
「そうさねえ、恵美嬢から聞いた話だと、『狩る側の存在』としてふさわしいヤツだったらしいねえ」
「……違う! それだけが香車じゃない!」
そうだ、香車は確かに『人を殺したい』と思っていた。だけどそれだけのヤツじゃなかったんだ。
「沢渡さん、その『狩る側の存在』って?」
「アタシも恵美嬢から聞いただけだけどねえ。『獲物』に容赦ない絶望を与える存在らしいよ」
「生花! もうやめろ。俺の前でこれ以上その話をするな」
「ヒャハッ、どうしてだい。棗ってヤツをアタシが語るのが許せないのか、それとも……」
生花は頭に乗せた眼鏡をかけて、俺を見る。
「自分が棗に殺されたいって認めたくないのかい?」
「……!!」
まずい、これは生花のペースだ。これ以上はまずい。
だが俺は、自分の中に生まれた新たな考えを否定できなかった。
「俺が、香車に殺されたい?」
「だってそうだろう? さっきの佳代嬢との話だと、アンタは棗に命を握られている。棗抜きの人生を強制的に生かされている。もし棗がアンタに『もう死んでいい』って言ったら、アンタは命を投げ出すかもしれない。それってさ」
「やめろ、やめろ生花!」
「アンタは棗に殺されたいってことにならないかい?」
俺は……香車を失ってからずっと考えていた。
俺は香車の本質に気づかなかった。あいつの友達でありながら、あいつの欲望に気づかなかった。だからあいつに切り捨てられた。
もし、俺が香車が『獲物』として柏ではなく俺を選んでいたら、それに気づいたかもしれない。そうなっていたら……
香車は、まだ生きていたのかもしれない。
「幸四郎、もう一度言うよ。うちのリーダーは『いつでも柳端幸四郎氏をお待ちしています』だそうだ」
「……俺は」
「ま、リーダーに会ってみなよ。面白い人だからさ」
そう言って、生花は名刺を置いて綾小路と共に店を出て行った。
残された俺の横には、香車が座っているような気がした。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!