弓長波瑠樹という人物について、私はまだほとんど知らない。会うのも今日で三回目なわけだから、それも当然だ。
だから今目の前にいる人物が過去二回会った男と同一人物だと言われても半信半疑になってしまう。
「……あれが、弓長くん?」
頭の中にある記憶を引っ張り出してみても、今の弓長くんと一致する人物が出てこない。それくらい今の彼は別人になりきっていた。
「波瑠樹。準備してたところ悪いんだけどさ、お前の言ってた黛さんがいらっしゃったよ」
「え? あ! こんにちは!」
唐沢先生に声をかけられると、弓長くんはこちらを見て顔をほころばせた。さっきまでの冷徹な雰囲気が嘘のように消えて、初めて会った時のように純朴な少年の顔に戻っていく。
「黛さん! 来てくれたんですね!」
「う、うん。こんにちは。あのさ、その格好は?」
「これですか? 今日は女性の役の練習なので、見た目も合わせるために用意したんです!」
よく見ると頭に着けているウィッグもピンで固定されているわけではないし、顔に施されているメイクもところどころに粗がある。だけどさっきまでの弓長くんは、確かに冷徹な雰囲気の女性のように見えた。それだけ、『役に入っている』という状態だったんだろうか。
「ああ、それでですね。事前にお伝えした通り、今日は僕の演技をお見せしたいんです! 僕が黛さんのために、どんな役でもこなせる男だって、証明してみせます!」
はりきって大声を出す弓長くんの姿は、年相応の少年のものだ。やっぱりこれが本来の彼なんだろうか。
「弓長くん、演技の練習、頑張ってるみたいだね」
「はい! 今の僕がこんなに多くの役をこなせるのも、萱愛先輩が先生を紹介してくださったおかげです! ありがとうございます!」
「いや、君が努力を重ねてるからだよ。俺は何もしてないさ」
萱愛と弓長くんのやり取りを見てると、仲のいい先輩後輩といった関係なのは確かなようだ。なにかと他人の世話を焼きたがる萱愛からすれば、弓長くんは放っておけないのかもしれない。
「ひひ、ひひ、ひひひひ。ところで弓長氏……黛先輩に演技をお見せするということでしたが?」
「はい。じゃあ早速準備しますね」
そう言うと弓長くんは壁際にある棚から小道具をいくつか取り出した。あれは……作り物の短剣に、等身大のデッサン人形?
人形を椅子に座らせた後に向かい側の壁際に立つと、目を閉じて顔の前に両手を掲げる。
「それでは……」
そして、あの時と同じく顔の前で手を叩き……
「はじめようか」
弓長くんの顔が、またしても冷徹な女性のものになった。
私とエミと閂は椅子に座り、萱愛たちは私たちの後ろで立つ形で演技を観る形となった。
「……これから、何をされるかわかる? そう、大罪を犯したあなたに報いを与える時が来たの」
右手に短剣を握った弓長くんは、人形を見下ろして冷たく言い放つ。
何の芝居をするのかは聞いてないけど、今のセリフだけで復讐を行う女を演じているのはわかった。
「あなたに対する罪悪感は全くないわ。だって、それだけのことをしたのだから。あなたは死ぬべき人なのだから」
人形が弓長くんが演じている役の復讐相手役ということだろう。何をしたのかは知らないけど、弓長くんがこれから何をするのかは想像がつく。
「さて、まずはあなたの罪を思い知らせてあげましょうか」
そう言って弓長くんは右腕の袖を捲り、ガーゼが貼られた手首を見せる。
「これがあなたの罪。この私に消えない傷を負わせたんだから、あなたを生かしておくなんてできないわ」
そのセリフの直後。
「クズがっ!!」
弓長くんは椅子ごと人形を蹴り倒した。けたたましい音を上げて人形が床に叩きつけられ、後ろから財前が「ひっ!!」と小さく悲鳴を上げたのが聞こえた。
人形に馬乗りになる形になった弓長くんは短剣を喉元に突き付ける。目を見開いて迫るその顔は、本当に人形を憎んでいるようにさえ見えた。
「あなた如きが私に傷を負わせたなんて許せるわけがない。あなたの命ひとつじゃ足りない!!」
怒りの形相で叫びを上げると、今度は短剣の柄を下に向けて人形の喉に何度も叩きつけていく。
その光景を見て、なぜか口の中が乾き、心臓の鼓動が大きくなっていく。
あれ? この感覚って。
『できないんだったら、どいてよ』
弓長くんの姿が、アイツと……棗香車と被っていく。大切な友人である柳端を、あっさりと切り捨て、傷つけたあの男と被っていく。
「ぐっ、ぷっ!」
喉の奥から熱いものが逆流しそうになった。なん、で……なんでアイツと被っちゃうんだ。違う、弓長くんはアイツとは顔も声も全然違う。そもそも今の彼は女性の役を演じているんだ。
でも、目の前の彼の姿を見ると、あの時感じたものの正体に気づいてしまった。
『僕が二度と立てないようにこらしめてやるよ』
遊園地でメイジと再会した日。私が過去を語った後に弓長くんはこう言った。あの時の彼に感じたものが、棗香車や棗朝飛が抱えていたような『夜』と呼ばれる残酷さなのだとしたら。
いや、だけど。そんなはずはない。彼は私の『オーダー』に従って、『他人を傷つけない男』になったはずだ。だから彼に『夜』があるとは思えない。
「意外なものだね」
隣でエミが小さく呟いたのを聞き逃さなかった。
「あ……」
エミが、笑っている。それも幸せそうに笑っている。なんで、この状況で笑ってるんだろう。普通なら今のシーンは笑うような場面じゃない。
だけどエミにその普通は通用しない。彼女がこんなふうに笑うとしたら、自分が望む『狩る側の存在』を見出した時だ。つまり弓長くんがそうなのだと言うのだろうか。
私の混乱をよそに、彼の演技はどんどん進んでいく。
「……そんな命乞いをしたところで、私があなたを許すと思う? 言ったでしょ、あなたの命ひとつじゃ足りないって。あなたを殺した後、あなたの家族、恋人、友人、全員に後を追わせてあげる。だから……」
弓長くんの声が、冷たく響いた直後。
「安心して、地獄に行って」
優しく微笑みながら、人形の首に短刀が突き入れられた。
「ひっ、あっ……」
財前が身体を震わせて、目に涙を浮かべて縮こまっている。無理もない。私も動けない。
今の弓長くんには、それほどまでの怖さがあった。棗の姿が被ってしまうほどの、圧倒的な殺気があった。
しばらくの沈黙の後、後ろから声がかけられた。
「……はい、お疲れ様でした。どうだった? 黛さん」
唐沢先生の言葉で、演技が終了したのだと気づいた。
「『どうだった?』と聞かれても……す、すごかったです」
「ははは、そういう率直な言葉が一番嬉しかったりするんだよ。なあ、波瑠樹?」
「はい! これも唐沢先生のご指導のおかげです!」
こっちに近寄ってくる弓長くんの顔には、演技中のような殺気は感じられない。だけど、私にはどうしても聞きたいことが出来てしまった。
「あのさ、弓長くん。今の演技はすごかったよ」
「ありがとうございます!」
「でも、私の前でああなったりしない、よね?」
そう。これはどうしても聞かなければならないことだ。
さっき、弓長くんが人形を『惨殺』したのが演技の練習であることはわかっている。つまり再び私の前にメイジが来たとしても、アイツを撃退するための役目をこなせると私に証明したいというのもわかっている。
そうだとしても、弓長くんの心の奥底に本当に棗たちのような『夜』が潜んでいないという確証が欲しい。そうでないと、私は……
どうあっても彼を『自分の理想の男』としては見れない。
「それが、黛さんの『オーダー』ですか?」
「え?」
「あなたがそう望むのであれば、僕はまた『他人を傷つけない男』になりますよ。あなたが望むのであれば、僕はどんな人にもなります」
「いや、そういうことじゃなくて……」
「えーっと、ごめんねー黛さん。ちょっと波瑠樹を借りるよ」
唐沢先生は弓長くんの前に割って入ると、彼に顔を近づけた。
「波瑠樹ぃ。ダメだよ、好きな人にそんな感じで接しちゃ。いつも言ってるだろ? お前は自分の役を精一杯こなせって」
「あ、はい! すみません、先生!」
「黛さん、波瑠樹もちょっとまだ君にどうアタックしていいのかわからないみたいでねえ。もうちょっと自然な感じでいければいいんだけども。ま、もしよかったらまた遊びに来てよ。君だったらアポなしでもいいからさ」
「……機会があれば、お邪魔します」
よくわからないけど、弓長くんは何らかの理由で唐沢さんに怒られているようにも見えた。
「エミ、ちょっとお取込み中みたいだから、今日はもう帰るわよ」
「ふむ、そうかね? 私はもう少し見学してみたいのだがね」
エミがこう言っているということは、どの道『スタジオ唐沢』は危険だ。早く帰った方がいい。
そう思って、教室の扉に目を向けた時だった。
「……失礼しまーす。ここ、『スタジオ唐沢』って合ってますかね?」
まるで狙いすましたかのように、今の私が最も警戒している男、工藤メイジが入ってきたのは。
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