【21年前 5月4日 午後7時11分】
「今日もありがとう。これは今までのお礼だ、遠慮せずに飲みたまえ」
「は、はい。ありがとうございます」
この日、斧寺さんに改めて食事の誘いを受けた私は和食居酒屋に連れて行ってもらった。天ぷらが売りだというだけあってかなり値は張るが、ここまでごちそうになっていいのだろうか。
斧寺さんがビール瓶を差し出してくれたのでお酌してもらったが、私が瓶を受け取ろうとする前に斧寺さんはさっさと手酌してしまった。
「それでは、乾杯」
グラスがぶつかる音が、どこか遠くのものに聞こえた。斧寺さんは勢いよくビールを飲み干してしまったが、またも素早く手酌してしまったので大人しくこちらもビールに口をつけた。
注文した天ぷらを斧寺さんが口にしたのを見てからこちらも手を付ける。確かにこれは酒が進む味だが、斧寺さんが黙ったままなので飲むのに躊躇してしまう。
「……ああ、すまないね。私から誘ったのだから私が話を切り出すべきだったか」
「あ、いえ、その」
「君には本当に感謝しているのだよ。実は他人を飲みに誘ったのも初めてだ。これも君が私をまともに話せるようにしてくれたおかげだよ。だから私は君の力になりたいと思っている」
「お、お気遣いありがとうございます」
私としては演劇の講師として生徒の一人を指導していたに過ぎないが、斧寺さんにとっては大きなことだったのかもしれない。それなら感謝の気持ちは素直に受け取っておいた方がいいだろう。
緊張がほぐれたところで改めてビールを飲むと、喉を通る音がはっきり聞こえた。
「ところで少し立ち入った話になるのだが、君は今の自分が幸せだと思えるかね?」
「はい?」
あまりに抽象的な質問なので返し方がわからない。なので思いついたことをそのまま答えるしかなかった。
「幸せと言えばそうですし、不幸と言えばそうですね」
この言葉は本心だ。清美さんという大切な女性が隣にいてくれるという幸せがあるし、役者として芽が出ていないという今の状況は不幸だとも言える。しかしこれは向こうからしたら煙に巻いた答えだろう。
「ああそうだ。君の状況は幸福とも不幸とも言える。私が見てもそうだろうね」
「すみませんが、仰ってることの意味がわかりかねます」
「ならば直接的な表現で言おうか」
そして斧寺さんはその顔に底知れない微笑みを浮かべる。
「私は君を今の境遇から救いたい。そう言っているのだよ」
……私を救う? 何を言っているのだろうか。
そう思っていると斧寺さんは胸ポケットから手帳を開き、そこに書かれているであろう内容を読み上げ始めた。
「唐沢清一郎、26歳。株式会社Fカンパニーに所属する俳優で芸歴8年目だが、現在に至るまで役名の付く仕事は無く、主な収入源は複数のアルバイト」
「……!?」
「去年3月に先輩役者である白樺隆の妹、楢崎清美と交際を始める。周囲からも仲のいいカップルとして認知され、結婚も視野に入れているが、本人は俳優として売れていない現状から結婚を躊躇っている……」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
いきなり自分の個人情報を列挙されたので思わず叫んで静止してしまった。
「おや、間違っていたかな?」
「そうではなくて! な、なんでそこまで……」
「なに。個人的なツテで調べさせてもらったまでだよ」
『個人的なツテ』という言葉である程度の予測がついてしまった。思えばこの人がただ者ではないことは初めて会った時からわかっていたし、公務員であるにも関わらず平日に演劇教室に来れるような人だ。おそらくは『そういう仕事』をしているんだろう。
ただ、私をここまで調べ上げる手段を持っているのはわかったが、一方でその理由はまるでわからなかった。
「聞いての通り、私は君の境遇を把握している。そして君が置かれている不幸を憂いている。だから君を助けたいと思っているのだよ」
「た、助けると言われましても……私が俳優として売れてないのは私自身の実力の問題だと思っています。お気持ちは嬉しいですが、あなたにはどうすることもできないでしょう」
「君が置かれている不幸というのは、中途半端な『希望』に縋っていることだよ。君の先輩のようにね」
「先輩? タカさん……白樺隆さんのことですか?」
おそらくタカさんのことも調べ上げたのだろうが、あの人は『希望』に縋るなんてイメージとは程遠い。むしろ他人がどうなろうが力づくで奪い取るイメージの方が近い。
「君も白樺くんも無理をしている。自分のあるべき姿が『役者として世間に名を轟かす』という『希望』に満ちたものだと思い込もうとしている。これは私の持論なのだが、人が真に救われるには『絶望』が必要だと思っているのだよ」
「『絶望』……ですか?」
「中途半端な『希望』に縋るのは苦しい。それなら『絶望』に身を浸していた方が救われる。それが私の持論だ」
斧寺さんはグラスのビールを飲み干し、再びビールを注ぐ。
「君の望みは、本当に役者として売れることなのかね?」
突然の指摘に、なぜか身が震えた。
「それとも今の恋人と添い遂げることが望みかね? 私としてはどちらでも構わないが、どちらでもないとなれば問題だ。なぜなら今の君にはその二つの選択肢しかない。そう思わされている。違うかね?」
気がつけば体の震えが大きくなっていた。心の奥底に在りながらも目を逸らしていた可能性を指摘されたような気分だった。
夢を追うという言葉の美しさに酔っていただけで、本当はさっさと役者としての道に見切りをつけたかったんじゃなかったか?
役者をやっている理由が、いつの間にか自分ではなく清美さんのためになっていなかったか?
役者を辞めたら、清美さんが離れていくことが怖いだけなんじゃないのか?
役者としての自分と清美さんという恋人を失う『絶望』を、先延ばしにしているだけなんじゃないのか?
「わ、私は……」
「突然こんなことを言ってしまっても戸惑うだけだね。済まなかった」
返答する前に会話を打ち切られてしまったので、言葉を吞み込まざるを得なかった。
「さて、気を取り直して飲もうか。ここは酒の種類も充実している。遠慮せずに頼みたまえ」
「は、はい……」
差し出したグラスにビールが注がれていくのを見て、私の中にも何か別のものが満たされていくように思えた。
【21年前 5月20日 午後2時34分】
そして、斧寺さんの言葉を実感する日はすぐに訪れた。
「そうだな、俺にとっての『絶望』は……敵意を失うことだな」
『あなたにとっての『絶望』とは何か』という質問にタカさんはこう答えた。本人は気づいていないかもしれないが、その敵意こそがタカさんの演技の幅を狭めている。『世の中に対する怒りを抱えた犯罪者役』を演じているつもりだが、実際はタカさん本人が元々抱えている要素を表に出しているに過ぎず、それは演技とは言えない。
敵意を失うという『絶望』に突き落とされてからが俳優・白樺隆の本領を問われる時なのに、タカさんは今の自分に縋りついている。
「霧人さんの言った通りかもしれない……『絶望』は……人を救う……」
思わず声に出して呟いてしまったが、タカさんは気味悪そうに私を見た後にさっさと喫煙所を出てしまった。
「清一郎さん、どうしたんですか?」
隣にいた清美さんがこちらを見上げてくる。私は間違いなくこの人が好きで交際している。今の私はそうだと確信している。
だけど、もし。その確信が見当違いだとしたら。そして、それを見極める方法を既に私が得ているのだとしたら。
「実は、清美さんに紹介したい人がいるんですが……」
もう私は、その方法を試さずにはいられなかった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!