あの事件が起こってから、三日ほどが経った。
菊江は一週間の謹慎処分になり、カオルコは怪我の治療のために学校を休んでいた。
そして地獄に堕ちた後の私の心の中は、それはもう見るに耐えないものだった。まず私の心を追いつめたのは、学校中の生徒が私ではなく菊江を責めたことだ。
「聞いたか? A組の菊江って、女の子の顔を傷つけたらしいぜ……」
「やべえよな。俺だったら死んでも出来ねえよ」
「なんでも振られた腹いせだってよ。頭おかしいんじゃねえのか?」
私が教師に話を聞いた限りでは、菊江はわざとではなく事故でカオルコに怪我を負わせたということだったし、私が現場を見た時も菊江は自分のやったことに呆然としている様子だった。信用するに値するのは教師の話の方だろう。
しかし生徒の間では、菊江は失恋したことに怒り、その腹いせにカオルコを傷つけたということになっていた。噂というものは恐ろしいもので、その方が生徒たちの話のタネとして相応しいと判断されたようだ。
だがそのことが、私にとって予想外の事態を引き起こした。
「飛天さん、後小橋川さんと仲良かったよね? 大丈夫?」
「菊江のヤツ、許せないよな。あいつに何か言いたいことがあったら代わりに言ってやるよ」
「辛いだろうけど、あまり思い詰めないでね飛天さん」
私がカオルコと仲がよかったことを嗅ぎつけた一部の正義漢ぶった生徒たちが、私に心配するような声をかけ始めたのだ。
わかってはいた。あいつらは本気で私を心配しているのではなく、単に菊江を攻撃するための理由にしたいだけなのは。私やカオルコのためと言って、菊江に正義感という名の悪意をぶつけたいだけなのは。
しかしこのことが、私を一層追いつめる結果となった。なぜなら……
「飛天さん、君は何も悪くないのにこんな目に遭うなんて許せないよね?」
彼らは私を完全なる『被害者』として扱ったからだ。
違う、違うんだ。私は『被害者』なんかじゃない、『加害者』なんだ。私もカオルコを傷つけた一人なんだ。心配されるような人間じゃないんだ。
私はカオルコを見捨てた卑怯者だ。我が身可愛さに大切な友達を切り捨てた臆病者だ。彼らが発する私を心配する言葉が、逆にそれを常に私に思い知らせる結果となったのだ。
しかし臆病で卑怯で小心者である私は、自分が『加害者』であることを言い出す勇気が無かった。それどころか、心のどこかでこのまま自分の罪を誰にも知られなければいいとすら思っていた。そのことが更に罪悪感となって、私の心を焼き尽くした。
そしてしばらくして、菊江とカオルコが退学したことを教師から聞かされた。
そう、私は遂にカオルコに謝ることが出来なかったのだ。
どうしてこうなった。どうして私はこうなってしまった。どうして私はここまで弱い人間なんだ。
私がもっと強い心を持っていればこうはならなかったのだろうか? それともカオルコの恋を応援しなかった時点で私は詰んでいたのか?
私が弱い人間なのか? それとも誰しもこうなってしまうのか?
そんな自問自答を続ける日々を一年ほど続けたある日のことだった。
私はどうにか進級することは出来たものの、学校にも碌に行かなくなり、生きる意味も見失い始めていた。そしてフラフラと町をさまよって虚ろな目で景色を見つめていた。
だがそんな私の目に飛び込んできたのだ。
「エミ、今日は何か予定あるの?」
「いや、無いよ。今日も明日も君の好きなように私を振り回すといい。私に拒否権など無い。そうだろう?」
「ちょ、ちょっと。私はエミと楽しく過ごしたいんだから、そんなこと言わないでよ……」
「ははは」
あの日と同じように、楽しそうに町を歩いていた柏恵美と……黛瑠璃子を。
「黛センパイ!」
そして二人に後ろから声をかけてきたのは、黛と共に柏を守っているという樫添保奈美だ。
「ああ樫添さん、もう学校終わったの?」
「はい。黛センパイだけじゃ、柏ちゃんの奇行に着いていけないかと思って来ちゃいました」
「おやおや、樫添くんも手厳しいね」
「だって事実でしょ。私たちが見てないと、アンタすぐに殺されちゃうかもしれないんだから。冗談抜きに」
「ふふ、そこまでわかっているのであれば、君も大分私のことを理解したようだね」
「それは多分錯覚だと思うの」
三人は笑っている。心から楽しそうに笑っている。自分たちの存在がカオルコを追いつめたことなど全く知らずに笑っている。
どうしてだ。どうしてお前等はそこまで笑っていられる。今は笑っていられるかもしれないが、お前等だって危ない目に遭えば自分を優先するんじゃないのか? だけど私がカオルコのために聞き込みをした時は、黛も樫添も柏を守り続けていたと聞いた。どんなに危険な目に遭おうとも。
黛瑠璃子、樫添保奈美。なぜお前等はそこまで強い。
その強さが妬ましい、羨ましい、恨めしい。私はこんなに弱い人間だというのに、お前等だけが何故強い。その強さがあれば、私は地獄に堕ちることはなかったのに。
だがそれでも私は願った。黛も、樫添も、本当は弱い人間であって欲しい。彼女たちに弱さがあれば、私の弱さも正当化できる。
そう、私は黛瑠璃子のように強くなりたい。もしくは黛瑠璃子が私のように弱い人間であって欲しい。
ならば私は『黛瑠璃子』になろう。黛が強い人間であれば、それを目指そう。黛が弱い人間であれば、私の地獄に引きずり込もう。どちらでもいい。今の『飛天阿佐美』から脱却できればそれでいいのだ。
だから私は……例え『レプリカ』であったとしても、黛瑠璃子と同じになろう。
そして私は黛と樫添の強さを試す計画を立てて、その上でとある人物の協力を得るためにそいつの自宅を訪れた。
「……はい」
「久しぶりだね」
マンションの一室のドアを開けて出てきたのは、学校にいたときとは打って変わって髪が伸び、明るさの消え失せた菊江教理だった。
「……何しに来たんだよ? というかその格好はなんだ?」
私は地毛である茶髪のショートカットを隠すように黒髪ロングのウィッグを被り、普段なら絶対にしないようなヒラヒラとした服を着ていた。見た目を黛に寄せても意味はないのだが、私の気持ちを切り替えるためだ。
「似合うか?」
「……失礼だが、全く似合わない」
「そうか。まあ今はそれでいいよ」
「それで? 俺に復讐しに来たのか?」
「そうじゃない、とりあえず入っていいかい」
「……」
菊江は無言で壁際に寄り、私に中に入るように促した。それに従い、部屋の中に入る。中は高校生が一人暮らしをするには贅沢と言えるほどの間取りがあったが、所々にビニール袋に入ったゴミが散乱していて足の踏み場をなくしていた。
あの事件を受けて退学した菊江は、両親から勘当同然となり、このマンションの一室に追いやられる形で家を追い出されたらしい。要するに世間体を気にした厄介払いだ。その点では菊江の両親には親近感を抱いた。
「……今更何の用だよ。俺は女の子の顔を傷つけた最低野郎だって殴りに来たのか?」
「だからそうじゃない。なぜなら私もアンタと同じ罪人だからだ」
「どういうことだ?」
「私はカオルコを助けようとしなかった。だからアンタと同罪さ。その証拠に、私の心は今も罪悪感に焼かれている」
「……」
菊江は黙って私の話を聞いている。まるで何かを噛みしめるように。
「だけど私は思った。本当に私たちだけが罪人なのかって」
「……」
「今回の件。きっかけとなったのは柏恵美だ。あいつがいなければ、今回の件は起こらなかった」
「そんなの、只の八つ当たりだ」
「わかってる。だけど私はどうしても納得できない。本当に私だけが弱いのか。それとも、柏を守り続ける黛も弱いのか」
「マユズミ?」
「私が成り代わろうとしている人間の名前だよ。柏恵美と『そういう』関係らしい。黛瑠璃子は柏恵美を守り続けている。どんな危険な目に遭おうとも。でも私はそれを確かめたい」
私はウィッグの毛先を握りしめる。
「なあ菊江、本当に私たちだけが弱いのか? 黛は弱くないのか? もし黛が弱かったら、私たちは救われるとは思わないか? 私はそれを確かめたい」
「やめろ飛天! お前の考えているのは、只の責任転嫁だ!」
「わかってる! だけどこのままじゃ私は前に進めない。カオルコを見捨てた弱い自分から抜け出せない」
「……」
「なあ菊江、私に協力してくれないか? アンタだってこのままじゃ惨めな余生を過ごすだけだ。私たちはもう、自らの弱さに責められたくないはずだ」
「……」
菊江はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「俺はあの時……後小橋川さんを傷つけた時、柏恵美に負けたと思ったんだ。よりによって、あんな変人に魅力で負けたと思ってしまったんだ」
「菊江……」
「それを認めたくなかった。だから後小橋川さんがおかしいんだと思いこんだ。それで、感情に任せて突き飛ばしたんだ」
「……」
「俺も弱い。お前と同じだ。それに俺はお前の大切な友達を傷つけた。俺にお前の行動に口を出す権利は無いのかもな……」
「……それじゃあ?」
「今から俺たちがやろうとしていることは、完全なる八つ当たりだ。だけどそれをしなければ前に進めないというのであれば、八つ当たりでも何でもやってやる」
菊江は長くなった前髪の奥にある両目で、真っ直ぐ私を見た。
「協力するよ、飛天阿佐美。同じ罪人として付き合ってやろうじゃないか」
「……いいんだな?」
「何度も言わせるな」
そして菊江の協力を得られた私は、彼の家をアジトにすることで計画を進めた。黛の家や樫添のバイト先などを調べ、どちらかを人質とすることで、奴らの関係を引き裂くことで弱さを証明してやろうと思った。
そして現在、私は黛を人質にすることには成功した。だが現実はどうだ。黛は全く動揺せず、更によりによってカオルコが柏たちに協力している。
だが今更後には戻れない。私はもう、戻りたくはない。
「絶対にお前等の関係を引き裂いてやる……」
窓の外から柏たちを見下ろしながら、決意を新たにした。
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