柏恵美の理想的な殺され方

さらす
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第八話 敵対心

公開日時: 2022年9月23日(金) 22:33
文字数:3,436


「済まない、急用ができた。切るぞ」


 そう言って、俺は樫添との電話を強制的に打ち切った。そうしなければいけない理由があったのだ。

 なぜなら俺たちの前に、一人の男が立ちはだかっていたからだ。

 駅までの裏道の真ん中に立つ男は、短髪と青いシャツとスラックスが特徴的な爽やかな人物だった。その特徴は黛から聞いていた話と一致する。


 空木晴天の特徴と一致する。


「あーあーあー、これはこれは。適当に歩いていたら出会えるもんだねえ、どんてんくん」

「……兄さん」


 俺の横に立つ曇天さんは、空木晴天を見ながら体を震わせていた。比較的小柄である晴天より、長身である曇天さんの方が、単純な腕力では上回っているようには見える。しかしそれでも、曇天さんは自分の兄を恐れていた。さっきのアパートで聞いた、空木兄弟の過去。それはまだ、曇天さんを恐怖で縛り付けているのだろう。

 そんな曇天さんをかばうように、夕飛さんが前に出た。


「久しぶりね、空木晴天。相変わらず弟さんが可愛くて仕方ないってわけ?」

「あ、あーあーあー! 夕飛さん! これはお久しぶりです! ああ、そうか。夕飛さんもどんてんくんに協力したんですね! これは嬉しい誤算だなあ」


 夕飛さんを見て、子供のように顔をほころばせる姿には悪意は感じられなかった。どうやら晴天の夕飛さんに対する好意は本物のようだ。

 だが俺には違和感があった。そもそもなぜこの男がここにいる? 生花や朝飛さんが柏たちを狙っているのであれば、晴天も行動を共にしているのだと思っていた。だが実際には、コイツだけが別行動をしている。

 今回の件を主導しているのは晴天で間違いないだろう。だからコイツを押さえてしまえば朝飛さんを止められるかもしれない。だがそれは向こうも承知のはずだ。わざわざ一人で曇天さんや夕飛さんに会いに来る理由がない。

 相手の出方がわからない以上、迂闊には動けない。夕飛さんたちも同じ考えなのか、晴天と距離を取ったまま動かないでいた。


「あーれ? 夕飛さん、そちらの男の子は……息子さんですか?」

「アンタ、相変わらずいい趣味してるわね。私の息子たちが既に旅立ったことは知ってるんでしょ?」

「あーあーあー、そうでしたね。あなたの息子さん……柏さんを殺そうとして、失敗したんでしたよね?」

「……!」

「いやー、ボクとしてもあの子が柏さんと出会ってしまったのは想定外だったんですよ。だってあの子、朝飛さんみたいに他人を殺すことにためらいがないタイプじゃないですか。だから柏さんからしてみれば、自分の『絶望』にたどり着くのにまさに理想の子だったわけですよ。そんな子が柏さんに出会っちゃったらどうなるか火を見るより明らかですよね」

「おい、てめえ何が言いたいんだよ?」


 わかっている。コイツが何らかの理由でわざとこちらを煽るようなことを言っているのは俺も理解している。

 それでも、我慢できないことはある。目の前で知った風に香車を語るのを黙ってられるほど、俺はまだ大人じゃない。

 俺の言葉に対して、爽やかな笑顔を浮かべて晴天は口を開いた。


「何が言いたいって? えーとね、夕飛さんの息子さん……香車くんっていうんだっけ? そうそう、その香車くんがさ、柏さんを殺しちゃうんじゃないかってボクは心から心配してたんだよ。もう本当に、心から。でもさ、もうそうなることはないじゃない。いやあ、本当によかった」

「よかった、だと?」

「え? そうだよ。よかったじゃない。あの子がいたら、柏さんが死んじゃう可能性はぐんと高まってたんだ。でももう、そんな心配はしなくていいんだ。ああ、よかったなあ」


 そして晴天は、言ってはいけないことを言った。



「香車くんがいなくなってくれて、本当によかった」


 

 ――この時までは。

 この時まで、俺はまだ、空木晴天という人間にさほど敵対心を抱いてはなかった。そもそもほんの数分前まで顔も知らなかった男だ。どんな過去の非道な行いを聞かされても、憎しみなんてものは湧いてくるはずもない。

 だが今、コイツは絶対に言ってはいけないことを言った。一人の人間がいなくなったことを、喜ばしいことだと。よりによってその人間の母親の前で。そして……


 この俺の前で、そう言ったのだ。


「……ぐ、あああああああああっ!!」


 気づけば俺は、意味のない叫びを上げながら晴天に殴りかかっていた。


「柳端くん!」


 夕飛さんが止める声が聞こえたが、それは俺の耳には届いていても頭には届いていなかった。

 こいつは香車が『いなくなってくれてよかった』と言ったのだ。どんな理由があろうと、そのおかげで柏が今も生きているのだとしても、俺がその発言を許せるはずもない。

 そして俺の右手は、何の障害にぶつかることもなく、あらかじめ予定されていたかのように晴天の顔を打ち抜いていた。


「うっ! ……とと」


 顔の真ん中を思い切り殴ったはずだったが、晴天は体をグラつかせて数歩下がっただけで、特に痛がる様子もなかった。鼻から一筋の血が垂れていたが、それをポケットから取り出したハンカチで拭うと、平然と俺を見る。


「あーあーあー、怖いなあ。近頃の子は大人しいって聞いてたけど、君みたいな子もまだいるんだね」

「お前が……! お前が香車の何を知ってる! 俺たちが今まで、どんな気持ちでいたか、何がわかる!」

「えーと、柳端くんって言ったっけ? それで、ボクが香車くんの何を知ってるかだっけ? そーうだね、まあ言っちゃえば何も知らないよ。うん、知らない。だってボクからしたら、彼は柏さんを殺そうとした子でしかないわけだから、印象は悪いよね、そりゃ」

「だとしても、さっきの発言を俺や夕飛さんの前でする必要はないはずだ!」

「あーあーあー、そういうことになる?」


 晴天はわざとらしく肩をすくめ、再度俺を見た。


「じゃあ言うけどさ。柏さんに生きていてほしいって願ってるのは、別におかしなことじゃないだろう? むしろ『希望』に満ちたこの世界で生きていてほしいと願うのは普通のことだ。そして柏さんはボクが担当していた患者だ。医者であるボクが患者である柏さんの生を願う。何もおかしいことじゃない」


 そこまで言って、今度は夕飛さんを指さした。


「対して夕飛さんは、ボクの患者を殺そうとした子の母親だ。そりゃあね、思うところはありますよ。ボクだって一人の人間だからねえ。香車くんという子は他人に『絶望』を与えてしまう子だったわけだし、ボクからしてみればいなくなってくれた方がいいし、そんな子を育ててしまった夕飛さんにも責任があるって思うんですよ」


 夕飛さんはその言葉に対し、顔を歪めた。


「違いますか、夕飛さん? ボクの患者を殺そうとしたのは、紛れもなくあなたの息子さん、そうですよね?」


 しばらく沈黙していたが、夕飛さんは晴天に向かって歩き出す。そして、静かに口を開いた。


「アンタの言う通りよ」


 だがその声には、少しの怒りも含まれていなかった。


「香車が柏さんを殺そうとしたというのは事実。そしてあの子が『夜』を解き放つのを私が止められなかったのも事実。全部アンタの言う通り。言い訳のしようがないわ」


 夕飛さんは晴天の正面に立ち、手が届く位置まで近づく。


「だけど、アンタが願っているのは柏さんが生きることじゃない。柏さんがあるかどうかもわからない『希望』を抱えて、苦しみながら生きることでしょ? そんなアンタに香車がどうだったかなんて語られなくないわね」


 そして夕飛さんは言い放つ。


「外野は引っ込んでて頂戴。今の私たちは、柏さんを助けるために動いてる。邪魔する暇があったら帰って論文でも書いてなさいな」


 晴天から視線を外し、先へと歩き出す夕飛さんを見て、圧倒された。

 ……本当なら、さっきの言葉で最も怒りを爆発させたいのは夕飛さんのはずだ。だけど夕飛さんは、それを堪えて本来の目的を見失うことなく、前に進んでいる。


「あーあーあー、やっぱり夕飛さんはいいなあ。あの時もう少し頑張って交際を申し込めばよかったなあ」


 そう言いながら、晴天は着信音が鳴り響いている携帯電話を取り出した。


「はいはーい、空木ですよ。ああ、朝飛さんですか? はいはい、予定通り進んでます?」

「……! アンタ、朝飛と話してるの!?」


 思わず振り返った夕飛さんをよそに、晴天は通話を続ける。


「あーあーあー、わかりました。ちょっと待っててください」


 そして晴天は、俺たちから少し距離を取り、言い放つ。


「さて皆さん。そろそろ取引を始めましょうか」

「……取引?」


「黛瑠璃子さんの、意識を取り戻すための、取引ですよ」

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