【7月5日 午後4時20分】
マジメくんに竜樹の弟の相手を任せ、アタシは立ち向かうべき相手に集中することにした。
紅蘭はアタシが止める。これ以上好きにはさせない。
「ええー? またあなたなの? この間のこと忘れてないよねえ?」
アタシが向かってきても、紅蘭は特に焦ってはいない。アタシを簡単に押さえ込める相手だと見下している。
その傲慢さに対してもムカついていたけど、何よりそれだけの強さがありながら柳端くんに頼って利用していることには更にムカついた。
「忘れてないよ、アンタがアタシを地面に転がして勝ち誇ってた。だからリベンジってわけ」
「ふーん……でもさあ、わたしがあなたの相手する必要はないんだよね」
そう言って、紅蘭は隣にいる人物に目を向ける。
「だってお兄ちゃんがいるし」
その言葉を受けても、柳端くんはまだ黙ったままだ。確かに紅蘭ならまだしも柳端くんが殴りかかってきたら勝てるはずがない。だけど柳端くんがアタシを殴るとも思えない。『死体同盟』でアタシを殺す予行演習を行った時も、彼はその場で嘔吐し、しばらく立ち上がることもできなかった。
だからアタシが注意しなければいけない相手は別にいる。
「くそ、波瑠樹のヤツ何やってるんだよ……! 早くこっちに来いよ!」
竜樹は苛立ったように呟きながら、不安そうにアタシを見ている。アタシからしたら紅蘭は敵だけど、竜樹に味方する理由も全くない。柳端くんさえ連れ戻せれば、コイツらがどうなろうと知ったこっちゃない。
つまりアタシが今やるべきことは、竜樹に注意しつつ紅蘭にリベンジすることだ。やるべきことが決まってるならアタシは動ける……
「……綾小路、俺はお前の理想じゃないと言った。それは覚えているな?」
その決意は、あっさりと揺らいだ。
アタシに冷たい視線を向けてくる柳端くんの顔を見たら、どうしても平常心ではいられない。わかってる、柳端くんはアタシの理想じゃない。常にアタシの思い通りに動いてアタシの望んだ言葉をかけてくれる人じゃないとはわかってる。
そうだとしても、柳端くんから突き放すような言葉をかけられれば、どうしてもアタシは動揺してしまう。他の誰かだったらまだ受け流せたかもしれない。でも柳端くんから突き放されるのは怖い。
だとしても……だとしても!
「覚えてるよ、そうだとしてもアタシはここに来た」
柳端くんを助けるために。
「ならお前は紅蘭の敵だな。お前も竜樹さんも、ここで排除しなきゃならない。今の俺は紅蘭の兄だからな」
「うん、わかってるよ。柳端くんがそう言っても、アタシは紅蘭を許すつもりなんてないから」
そう、やるべきことは決まってる。アタシの敵はあくまで紅蘭。柳端くんの後ろでアタシを見下したように笑う、クソ女だけだ。
「ぐうっ!?」
その時、アタシと柳端くんの間に一人の男が転がってきた。それと同時に、アタシの耳に聞きなれた下品な笑い声が聞こえてきた。
「ヒャハハ、幸四郎の友達にしちゃ、随分と腑抜けたヤツじゃないかい」
「沢渡さん!?」
なんでここに? いや、そんなのは愚問だ。柳端くんが動き出した以上、沢渡さんがここに来るのはわかっていた。マジメくんを蹴り飛ばした理由も、柳端くんを困らせて自分に目を向けてほしいからだろう。
瞬時に思考を切り替えろ。アタシの前には紅蘭がいる、アイツは沢渡さんに気を取られている。
だったら、このスキを逃すわけにはいかない。
体ごと一気にぶつかるつもりで、 まっすぐ走って紅蘭との距離を一気に詰めた。
「っ!? アンタ……!」
いける。沢渡さんに気を取られていたから、紅蘭はアタシへの対処が遅れている。このまま一気にぶつかってコイツを地面に転がしてやれば、あとは何発でもぶん殴れる。いくら紅蘭がケンカに慣れてようと、あの小さい体に上から乗ってしまえばこっちのものだ。
「あうっ!!」
だけどアタシの作戦は後ろから襲ってきた衝撃によって、あっさりと崩れた。
何が起こったかを理解する前に、アタシの視界はいつの間にか地面と平行になっていた。
「がはっ! げほっ!」
背中の痛みと呼吸の苦しさを感じ、ようやく後ろから襲われたのだと理解する。辛うじて体を起こすと、そこにはヘラヘラとアタシを見下ろす沢渡さんが立っていた。
「悪いねえ、佳代嬢。紅嬢はアタシの獲物さ」
「アンタ……!!」
アタシの怒りをよそに沢渡さんは紅蘭の前に立ち、柳端くんに振り返る。
「さあて、幸四郎。アンタは紅嬢の兄貴になったんだろ? だったら、紅嬢に手を出されちゃ困るんじゃないかい?」
「……」
柳端くんは沢渡さんにも冷たい視線を向けているけど、さっきとは違い何も言わない。
「ヒャハハ、かわいい妹を蹴られたくないんだろ? だったらかかってきなよ、久しぶりにアタシの首を絞めてみたくないかい?」
あからさまな挑発だけど、確かにこれは柳端くんには有効だ。柳端くんが紅蘭を守るために動いているなら無視できないはず……
「さて、竜樹さん。話の続きをしましょうか」
そんなアタシの予想に反し、柳端くんは沢渡さんに背を向けて竜樹に近づいていた。
「……あ?」
一方の沢渡さんも目や口を開いたまま固まっている。いつものヘラヘラした笑顔も消えて、何が起こっているのかわからないといった顔になっている。
「先ほども言った通り、紅蘭の目的はあなたの弟を『スタジオ唐沢』に連れ戻すこと、それにあなたが紅蘭の前に二度と現れないようにすることの二つです。それを守ってくれるなら、俺はあなたに手出ししませんよ」
「……僕を脅すってのか? そんなことしたら、君だってただじゃ済まないだろ」
「構いませんよ、あなたが紅蘭の前に現れなければそれでいいので」
「こうしろーう? なんでそっちを見てるんだい?」
沢渡さんが震えた声で呼びかけても、柳端くんは振り返らない。
「ハ、ハッタリだろ? 君がそんな後先考えない行動を取れるはずがない。君が僕を殴ったらどうなるか想像できないわけがないだろ?」
「想像できますよ。その上であなたに『二度と紅蘭の前に現れるな。従わなければタダじゃおかない』と言ってます」
「ま、待てよ。おい。は、波瑠樹! さっさと立ち上がってこっちに来い!」
「無駄ですよ。あなたが散々殴ってきた弟が守ってくれるわけないでしょう」
柳端くんと竜樹の会話は進んでいっているけど、その中に沢渡さんの名前は一切出てこない。まるでこの場にいないかのように。
「……幸四郎、こうしろう? アタシが見えてないのかい? そんなわけないだろ? なあ! アタシにキレてるんだろ! ずっとアンタに付きまとってるアタシをぶっ飛ばしたいんだろ! かかってきなよ……かかって来いよ……」
沢渡さんの声はどんどん小さくなっていく。そういえば、初めて出会った時からあの女はいつもヘラヘラとして何をするにも遊んでいるかのような態度だった。『死体同盟』の時も、『スタジオ唐沢』に乗り込む時も、どこか遊び半分のような浮ついた態度で臨んでいた。
だけど、今は違う。
「こっちを……見ておくれよ……幸四郎……!」
あれこそが、沢渡生花の奥底にある望みだ。
「残念だったね、お兄ちゃんはもうわたしのものだよ」
そしてその望みを潰したのが、紅蘭だ。
いつの間にか沢渡さんの背後に回り込んだ紅蘭は、素早くその腕をひねり上げていた。
「あ、ぐ……!」
「あれ? 結構動ける人だと思ったんだけど、こんなあっさり捕まえられるんだね」
「……幸四郎……どういうことだい? アタシのことはシカトして、紅嬢のためには動くってのかい!」
「そういうことだよ。幸四郎お兄ちゃんはわたしのために動いてくれる。だってわたしは幸四郎お兄ちゃんの『妹』だから」
そして紅蘭はその顔に勝ち誇った笑みを浮かべる。ああそうだ、アタシはその顔を良く知っている。
「わたしはお兄ちゃんが助けたくなる『妹』だもん。みんな好きでしょ? かわいそうで弱くて、守ってあげたくなる『妹』が」
自分の弱さを誰かを利用するための『力』として利用する、恥知らずな女の顔だ。
「柳端!」
その時、ようやく立ち上がったマジメくんが柳端くんに掴みかかっていた。
「やめろ……! そんなことをしたら、お前はもう戻れなくなるぞ……!」
「しつこいぞ。お前は俺じゃなくて閂のことを考えてろ」
「だけど! 道を踏み外しそうになってるお前を放っておけるはずないだろ!」
「……萱愛、もしかしてお前、俺をナメてるのか?」
「は?」
マジメくんもアタシも、一瞬その言葉の意味がわからなかったけど、すぐに理解した。いや、理解させられた。なぜなら。
「ひひひひ、随分と好き放題してくれたようですねえ……」
「……だれ? アンタ」
小さい笑い声と共に、紅蘭の後ろにゆらりと立つ小さな女。あの姿を忘れるわけがない。
かつてアタシを破滅させて……今のアタシになるきっかけを作ってくれた女。
「香奈芽さん!?」
マジメくんが驚いているのをよそに、柳端くんは呆れたように呟いていた。
「ようやく来たのか。まったく、お前の彼氏は随分と察しが悪いから苦労したぞ」
「ひひひ、申し訳ありませんねえ……」
「ど、どういうことだよ、柳端!?」
マジメくんの問いに、柳端くんは尚も呆れた顔で言った。
「だからお前は閂のことを、閂がどう動くかを考えて俺の意図を察せと言ったんだ」
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