【7月30日 午前10時32分】
「……沢渡!!」
黛さんがその名前を呼んで相手を睨みつけているけど、私からしたらそこまで警戒すべき相手とは思えない。
「ま、まゆ嬢……アンタのことは気に入っちゃいるけど、幸四郎を連れ去ろうってんなら……アンタはアタシの敵だねえ!」
「はあ? 何言って……」
「待ちなよ黛さん、こういう子相手にまともに会話しても無駄だよ」
だから、私の方が適任だ。
「朝飛さん!」
「事前に言ってた通り、この子の相手は私がするよ。知らない仲でもないし、手加減くらいはしてあげられるから」
「……わかりました。樫添さん、私は白樺を連れてエレベーターで三階に上がるからそっちは階段で上がって」
「はい!」
黛さんたちは事前の作戦通り二手に分かれて三階を目指すみたいだ。逃げ場のないエレベーターは黛さんが担当して、いざとなれば逃げられる階段を樫添さんが担当する。さすがに場慣れしてるねこの子は。
「なによそ見してんだい!」
「おっと」
鋭い蹴りが飛んでくるのを間一髪で避ける。
「相変わらず足癖が悪いね、沢渡さん」
「朝飛嬢……そういやアンタ、幸四郎を刺したよねえ……?」
「ん? ああ、晴天さんと組んでた時のことね。確かに刺したよ。フォークでブスっと」
「だったらアンタも許せないねえ!」
沢渡さんにしては珍しい怒りの表情で向かってくるけど、私からしたら動きがわかりやすい。
一気に距離を詰めようとして来た彼女に対し、逆にこちらから距離を詰めてお腹に一撃お見舞いしてやる。
「ぐっ!」
痛みで顔を歪めてるけど、すぐに後ろに跳んで距離を取られた。大したダメージにはなってないだろうけど、それで構わない。最初から私の力でこの子を打ちのめせるなんて思っていない。
「許せない、か。でも柳端くんのことであなたにそう言われる筋合いはないよね?」
「ああ!?」
「だって沢渡さんって柳端くんの何なの? 家族でも恋人でもないし、なんならあの時は私と組んでたんだし、むしろ柳端くんを傷つけた側じゃん」
「うるさい! アタシから幸四郎を奪おうとするヤツは全員敵なんだ……! アタシはもう絶対に幸四郎を失いたくない……! 恵美嬢だろうが佳代嬢だろうが、棗香車のボウヤだろうが、他の誰にも幸四郎は渡さない……アタシは、やっと、『絶頂期』を手に入れたんだ!」
「ふーん……」
この子、わかってないんだろうか。
「その割には、今の沢渡さんは全然楽しくなさそうだけど」
今の自分が、『失ってしまうこと』にしか目を向けていないことに。
「あなたに何があったか知らないけど、出会った時より随分と余裕がなくなったよね。沢渡さんが求めてた『絶頂期』って言うのが今の状態を指すなら、そんなもん捨てちゃった方がよくない?」
「ふざけんな……アタシの『絶頂期』は幸四郎が隣にいる状態なんだ! 幸四郎を奪われたらアタシはもう生きていけない……! 幸四郎なしで生きていくとか考えられない……!」
「へえ? 柳端くんが『絶頂期』の象徴で、それを失ったら生きていけないんだ?」
予想通りではあったけど、今の沢渡さんは柳端くんを失うことを極度に恐れている。そして柳端くんを連れ去ろうとする人間に強い敵意を向けている。
黛さんからしたら、守るべき対象である柏さんにも敵意を向ける危険な相手になるんだろうけど、私からしたらむしろ対処しやすい相手だ。
「だったら私が柳端くん奪っちゃったら、指一本動かさずに沢渡さんを殺せるってわけだ」
誰かひとりに執着している子ほど、私にとっては都合がいい。
「……アンタぁ、そりゃアタシにケンカ売ってんのかい?」
「ここに来た時点でケンカは売ってるでしょ。それにさ、沢渡さんは私がどんな人間なのか知ってるはずだよね?」
その執着している相手をつつけば、簡単に動揺してくれるからだ。
「香車くんと、同類だって」
自分がどんな顔をしているのかは正確にはわからないけど、私を見ていた沢渡さんは頭を抱えて体を震わせた。
「やめろ、やめろ、アタシから幸四郎を奪うな! 幸四郎はアタシのもんだ! アイツがいなかったらアタシは……!」
「そんなの関係ないって、沢渡さんならわかるよね?」
「いやだ、いやだ! 行かせない、行かせない! 行かせるくらいならアンタをここで……!」
絶叫しながらこっちに向かってくるけど、本当にどこまでも予想通りだ。
だから簡単に足をひっかけて転ばすことができた。
「あっ!?」
ものの見事に床に倒れ、起き上がろうと仰向けになった瞬間を逃さず、沢渡さんの腰の上に馬乗りになる。
「がはっ!」
「沢渡さんさあ、確か言ってたよね? 『絶頂期』を手に入れたらその後の人生に未練はないからすぐに死んじゃいたいって」
「あ、が……」
「それで、柳端くんが隣にいる今の状況があなたにとっての『絶頂期』なんだ? だったらもういいよね?」
「え……?」
「私が殺しちゃって」
その言葉を聞いて、沢渡さんは怯えたように声を震わせて叫んだ。
「ま、待って! まだアタシは幸四郎と一緒にいたい! もっとアイツにアタシを見てもらいたいんだよ!」
「えー? 『絶頂期』は迎えられたんでしょ? だったらもういいじゃん。それにさぁ、沢渡さん。あなたが『絶頂期』を求めているように、私も求めてるんだよね」
そう、今に至るまで私はずっとその願いを捨ててはいない。
「『夜』を解放する瞬間を」
私は今も、『夜』を抱え続けている。
「ひっ……ぶぐっ!」
目を見開いて小さな悲鳴を上げた獲物の首に向かって思い切り腕を振り下ろすと、潰れたような声を上げて意識を失った。
「ぐ、は……」
「ふん、まあこんなもんでしょ」
床に倒れて気を失っている沢渡さんを見下ろしながら、ふっと息をついた。とりあえずはこの子をリタイアさせれば黛さんたちも有利に動けるはずだ。
改めて沢渡さんの状態を確認する。首に叩きこむ寸前で腕を止めたからショックで気絶しているだけだと思うけど、万が一にでも殺しちゃったなんてことは避けないとならない。お姉ちゃんと約束したんだから。
うん、脈もあるし呼吸もしてる。しばらくすれば目を覚ますだろう。
「黛さんたちは……三階にたどり着けたかな?」
沢渡さんがここにいるってことは、唐沢さんたちもまだこのビルに残ってて、逃げるための時間稼ぎのために彼女を仕向けてきたのかもしれない。なら急いで合流しないと。
その時、携帯電話に着信が入った。発信者は樫添さんだ。
「もしもし?」
『今から一階に戻ります! 柏ちゃんはそっちにいるみたいです!』
「一階に? うん、わかった」
通話を切って改めて辺りを見回すと、エントランスの奥に扉があるのが見えた。柏さんはここにいるってことだろうか。
扉に鍵がかかってないのを確認して少しだけ開けて中を覗いてみると、苦しそうに呻く声が聞こえてきた。
「ぐ、うう……」
「柳端くん!?」
部屋の中にいたのは顔にアザを作った状態で倒れている柳端くんだった。
「あ、あさひ、さん……」
「しっかりして! 喋れるね?」
柳端くんの状態を確認すると、見える範囲では出血している箇所はなさそうだし、意識もある。命に別状はなさそうだ。
改めて部屋を見回すと、周りには本や資料のようなものが数多く積まれていた。その中の一つに書かれたタイトルに目が入る。
「なにこれ……『G県警察本部 人事異動報告』?」
それ以外の資料もG県警察に関わるもの、それも二十年以上前のものばかりだった。なんでこんなものがここに?
「朝飛さん……ダメだ……! アイツが、来る……!」
「え?」
「なるほど、君が棗朝飛くんかね? あの棗香車くんの血縁者と対面出来るとは光栄なことだよ」
私の耳に妙に芝居がかった男の声が届いた直後、身体に激痛が走った。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!