もはや見慣れてしまったこの館――『死体同盟』のアジトとして使っている、槌屋家所有の建物だが、ここに柏を連れて入るのは妙な気分だった。
「ほほう。なかなかいい建物だね。私を逃がさないための仕掛けなどがあればもっといいのだが」
「そんなものはない。黙って入れ」
相変わらずの調子の柏とは対称的に、あれから湯川は俯いたまま、一言も話さなかった。かと思えば、柏のことをチラチラと見て、まるで怯える子供のような様子を見せていた。
無理もない。柏の異常性は、これまで何人もの人間に影響を与えてきた。それはこの俺も例外ではないし、黛もそうだし、そして香車もそうだと言える。
知れば誰もが、柏恵美という人間を無視できない。柏を殺したいと思うか、柏を救いたいと思うか、柏と関わりたくないと思うか、感じ方は様々だろうが、心のどこかに柏恵美という人間を置いてしまうのだ。
俺はそんな人間は異常だと思う。多くの人間は、いずれ人々の記憶から忘れ去られてしまう。だが柏は違う。柏と離れても、その存在を記憶から消すのは難しいのかもしれない。
そこまで考えて、俺は思考を目の前の建物に戻す。空木は柏を引き込んで何を企んでいる? あいつも柏の影響を受けた一人なのだろうか?
館の扉を開けると、俺がかつてこの建物に初めて入った時のように空木が頭を下げて出迎えた。
「……ようこそ、柏恵美様。この日を待ち焦がれていました」
顔を上げて柏を見る空木は、珍しく笑顔を浮かべていた。いや、笑顔というか……これは、『陶酔』しているような顔だ。
「さあ、こちらへどうぞ。お飲み物を用意致しますので、おくつろぎ下さい」
「ふむ。君が私をここに招いた張本人、ということか。私としては己に迫る危機を歓迎したいところだが……」
柏は空木を見て少し考え込む素振りを見せる。
「私について調べているのであれば、当然ルリの存在も知っているはずだ。彼女はすぐにこの場所を突き止め、私の命を救いに来る。そうなれば、君の目的は達せられない。どうするつもりなのかね?」
「黛瑠璃子さん、ですね。ご心配なさらずとも、私は彼女と敵対するつもりはございません。私はあなたのことを確かめるために、ここにお招きしたのです」
「ふむ……?」
空木の言葉にそこまで興味はなかったのか、柏は言われるがままにソファーに座る。そして周りを見回した後、空木に向き直った。
「ところで、君の名前をまだ聞いていなかったね」
「……私の、名前ですか」
名前を聞かれた空木はなぜか柏から顔を背けるが、意を決したかのように口を開いた。
「私は、空木曇天と申します」
「空木?」
空木の名を聞いた柏は、なぜか俺に振り返ってくる。
「柳端くん、これはどういうことかね?」
「あ?」
「まさか君は、空木医師に会ったのかね?」
俺に質問を投げかけてくる柏は、なぜか不機嫌そうに顔をしかめている。いや、不機嫌なんてものじゃない。これは、怒っているような表情だ。
というか待て。空木が医者?
「空木さん、アンタ医者だったのか?」
「……違いますよ。先日も申し上げましたが、私はただのフリーターです」
なんだ? いまいち会話がかみ合ってない。柏は何を言っている?
しかし今の一連の会話を聞いた柏は、空木に向き直って頭を下げた。
「失礼した。私はてっきり君たちが空木医師の差し金で私をここに招いたと思ってしまったのだよ」
「おい柏、さっきから何を言ってるんだ?」
「なに。空木晴天というつまらない医者がいてね。この件にその男が関わっていると誤解したというだけだよ」
「ご安心下さい柏様。兄は関係ありません。今回あなたをお招きしたのは、私の意思です」
「なるほど、君が空木医師の弟君か。話には聞いていたが、歳は離れているようだね」
「そうですね、十二歳は離れています。兄とはここ数年顔も合わせておりませんので、この件に兄は全く関与していないと保証します」
今の話を聞く限り、柏は医者である空木の兄と何らかの形で関わっていて、どうやらそいつをあまり好ましく思っていないようだ。
こいつの性格からして、来る者は拒まずというスタンスなのかと思っていたが、どうやら人間の好き嫌いはあるらしい。
「ねえ、柳端くん」
柏と空木の会話を聞いていた俺に綾小路が声をかける。
「湯川さんが気分悪いみたいだから、ちょっと寝室で休ませようと思うんだけど」
「そうだったな。湯川、歩けるか?」
「……はい」
そういえば、湯川が柏の狂気にあてられていたのを忘れていた。柏たちの会話は気になるが、湯川を放っておくのも良くないだろう。
綾小路と協力して湯川を寝室に運び、ベッドに寝かせる。しばらくは苦しそうに息を荒げていたが、十数分後に静かな寝息になった。
「ふう、寝たみたいだね。柳端くんもお疲れ様」
「ああ、俺も少し疲れた。シャワーを借りてもいいか?」
「うん。槌屋さんは自由に使って良いって言ってたよ」
「なら少し借りる。お前も疲れてるなら無理せずに休め」
「え?」
何も考えずに言った言葉だったが、なぜか綾小路は驚いたように目を丸くしている。
「……どうした?」
「あ……その、柳端くんにそういう感じのこと言われるの、なんだかすごく嬉しいな、って……」
顔を赤くして微笑む綾小路を見て、俺も少し不思議な気持ちになる。なんだ? どうして俺はこんなに動揺しているんだ?
「別に大したことは言ってないだろ」
「そ、そうだよね。ごめんね。アタシも少し休むよ」
「そうしておけ」
内心の動揺を悟られたくないばかりに、少し乱暴な言葉遣いになってしまった。それに対して謝るのもなにかおかしな気分なので、とりあえずはシャワーを浴びて心を落ち着かせることにした。
少しぬるめの湯を浴びて、頭を洗いながら考えを巡らす。
俺はこれからどうする? 『死体同盟』に柏を引き合わせた以上、このままでは黛とも敵対することになるだろう。しかし俺はもう、自分の居場所が『死体同盟』にあるという考えを否定できない。そして『死体同盟』が柏を迎え入れようとしているのであれば、黛がそれを許すはずがない。つまりどうあっても、戦いは避けられないのだ。
しかし、まだ空木の思惑がわからない。アイツが柏を迎え入れて何をしようとしているのか。もしアイツが柏を殺そうとしているのであれば、俺も罪に問われてしまうかもしれない。
空木が指摘した通り、俺は人を殺すということに徹底的に向いていない。だから俺が柏を殺すなんてことになれば、今度こそ俺は自分を許せないし許すつもりもない。そうなってしまえば、全て終わりだ。
そこまで考えた時、俺の頭に浮かんだのは綾小路の顔だった。
アイツは空木の企みを知っているのか? もし知らないのであれば、アイツは自分の知らないところで犯罪に荷担するハメになるかもしれない。それはなんとしても避けなければならない。
「……なんとしても避けなければならない?」
思わず口に出してしまった。なぜだ? 俺はなぜそう思った?
以前の俺は綾小路を鬱陶しく思っていた。自分にとって最も苦手なタイプの女だと思っていたはずだ。だが、『死体同盟』で綾小路と出会ってから、アイツのことを強く意識するようになっている。
今のアイツが俺と同じく、死体となって誰かに許されたいと考えているからか? ……おそらくはそうだろう。俺はアイツの境遇に共感している。だから今、こうして『死体同盟』に入っているのだ。
そうだ、俺も綾小路も既に『死体同盟』として、『理想的な死に方』を求めて動いている。もう、逃れることなんて出来ないのかもしれない。
浴室から出た俺は服を着て財布や腕時計をポケットに入れるが、携帯電話がないことに気づいた。
不思議に思いながら大広間に戻ると、階段に腰掛けた生花が、俺の携帯電話を持って誰かと通話していた。
「おい、生花! 何をしている!」
強引に生花から携帯電話を奪い返すが、生花はまるで悪びれた様子もなく、ヘラヘラと笑う。
「ヒャハハ、アンタがいない間にちょっと面白いことが起こったから、電話に出てみたのさ」
「勝手に俺の電話に出るな! もしもし?」
携帯電話を耳に当てて、相手の応答を待つ。すると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
『もしもし、柳端なの?』
この声は樫添か? まさかもう、柏を連れ去ったのがバレたのか?
「樫添か。さっき出た女のことは忘れろ。用件は何だ?」
『残念だけど、私たちはさっきの沢渡って女についても聞かせてほしいの。それから、アンタの現状もね』
「……別に何もない。俺はいつも通りだ」
『もしもし、黛よ。アンタ、何かおかしなヤツらと関わってるようね』
黛……! やはりコイツも既に動いていたか。
「だとしたら何だ? お前らに関係があるのか?」
『そうね、確かに私たちやエミに関係がないなら黙っているところだけど、もしアンタの異変がエミに関係することなら、黙っているわけにはいかない。それはわかるでしょ?』
どうやらコイツらはもうわかっているらしい。なぜかは知らないが、俺が『死体同盟』に関わり、柏に接触したことまで既にバレている。
「……そうか。もうそこまで掴んでいるのか。ならもう隠しても仕方ないな」
そうなればもう、俺は引き返せないのだ。言ってやるか。
「『死体同盟』は柏をメンバーに迎え入れるつもりでいる」
『なんですって?』
「既に柏は『死体同盟』の手の内だ。返してほしいなら、それこそ死ぬ気で動け。それじゃあな」
『え!? ちょっと、柳端!?』
そう言って電話を切る。そして携帯電話の電源も切り、通話を不可能にした。
「ヒャハハ、アンタも腹を括ったのかい、幸四郎?」
「生花。なぜ樫添からの電話に出た?」
「聞くまでもないじゃないか。その方が面白そうだろ?」
生花のことだ。先のことなんて考えていないのだろう。
どちらにしろ、これで俺と黛の敵対は決定的なものとなった。既に俺は引き返せないところに来ている。
そう思いながら、俺は自分の破滅がそう遠くない未来にあるのだと感じた。
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