そいつは俺の前に突然現れた。
俺の十数年の人生の中で、あのような存在は見たことがなかった。だからだろう、俺がそいつに興味を持ったのは必然だったのだ。
そいつの顔は美人の部類に入るだろう。だがそれ以上に俺は、そいつが醸し出す空気というか雰囲気が気になった。
なんというか、誰かを誘っているような――待っているような雰囲気だ。
そいつの存在が俺の空虚な生活に、何かをもたらすのではないかと思えてならなかった。それだけ、そいつの影響力というか……存在感は異質だったのだ。恋愛感情とは違う、とにかくそいつに関わっていたいという想い。そう、何か特別なものに関わっていたいという感情に似ている。
「はじめまして、かな? 私の連れは君を知っているようだが」
そいつの声は女にしては低めだが、よく通る声だった。
「さて、初対面なのだから自己紹介をしようか」
そして俺は――最初からそいつに協力するつもりだったのかもしれない。
「私の名前は柏恵美。今から君と関わる者だ」
こうして、俺――長船道秀は、奇妙な形で、そいつ――柏恵美に関わる事となる。
数日前。
十月も末に入り、世間は肌寒くなることへの備えを始めていたようだが、俺には関係なかった。
いわゆる、「引きこもり」である俺には。
高校三年生になり、受験という重圧に押しつぶされた俺は、二学期に入る頃から自宅にある自分の部屋に引きこもり始めた。
両親は何も言ってこない。というのも、俺の家はいわゆる資産家というやつで、仮に俺のような引きこもりが五人いたとしても、一生養っていける財力があるのだ。だからこそ、危機感は無かった。そのはずだった。
だが人間というのは、ただ単に食っていけるというだけでは、不安が解消されるわけではないらしい。
最近では、このまま何もせず人生が終わるのかという、自問自答ばかりしている。かと言って、受験勉強を再開するという気にはならない。
物理的に出来るのと、精神的に出来るというのは、違うと思う。
気ばかり焦っていたが、どうすることも出来なかった。そして俺には趣味と呼べるものがない。何もない、空虚だ。気がつくと、死ぬことばかり考えている。
そんなある日、両親から親戚が家に泊まりにくるという話を聞いた。なんでも少し訳ありのようで、自分の彼女に遠くの場所の仕事を紹介して欲しいそうだ。
俺の両親は古い考えを持っており、親戚のつながりを重んじるタイプだったため、その申し出を了承した。しかし、俺は引きこもりの立場で親戚に会いたくなかったため、しばらく家を離れるつもりでいた。
そしてその当日。
俺は両親からある程度の金とクレジットカードの一つを受け取り、親戚が来る前に家を出た。
近くのビジネスホテルにチェックインして部屋に荷物を置いた後、別に目的も無く、隣にある喫茶店に入る。しばらく携帯電話を見ていると、レジから怒号が聞こえた。
「喫煙席が満席ってどういうことだ!」
「ですから、喫煙席が満席ですので、禁煙席のご利用しかできません……」
「ああ!? ここは喫茶店だろうが! タバコが吸えなかったら意味無いだろ!」
「それでしたら、少しお待ち頂く事に……」
「ふざけんな! 俺は常連だぞ! 常連客を待たせるなんて、どういう商売してるんだ!」
「うう……」
客らしき中年の男と、店員が揉めていた。どうやら中年の男は、いわゆるクレーマーというやつらしい。
一応スーツ姿だが、背広はヨレヨレで、下のシャツも少し黄ばんでいるように見える。さらにそのシャツもきちんとスラックスにしまわれておらず、顔には無精ひげが生えている。いかにも小汚いという印象を受ける男だった。
どうせ、会社でもうだつが上がらず、その鬱憤をここで晴らしているのだろう。関わり合いになるべきじゃない。そう思って、視線を合わさないようにした。
「店内で大声を出さないでくれるかな? 他の客の迷惑になるし、何より私たちがここを利用できないのだよ」
その声に俺は興味を持った。なんというか、違和感を感じたからだ。やけに芝居がかった口調に対し、その声は明らかに女性のものだった。しかも、そこまで歳をとっているわけではない、若い女性のものだ。
口調と声がマッチしていない。そう思って顔を上げてみると――
そこにいたのは、俺とそう変わらない年代の女だった。
なんだ? こんな女が、中年のクレーマーに食って掛かるものなのか?
珍しいものを見たかのような感覚を覚え、しばらく成り行きを見守ることにした。
「ああ? なんだお前!? ガキは引っ込んでろ!」
「そうはいかない。君が大人しく禁煙席を利用するか、帰るかしない限り、私たちはこの店に入れないのだよ」
「なっ!? 年上に向かってその口の利き方は何だ!」
「確かに君は私より年上のようだ。だが、この場ではお互い、喫茶店に来た客の一人に過ぎない。違うかね?」
「何、屁理屈言ってやがる! ガキの分際で大人に口答えしやがって!」
男が若い女の胸倉を掴み、顔を寄せて威圧する。
だが、女はそれに全く動じることなく、むしろ喜んでいるかのように笑った。
「ふむ、私のような華奢な女にも中々容赦がないじゃないか。だがね、ここで行為に及ぶのは無粋であると言わざるを得ない」
「なっ!? 行為!?」
「何を驚いている。君の衝動を私にぶつけたいのだろう? ならばこのような人の多い場所よりも……」
「ふ、ふざけんな! てめえみたいなガキに興味あるか!」
クレーマーは女の異様な雰囲気と言動に半ば押される形で、女を突き飛ばした後、店を飛び出していった。
「お、お客様! 大丈夫ですか!?」
女に慌てて店員が駆け寄る。クレーマーを止められなかった自分をごまかしたいのかもしれない。
「はは、大丈夫だよ。それよりも、禁煙席に二人だ。案内してもらいたい」
「え、ええ、わかりました」
その会話の後、女の後ろから見覚えのある顔が現れた。
「おい、待てよ。あんな騒ぎを起こしておいて、ここを利用するのは……」
中学生にしては背が高く、軽薄そうな外見をした少年。
それは間違いなく――
「お前……幸四郎か?」
「……道秀さん」
俺の従弟、柳端幸四郎だった。
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