そして現在、オレは兄ちゃんに守られなくても大丈夫なほど強くなった。
苦手だと思っていた運動も頑張ったし、ご飯もたくさん食べて体を大きくした。そのおかげか、今のオレは二年前とは見違えるように強い男になった。もう、兄ちゃんがオレを守るために怒られる必要なんてない。
だけどオレは、今でもあのことを忘れてはいない。オレを守るために動いてくれた兄ちゃんの優しさを。
「槍哉、どうしたの?」
兄ちゃんをじっと見ていたからか、不思議そうな顔で聞かれた。でも、面と向かって兄ちゃんに『ありがとう』と言うのも恥ずかしかったオレは、つい顔を逸らしてしまう。
「何でもないよ、兄ちゃん」
こういう時に素直になれないのは、オレの悪いところだと思う。本当は兄ちゃんに感謝を伝えないといけないのに。
「おう、香車。槍哉も一緒か」
その時、後ろから兄ちゃんに声をかけるヤツがいた。この声は、オレも聞き慣れたものだ。
「あ、幸四郎じゃん」
オレが振り向くと、そこには兄ちゃんの友達である中学生、幸四郎がいた。
「槍哉、年上の人にはちゃんと『さん』を付けて呼べっていつも言ってるよね?」
「う……でも、幸四郎は幸四郎じゃんか」
「いいよ香車。槍哉はそういうヤツだからな」
「ほら、本人もいいって言ってる」
「幸四郎、あんまり槍哉を甘やかしちゃだめだよ」
兄ちゃんの言うとおり、本来なら年上である幸四郎のことはちゃんと『さん』を付けて呼ぶべきだし、本来なら上の名前で呼ぶべきなんだろう。だけど幸四郎の上の名前は『ヤナギバタ』とかそんな感じの言いにくい名前だったし、今更『幸四郎さん』と呼ぶのもなんだか気恥ずかしかった。だからオレはつい、呼び捨てで呼んでしまう。
「幸四郎も今帰り?」
「ああ、ちょっと委員会で遅くなってな。香車は槍哉を迎えに行ってたのか?」
「うん、中々帰ろうとしないから困ったもんだよ」
「はは、相変わらずだな。槍哉、あまり兄貴を困らすなよ」
「幸四郎に言われなくても、わかってるよ!」
しばらく三人で話しながら歩き、途中で幸四郎と別れた。幸四郎の言うとおり、いつまでも兄ちゃんを困らすような子供ではいけない。オレはこれからもっと強くなって、兄ちゃんが困っているときはオレが守るんだ。兄ちゃんが自慢できるような、立派な大人になるんだ。
その時のオレは、自分がそういう未来を掴み取れると信じて疑わなかった。
次の日、オレはいつも通り学校に行って勉強をして、放課後には校庭でドッジボールをして遊んでいた。
「ソーヤ、ちょっと休憩しようぜ。疲れたよ」
「もう疲れたのかよ、だらしないぞ」
友達が息を切らして座り込んだのに呆れながらも、オレも校庭の隅で休憩することにした。だがそんなオレの横に、一人の女の子が近づいてきた。
「槍哉くん、ちょっといい?」
「え? うん……」
オレに話しかけてきたのは、同じクラスの湖森涼子ちゃんだった。涼子ちゃんはクラスの他の女子とは違って大人っぽく落ち着いた性格で、その大きな目と優しそうな顔から、男子の間でも人気が高かった。そういうオレも、涼子ちゃんに突然話しかけられてドキドキしてしまっていた。
「どうしたの、涼子ちゃん?」
「うん、あのさ。今日はその、お兄さんは来ないのかなって……」
「え?」
何で涼子ちゃんが兄ちゃんのことを気にするのだろう。そもそも話したことも無かった気がするけど。
「えーと、もう少ししたら来ると思うよ。何か用があるの?」
「え? えっと、その、ちょっとお話出来ないかなって……」
「お話?」
「その、私ね、槍哉くんのお兄さんと仲良くなりたいなぁ……って、思ってるの……」
……これは。
まさか、涼子ちゃんは香車兄ちゃんのことが好きなのだろうか。でも、確か涼子ちゃんと兄ちゃんは話したことも無いはずだ。ということは、一目惚れ?
「……」
だけど、オレは二人が恋人になることにそこまで悔しさは感じなかった。確かにオレも涼子ちゃんのことを好きな気持ちがあるが、同時に兄ちゃんも尊敬の意味で好きだからだ。その二人が恋人になって幸せになるなら、オレも嬉しいと思えた。
「あのさ、兄ちゃんに涼子ちゃんのこと紹介しようか?」
「え?」
「兄ちゃんって、中学校に恋人がいるわけじゃないらしいからさ、今がチャンスだよ」
オレがそう言うと、涼子ちゃんは顔を真っ赤にして俯いた。
「そ、槍哉くん、そんなんじゃないよ……」
しかしその後、俯きながらもオレに目を合わせて微笑んだ。
「でも、ありがとう……」
その顔にドキリとしたけれど、オレが涼子ちゃんにそれを伝えるわけにはいかなかった。
「槍哉、迎えにきたよ」
そのしばらく後、兄ちゃんはいつも通りオレを迎えに学校に来た。兄ちゃんの姿を確認したオレは、涼子ちゃんに目配せしてこっちに来させる。
「兄ちゃん、帰る前に紹介したい子がいるんだけど」
「え?」
「は、はじめましてっ!!」
オレが兄ちゃんに紹介する前に、涼子ちゃんは先走って挨拶をしてしまった。どうやら緊張しているらしい。
「えーと、どういうことかな?」
「あのさ、この子が兄ちゃんとお話したいんだって」
「は、はい、湖森涼子です……槍哉くんのクラスメイトです……」
「そうなの? はじめまして、槍哉の兄の香車です。いつも槍哉がお世話になってます」
「い、いや、そんなこと……こっちこそ槍哉くんにお世話になってまして……」
「そうなの? 槍哉も隅に置けないなあ」
兄ちゃんが俺をからかう。でもこれじゃだめだ。涼子ちゃんが好きなのは兄ちゃんなんだ。ちゃんとそれを伝えないと。
「えっとさ、涼子ちゃんは兄ちゃんにその、興味があるんだよ」
「そ、槍哉くん!!」
「だって、そうなんでしょ?」
「う……は、はい……私、香車さんとお話したいんです……」
「え、えーと、参ったな……」
涼子ちゃんが勇気を出した言葉に、兄ちゃんは戸惑っていた。確かに兄ちゃんからしてみれば、弟のクラスメイトにいきなりこんなことを言われたら驚いちゃうよな。
だけどオレと違って、兄ちゃんはやはり大人だった。
「えーと、湖森さん? まだ僕は君のことを何も知らないんだ。だからさ、少しずつお話をしていくってことでいいかな?」
「は、はい……」
「とりあえず、僕の連絡先とメールアドレスを教えておくよ。時間ある時なら電話にも対応するし、メールは必ず返すからさ。とりあえずそこから始めていくのはどうかな?」
「はい! お、お願いします!」
明るい笑みを浮かべる涼子ちゃんを見ると、オレも嬉しくなってくる。兄ちゃんなら涼子ちゃんにも優しく向き合ってくれるだろう。この二人が幸せになるなら、オレもこの関係を応援したい。
そしてその後、涼子ちゃんは自分の携帯電話の連絡先を兄ちゃんに教えた。
「あの、その、近いうちに電話をしても大丈夫ですか……?」
「うん、基本的に夜は空いているからさ、その時にお話しようか」
「あ、ありがとうございます!」
涼子ちゃんは兄ちゃんにお礼を言い、挨拶をしたあとにオレ達と別れた。それにしても兄ちゃんはやっぱりすごいなあ。女の子に対しても落ち着いて接することが出来るんだ。オレもああなりたいなあ。
今日の兄ちゃんを見て、やっぱりオレはまだ子供なんだなと思い知った。
二週間後。
あれから兄ちゃんと涼子ちゃんは頻繁に電話で話しているようだった。学校に行くと、涼子ちゃんから何回もお礼を言われたし、兄ちゃんとの会話が楽しくて仕方がないと言っていた。オレはそのことに少し寂しさを感じたけど、それ以上に二人が幸せなのが嬉しかった。
だけど、そんなある日。オレも兄ちゃんも学校が休みである土曜日のことだった。
「あれ、兄ちゃん何やってるの?」
「ああ、槍哉。おはよう」
オレは外に遊びに行こうとして住んでいるマンションの中庭の横を通ると、兄ちゃんが中庭でバットを素振りしていた。
でも、うちにバットなんてあったっけ? オレも兄ちゃんも野球なんてやらないし。
「兄ちゃん、野球でも始めるの?」
「ん? そうだね、ちょっとやってみたい気持ちはあるかな」
「ふーん……」
兄ちゃんはああ見えて運動神経はいい。野球を始めたら結構すごいのかもしれない。
「ねえ、もし始めたらオレにも教えてもらっていいかな?」
「槍哉に?」
「いいじゃんか、教えてよー」
だけど、その時だった。
「に、兄ちゃん?」
兄ちゃんの目が、いつか見た暗く冷たいものになったのは。
「……槍哉」
「な、なに?」
「ちょっと聞きたいんだけどさ」
そして、兄ちゃんは言ってはいけないことを言った。
「人を、殺してみたいと思ったことはある?」
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