柏恵美の理想的な殺され方

さらす
さらす

第1部

第一話『獲物』・1

公開日時: 2020年9月9日(水) 18:01
更新日時: 2020年12月16日(水) 15:07
文字数:2,595


 その人は僕の前に突然現れたわけではなかった。朝の通学路でたびたびその姿を見たことがあるし、去年は僕が通う中学の制服を着ていた記憶がある。名前もどこかで聞いた。かしわ恵美えみというらしい。

 だが一度として話したことはなかった。そもそも同じ学年ではなかったし、僕は部活に所属していないので、上級生や下級生とは滅多に関わらない。


 それでもその人は、この辺りの公立高校では、一番の進学校と言われる学校の制服を着たその人は、ある日突然、僕ことなつめ香車きょうしゃに話しかけた。


「はじめまして、君の名前は知っているよ。棗香車くんだね?」


 どこか妖艶な微笑を浮かべながら、柏さんは僕に近づいてくる。


「私が一方的に君を知っているのは不公平だ。自己紹介をしようか」


 そう言って、柏さんは僕の足元に跪く。




「私の名前は柏恵美。君の、第一の犠牲者だ」




 数時間前。



 僕は通っている中学の教室で授業を受けていた。午前中の授業が終わった直後の昼休み、友人の柳端やなぎばた幸四郎こうしろうと雑談に花を咲かせる。


「なあ香車、お前SかMかでいったらどっち?」


 彼らしい、いきなりの遠慮のない質問に思わず動揺する。


「……なんてこと聞くんだよ教室で、女子もいるんだよ?」

「おいおい、いまどきの女子がこの程度の話題で恥ずかしがるかよ。どちらかというと女子の方がそういう話題をしていそうだぜ」

「僕は女の子には幻想を抱きたいんだよ」


 正直、それは本音だ。内心では御伽噺のお嬢様のような、綺麗な心の女性は数少ないのはわかってはいるが、それでも僕は女の子を天使だと思いたかった。


「で、俺の質問の答えは?」


 幸四郎が急かしてくる。僕としては答えたくなかったが、こういうときの幸四郎は引かない。少し考えてから答えることにした。


「……S、かな」

「はい、ブブー。そんな答えは認めません」


 幸四郎は大げさにリアクションを取り、僕の答えを否定した。


「な、何で!? この質問に正解なんてないでしょ!?」

「香車みたいな小動物系がSとかちゃんちゃらおかしいでしょ。大方、Mだって認めるのが恥ずかしいからSって答えただけだろ?」

「なんでそうなるのさ!」


 幸四郎の言った、小動物系というのは少なくとも外見に関しては当たっている。同年代に比べて小柄ではあるし、色白で声変わりもまだだ。そのため、かっこいいよりもかわいいと言われたことの方が多い。僕自身はそれを否定したいところだが。


「でもなぁ、香車よ。お前に首輪つけて飼いたいって話していた女子がいたぜ?」

「この中学にそんな危険人物が……?」

「その数、35人」

「一クラス分!?」


 それが事実だとしたら、僕の未来は危うい。


「ははは、冗談だよ。だけど、そんな話をしていた女子は本当にいたぜ?俺もお前には首輪が似合うと思うけどな」

「僕は……そんなに扱いやすそうに見えるの?」

「なんていうか、庇護欲をそそるっていうの? 香車は受身すぎるんだよ」


 幸四郎の言葉に僕はドキリとする。引っ込み思案なのは僕が気にしていることの一つだ。彼はたまに核心を突くから、侮れない。


「あーあ。それにしても、もう秋なのか」


 幸四郎がため息をつく。

 彼の言うとおり、カレンダーはもう10月になり衣替えも終わった。彼の憂鬱の原因は、僕と同じだろう。二年生である僕達が三年生になるときが近づいてくる、受験という言葉が重くのしかかる、三年生に。


「幸四郎は成績が良いんだから、あまり気にすること無いだろ」

「成績?あんなもん、将来が面倒にならないために良くしているだけだ受験に内申点がいらないなら、目をつけられない最低限の点数でいいんだがな」


 軽薄そうな幸四郎だが、その実彼は将来のことをよく考えている。

「面倒なことを避けた先には、より面倒なことが待ち構えている」

 この言葉を口癖のように言っている彼は、将来面倒なことにならないために成績を上げて、進学校に入ろうとしているし、成績の良さから多少の軽薄な言動も先生たちには黙認されている。目先の面倒さに囚われず、長期的に考えることが出来るのは彼の長所だと思う。


「で、小動物系の香車くんは平均点ぐらいだと」


 幸四郎の言うとおり、僕の成績は悪くはないが、決して良くもない。

 体育はそれなりに出来るが、それも本格的にスポーツをやっている人には及ばないし、他の教科は勉強してはいるものの、上位には入らない。


「はぁ……」


 さほど、将来について考えていない僕は、憂鬱な気分を抱いていた。僕が何もしなくても時間は進む。今のこの時間は永遠ではないのだ。


「ま、先のことばかり考えてもしょうがない。今も楽しまないとな!」


 僕の気分が沈むのをみた幸四郎が、話題を変えてくれる。

 今を楽しむか……

 僕にとっては今が気持ちよければそれでいいのかもしれない。先のことを考えるのは難しい。




 放課後。


 幸四郎の提案で、バッティングセンターに行くことになった僕たちは校門を出て、市街地の方へ向かう。


「あ……」


 途中でこの辺りの公立では一番の進学校と言われている高校が見えてくる。


「幸四郎はここに入るのかな?」


 僕はそれとなく聞いてみた。


「どうだろうな。確かにここに入れば選択肢は広がるだろうが、ただ進学校というだけで選ぶわけにはいかないな。どの分野の進路に強いのかを考えないと……」


 やはり幸四郎は将来に対しては慎重に考えるようだ。


 その時、高校の校門の前にいた、女生徒らしき人が動いた。高校の制服をきっちり着こなし、首元までの髪がかすかに靡いている。その女生徒はこちらをまっすぐと見据え、どこか妖艶な微笑みを浮かべながら近づいてくる。


「あ、あれ、あの人こっちに来るよ?ジロジロ見てたから怒ったんじゃ……」


 僕が慌てていると、女生徒の顔がはっきり判別できるくらい距離が縮まっていた。その顔に見覚えがあった。僕の二つ上の学年にあたる、うちの中学の卒業生だ。通学路でたまに見かけるが、話したことはない。だから、あちらが僕に用などあるはずがない。それでもその人は話しかけてきた。


「はじめまして。君の名前は知っているよ。棗香車くんだね?」


 女性としては低めの、よく通る声で話しかけられる。

 なぜ知っているのかを問う前に、女性は次の行動に出ていた。


「私が一方的に君を知っているのは不公平だ。自己紹介をしようか」


 そういって女性は……僕の足元に跪いた。




「私の名前は柏恵美。君の、第一の犠牲者だ」




 名前を知られていたことも、跪かれたことも、その言葉の衝撃には及ばなかった。




読み終わったら、ポイントを付けましょう!

ツイート