――本当に、恐ろしい存在になったものだ。
今の『香車くん』と黛くんの戦いを見て、私は心からそう思った。
間違いなく今、黛くんは自分の命を懸けている。一歩間違えたらその命を失う。
だが今の彼女はそれを十分理解した上で、尚も私を救いに来た。
自分を守る、そして私も守るという綱渡りを選択したのだ。
そして彼女はその綱を渡りきる自信がある。だからこそ、ここにいる。
先ほどの私の発言は間違ってはいなかった。
黛くんがいる限り、私は『香車くん』には殺されない。
だからそう、私にとっての勝利は――
黛くんと私の両方の、死だ。
「残念だよ……君がここで死んでしまうのは……」
呟いたその言葉は、隣にいる樫添くんには聞こえたようだ。
「柏ちゃん、もういいでしょ!? 黛センパイの言ったとおり、こんなものは茶番に過ぎないんじゃないの!?」
樫添くん……
彼女がここで私を守る以上、私は『香車くん』に近づくことが出来ない。
だから『香車くん』が黛くんを殺し、その後で私と樫添くんを殺す。
順番は前後しない。私が死を迎えるには、黛くんが死なないとならない。
「全く、やられたよ。樫添くんがここまで協力したのもそうだが、君を素早く動かした黛くんの判断には恐れ入る」
「柏ちゃん……」
だがそれでも、私の運命は決まっている。
そう、『香車くん』と黛くんとでは大きな違いがあるのだ。
「どうしたのだね、黛くん?」
「……」
『香車くん』の首筋にナイフを突きつけたまま、黛くんは動かない。
いや、動けないのだ。
黛くんは人を殺すことは出来ない。
「『香車くん』」
「……」
「黛くんを……せめて苦しまないようにしてやって欲しい……」
私の言葉を受けて、『香車くん』は動き出した。
「くっ!!」
黛くんから素早く一歩離れた後、ハンマーを横薙ぎに振る。
間一髪でその一撃は避けられたが、ハンマーが彼女の頭に叩きつけられるのは時間の問題だ。
そう、黛くんは人を殺せないが、『香車くん』は殺せる。
片方は殺さない気で、片方は殺す気で戦っているのだ。結果がどうなるのかは明らか。
「黛センパイ!!」
「いいのかね、樫添くん? 君がここから離れたら、私は『香車くん』の元に行ってしまうよ?」
「くっ……」
樫添くんがここから離れられない以上、この戦いは一対一。そして黛くんに勝ち目はない。
ならばせめて、彼女が苦しまずに死ぬことを祈るまで……
……?
私は何を考えているのだろうか。
なぜ私はこの期に及んでここまで黛くんを心配している? ついに念願が叶うというのに。
確かに黛くんは大切な友人だ。だが私は『香車くん』が傷つくことよりも彼女を心配している。
彼女の負けが確定しているから? 本当にそうなのだろうか。
……いかん、ここまで来て何を考えている。こんな考えは邪魔でしかない。
彼女は『希望』だ。私が『絶望』に浸るのに邪魔な存在だ。
だから……消えてくれ、黛くん。
「ああっ!?」
樫添くんの声で我に返ると、『香車くん』が黛くんをフェンスに追いつめていた。
ついに決着か……
「……何か言い残すことはありますか?」
「……」
「あなたは、本当に邪魔でしたよ、黛さん!!」
そして、最後の一撃が振り下ろされる。
思わず目をつむった。流石に見たくなかった。
だが……
「なっ!?」
『香車くん』が驚きの声を上げる。
その声で、目を開けてしまう、すると……
「……あんたに言っておくことはあるわ」
黛くんが『香車くん』の腕を掴み、懐に飛び込んでいた。
そして次の瞬間。
「『どいてよ、幸四郎』」
その言葉と共に……
「ぐ、は……」
ナイフを『香車くん』に突き刺した。
「……なに?」
『香車くん』の体から液体が流れ出る。ポタポタと。暗くてよく見えない。
何だ? 何が起こっている?
だが私がそれを理解する前に――
『香車くん』は、崩れ落ちた。
「……なんだ、これは?」
まだ頭が理解していない。目の前の光景を理解していない。
私の口の中が乾いていく。樫添くんが目を見開いている。
そして黛くんが崩れ落ちた『香車くん』を冷ややかに見下ろしている。
その手に持ったナイフから液体が垂れている。
まさか、まさか、彼女が。
「『香車くん』を、殺したのか……?」
黛くんは何も言わずに、こちらにどんどん近づいてくる。
その顔は全くの無表情で、自分の行動をまるで意に介していないようだ。
「……あ、ああ」
それを見て、私は――
明確な恐怖を感じた。
「あ、ひ……」
思わず後ずさる。目の前の彼女が怖い。
『死』の恐怖とは違う。まるで別種。『死』の恐怖が全てを奪い去られる恐怖だとしたら、今の恐怖は全てを管理下に置かれる恐怖だ。
私にまるで自由はない。精一杯抵抗することすら許されない。
そういったこと予感させる恐怖を、彼女に抱いている。
そうだ、思えばそうだった。
私は悉く、悉く彼女に潰されてきたのだ、私の目的を。
彼女がいたから、私は死ねなかった。いや違う、『死ぬ自由を与えられなかった』。
そして今回もそうだ。私はまた、死ねなかった。
つまり彼女は、
私を生かしたまま、その全てを支配するつもりだ。
「エミ……」
「っ!!」
「思い知らせてあげる」
「な、何を……」
「私の前では、あなたは無力だという事を」
……!!
あ、ああ、あああ……
こわい、こわい、こわい。
本気だ、彼女は本気で私を支配するつもりだ。
全身が震える。体に力が入らない。
恐れている。私は初めて支配されることを恐れている。
何か、何か手は……!?
そして目に入る、彼女の持つナイフが。
あ、あれだ……もうあれしかない。
彼女は『香車くん』を殺した。彼女は目的のためなら人を殺せる。
そう、彼女も『狩る側』となったのだ。
ならば、君にこの命を捧げよう。だから、だから……
「……君は、私の全てを奪え!!」
思い立った直後、私は飛び出していた。
樫添くんが止める暇もない。一直線にナイフの前に身を差しだし……
一気に貫かれた。
――
――――
―――――――――
つらぬ、
つらぬかれ……
「……え?」
なんだこれは?
まるで痛みがない。いや、刺さった感触がない。
違う、これは、
刺さっていない?
「エミ」
突如として名前を呼ばれ、体が反応する。
「私が、あなたを殺す可能性を残すと思う?」
私のすぐ近くにある黛くんの顔は、まるで幼女に接するかのように穏やかな顔だった。
そして私の体からナイフを離し、その刃先を指に当て、
刀身を、柄の中に押し込んだ。
「な、んだ、それは……」
「よくあるでしょ? 刺さったと見せかけて、刀身が引っ込む玩具。あれと同じ物よ」
「え……?」
「この液体も、授業で使った墨汁。暗かったから血に見えたでしょ?」
「で、では……」
「ええ、柳端は生きているわ。多分、棗に刺されたショックを思い出して気絶しているだけ」
ちょっと待て。
彼女は最初からこの玩具を持っていた。この玩具で彼と戦っていた。
そうなると。
「ば、馬鹿な!! そんなものでこの戦いに臨んだというのか!? 自分が死ぬかもしれないというのに!!」
「そうよ、あなたが死ぬ可能性を少しでも排除したかった。だから武器を持ち込みたくは無かった」
そんな……
それだけの、それだけのために。
私の最後の一手も全て読み切り、とことんまで私を死なせないために。
こんな危険な賭けをしたと言うのか。
「これでわかった? エミ」
「あ……」
黛くんは私の手を握る。
「あなたは絶対に殺されない。私がそうさせない。私がいる限り、あなたの望みは叶わない」
「……」
「だから、私と共に、生きるしかない。あなたにはそれしか許されない」
それしか……許されない。
「は、はは……」
何故かはわからないが、笑いが漏れる。
私の意志ではない。どこか強制された笑い。
そして今、思い知らされた。
私はこれからも、黛くんによって願望を踏みにじられるのだろう。
私がどんなに『狩る側』に近づいたとしても、彼女は全て蹴散らしてしまうのだろう。
私はこれから、彼女に負け続ける。何をしたとしても、負け続ける。
「……認めよう、黛瑠璃子。この戦いは……」
だから私は――宣言するほか無かった。
「私の負けだ」
陽が暮れた夜の屋上に、私の敗北宣言はよく響いた。
第五話 完
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