【7月30日 午後2時42分】
「ん、んん……?」
「目が覚めたかねルリ。さすがの君も、今回ばかりはお疲れのようだね」
「……エミ」
エミが楢崎に勝利した後、私たちは曇天さんに連れられて『死体同盟』のアジトに戻って来ていた。アジトのソファーに座った直後、落ちるように身体から力が抜けたのを覚えている。
「私、どのくらい寝てたの?」
「一時間くらいだよ。ここにいるのは私の他に棗夕飛と曇天くんだけだ」
「樫添さんは?」
「柳端くんと一緒に病院に行ったよ。沢渡くんが救急車で運ばれたからね」
その時、携帯電話が鳴った。
「もしもし?」
『柳端だ。とりあえずこっちはひと段落ついた。そっちはもう終わったのか?』
「ええ。全部終わらせたわ……沢渡はどうなったの?」
『それが……』
『ヒャハハ、なんだいまゆ嬢。アタシの心配してくれんのかい?』
通話口の向こうから聞こえたのは、おなじみの下品な笑い声だった。
『バカ、まだ動くな。安静にしてろって言われただろうが』
『アンタを前にしてじっとしてろって? それこそ健康に悪いじゃないか』
『妙なことを言うな。まあ聞いての通りだ。生花は怪我はしたが命に別状はないそうだ』
「そう……」
『よかった』という言葉が口から出そうになったけど、沢渡にそれを言うのはなんか癪に障るので寸前で止めた。
『柏は元に戻ったのか?』
「やあ、柳端くん。その質問には私が答えようか」
『……いや、いい。今のでわかった。それとだ、『スタジオ唐沢』の連中はどうなった? 木之内が生花と一緒に救急車で運ばれていったのは見たが』
「唐沢は木之内を刺したことを認めて警察に自首したわ。楢崎の方は……」
『どうした?』
……柳端にはどう説明したものか。
【7月30日 午後1時05分】
「黛、さん……!」
フラフラとした足取りで私たちの前に現れた朝飛さんは、エミの姿を見て一瞬怯んだ。
「柏さん……戻ったんだね」
「ああそうだよ。この通りルリに連れ戻された」
「……そう。それでクロエちゃんはどうしたの?」
「あそこに座っている。君が彼女の友人だというなら連れて帰るといい」
エミが指し示した先には蹲って何かをブツブツ呟いている楢崎がいる。それを見て朝飛さんは状況を察したのか、躊躇うことなく楢崎の前まで近づいた。
「クロエちゃん」
「あ、朝飛さ……」
楢崎の返答を聞く前に、朝飛さんの拳が楢崎の顔にめり込んでいた。
「ぐうっ!?」
「……もっと早くこうしてればよかったね」
「な、なにを……?」
「クロエちゃんさあ。結局あなたって、私のことも香車くんのことも舐めてたよね? こわいこわいって言いながら、私たちが自分の想像を超えないってタカをくくってた。あなたが柏さんを嫌ってたのも、結局は自分の思い通りに動かないって理由だったんでしょ?」
朝飛さんの指摘はさっきのエミの言葉通りだった。
「たぶんなんだけどね、香車くんが今も生きていたなら、あなたのことは嫌わなかったと思うよ。だって嫌いになる必要ないし」
「え……?」
「香車くんって別に相手を嫌いにならなくても人を殺せるからね」
そう言いながら、朝飛さんの手は楢崎の首を掴んでいた。
「ひっ!?」
「わからなかったでしょ? 私も香車くんも、別に敵意を向けなくたってあなたに攻撃できる。でもあなたは敵意を向けられている感覚がないと相手を攻撃できない。だから香車くんとあなたじゃ釣り合わないよ」
「あ、ひ……」
「怖い? そうだよね。これはあなたが生み出した恐怖じゃないからね。嫌われているはずのない相手から攻撃されるって怖いよね? でも香車くんってこれよりもっと上手くやったと思うよ」
「こ、これ、より?」
「香車くんなら、あなたを心の底から安心させて、『不安に囲まれていたい』という気持ちすら消した後にあなたを殺せたってこと」
「あ、あ、あ……」
朝飛さんの言葉には何の証拠もない。だけど私にもその確信があった。
アイツは初対面の私のことも何の躊躇もなく殺そうとした。私のことを何も知らなくても、『自分の愉しみのための障害だった』という一点だけで殺そうとした。その気になれば私を心から信頼させた後にゲームのコマンドを入力するような気軽さで殺せただろう。
棗香車という男は、そういう存在だった。
「わかった? あなたが求めてる不安なんて所詮その程度のものだったんだよ。まあ今さらそれを思い知ったところでもう遅いけど」
「え?」
「だってクロエちゃん、ここで死んじゃうし」
そう冷たく言い放った声は当事者でない私すら震わせるものだった。
まさか、そんなはずはない。朝飛さんは姉である夕飛さんと約束したんだ。『夜』を解放するはずがない。
だけど今の朝飛さんには、その約束を平然に反故にするのはないかと思わせる冷たさがある。
「や、やめ……」
「やめてくれ!!」
しかしその寸前で、悲痛な男の声が響いて朝飛さんと楢崎の間に割り込んだ。
「お願いだ! 殺さないでくれ! クロエは俺の娘なんだ!」
そこには両目に涙を浮かべた白樺隆がいた。
「パ、パパ?」
「俺はコイツに親らしいことを何もしてやれなかった……だからコイツはアンタに迷惑をかけちまったんだ。だから責任は全部俺にある! だから殺すのなら俺を殺せ! クロエには手を出さないでくれ! 頼む!」
「……」
白樺の必死の懇願を聞いた朝飛さんの目からあの冷たさが消える。
「あーあ、白けちゃった。よかったねクロエちゃん。やさしいパパがいてくれて」
「え……?」
「パパに免じて許してあげるって言ってるの。さっさと帰れば?」
朝飛さんが背を向けるのと同時に、白樺は自分の娘に向きあった。
「クロエ、本当に済まなかった。俺は本当に後悔しているんだ。お前のことをほったらかしにしてたことを」
「パパ……!」
「だから今からでも俺を父親として認めてほしいんだ。これからゆっくり家族としての関係を取り戻していこう。な?」
「う、うん……!」
楢崎が涙を流して父親に抱き着いていく。それを見た朝飛さんは私とエミ、それに夕飛さんに向き合った。
「うん、これで終わったね。帰ろう、お姉ちゃん」
「朝飛……アンタ」
「ん? もしかしてお見通し?」
「当たり前でしょ。アンタ、あのダメ男になんか頼まれたでしょ」
「え?」
状況を呑み込めてない私に対して、朝飛さんは顔を近づけて囁いた。
「ここに来る前にね、白樺さんが頼んできたんだよね。『クロエの心を俺に向かせるために一芝居打ってくれ』って」
「じゃ、じゃあ、今のは全部?」
「そういうこと。まあいいんじゃない? これでクロエちゃんは自分の命を助けてくれた大好きなパパと親子水入らずで過ごせるだろうし」
そこまで言った後、楢崎に聞こえないように再度呟く。
「あのダメ親父の面倒を死ぬまで見るって意味合いと同じかもしれないけどね」
……確かにそうかもしれない。
どちらにしろ、楢崎はあの父親からもう離れられないだろう。エミによって不安に囲まれる生き方を封じられ、自分を助けてくれた父親に依存するようになるだろう。
その先にどんな『絶望』が待ち受けていようと、私の知ったことではない。
【7月30日 午後2時49分】
『どうした?』
「あ、いや、その……」
楢崎の末路がどうあれ、現状では警察の追及を逃れている。柳端はそれで納得するだろうか。
『ふん、おおかた楢崎は警察に捕まることなく逃げたんだろ。それで俺に説明できないでいる。違うか?』
「え?」
『あの女が罰を受けるべきかどうかは俺が判断することじゃない。今回の件に俺が首を突っ込んだのはアイツが香車に何をしたのかを確認するためだ。確かにアイツがやったことは俺としては許しがたいが、それを裁くのは難しいだろう。それにどうせ、お前がタダで楢崎を逃がしたとも思ってない。ならそれで十分だ』
「でも、アイツは沢渡を傷つけて……」
『おい生花。楢崎は逃げてったそうだが、お前はどうしたい?』
『ああ? クロエ嬢ねえ。また出くわしたら楽しいだろうけど、今はいいや。幸四郎からかってた方が何倍も楽しいだろうからねえ』
『だそうだ。とりあえずこっちの用事は済んだ。お前らも無事ならそれでいい。また連絡する』
「え、ええ」
そう言って通話を切られてしまった。
「沢渡くんは無事だったようだね、なによりだよ。私としては彼女が楽しみを見つけられたのならまだ生きていたが方が喜ばしいのだからね」
「ねえ、エミ。確認したいんだけど」
「なんだね?」
「今のエミは、全部を思い出している状態なの?」
今回の戦いで、私はエミだけでなく斧寺霧人の人生も体験した。つまり、あれこそがエミの中に存在する斧寺霧人としての記憶だ。
警察官として人を救おうとしていた斧寺霧人は自分自身を救うことを選べなかった。だからエミに望んで取り込まれて、自分自身を救いたかったエミは『容赦なく殺される』という願望を得るに至った。
エミはそれを納得できているのだろうか。自分の中に他人の記憶や経験が存在することで、今の自分自身を見失ったりしないのだろうか。
「ああ、全て思い出しているよ。斧寺霧人がどういう人間だったのか、そしてなぜ私が彼を受け継いだのか。だからこそ喜ばしい」
「え?」
「全てを思い出した後も、私は君の支配下にあることが喜ばしい。そう言っているのだよ」
「あ……!!」
その言葉の意味を私は瞬時に理解した。
私はエミの背景を全て把握した上で、彼女を幸せにできるのだと。
「さあ、今は休みたまえルリ。これからも私は君の隣にいる。この私は君の支配からは逃れられないし、逃れようとも思わないほどに屈伏している。だから安心したまえ」
「うん……!」
「君が再び目を覚ました時も、私はまだ君の隣にいるよ」
その言葉を聞いて、私は安心して深い眠りについた。
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