【15年前 1月28日 午後3時05分】
「唐沢せんせー。宿題終わったよー」
「おっ、言われた通りにやってくれたね。えらいぞ、クロエちゃん」
とたとたと足音を鳴らしながら私の横に歩いてきたクロエちゃんに笑いかけると、彼女は不服そうに俯いた。
「……むう」
「おや、やっぱりクロエちゃんは私のことは嫌いかな?」
「せんせーのことは嫌いじゃないよ。でも、せんせーは私を嫌ってくれないのがやだ」
「うん、私はクロエちゃんの面倒を見てくれってお父さんに頼まれてるからね」
「お父さんは私のことを嫌ってくれたのになあ」
「そうだね。だからクロエちゃんの傍にはいてくれないんだよね」
「……お父さん、私がもっとお父さんの思い通りじゃない子になれば、また私と一緒にいてくれるかなあ?」
「ハッキリそうだとは言えないけど、私から見た君のお父さんは、自分の思い通りにならない子が大嫌いな人だよ」
「そうなんだ! じゃあもっと頑張ってお父さんが嫌いそうな子になるね!」
そう言うと、クロエちゃんは興味を無くしたかのように私から目を離し、椅子に座って本を読み始める。それと同時に家の電話が鳴った。
「もしもし」
『久しぶりだね、アキヒトくん』
「あ……! 霧人先生、お久しぶりです! お元気でしたか!?」
『元気だと言いたいところだが、日に日に衰えたことを実感する毎日なのだよ。君の方はどうだね?」
「万全とは言えませんが教室の運営は上手く行ってますよ。クロエちゃんも私の言うことをよく聞いてくれますし」
『そうかね、何よりだよ。ところで清美くんの娘のことは聞いているかね?』
「ええ……確か名前は、『柏恵美』でしたっけ?」
『ああそうだ。先日私も彼女に会ったのだがね、非常に興味深い子だったよ。上手く言えないのだが……私に足りないものを持っている……そのように感じたよ』
「足りないもの、ですか?」
『それと同時に、彼女にも何か足りないものがあるように思えたのだよ。彼女自身が薄いというか……そのような感覚だ。もしかしたら、私と彼女が交流すれば、お互いの足りないものを補えるのかもしれないね』
霧人先生の言葉の意図を計りかねていると、先生は申し訳なさそうに言葉を続けた。
『どうやら私もまだまだ会話が上手くないようだ。また君の指導を受けたいものだよ』
「え、ええ! ご都合が会う日があればいつでも合わせます」
『ありがたいことだね。次に会う日にはクロエくんがどのように育っているのかも見届けたいね』
そして霧人先生は、囁くように言う。
『私がいなくなった後も、アキヒトくんが他人を救える存在になっていることを見届けたいのだよ』
その言葉を受けて、電話口にも関わらず自然と頭を下げていた。
「……いつでもお待ちしています」
『ああ、それではまた連絡するよ』
電話が切れた後に、私は天井を見ながら喜びのため息を吐いていた。
霧人先生と出会ってから6年が経ち、私は俳優としての道をスッパリ諦めて演劇教室の経営を始めた。幸いにも運営は軌道に乗りつつあり、とりあえず食うには困っていない。
一方、先輩だったタカさんは奥さんが急死したそうで、娘であるクロエちゃんの面倒を私に押し付けてきた。元々あの人はクロエちゃんに愛情なんて持ち合わせてないだろうし、彼女の将来なんて興味ないんだろう。
だから私は、クロエちゃんに霧人先生の教えを授けることにした。
ちょくちょく私の家に遊びに来るクロエちゃんと話をするうちに、彼女は『人に好かれる自分』を信じていないことがわかった。父親であるタカさんに好かれていないことが影響しているかはわからないが、とにかく彼女にとって『嫌われている自分』こそがあるべき姿のようだった。
「ねえ唐沢せんせー。昨日学校でさ、クラスの男の子が私のことが嫌いだって言ってきたんだよね」
「へえ、その子はなんでクロエちゃんが嫌いだって言ったの?」
「なんかね、私がいっつも怖がってばかりなのがイヤなんだって。身体が大きいのに怖がってばかりでドッジボールでも鬼ごっこでも私がいるとめちゃくちゃになるからイヤなんだって」
言葉の内容とは裏腹に、クロエちゃんは嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「でもその方が私、ホッとした気持ちになれるから好き。あの子に何も優しくしなくていいから好き」
おそらくこれが、この子の根底にある思いなんだろう。中途半端に好かれるより、最初から嫌われていた方が安心する。この子にとっては世間一般の『安心』は不安を掻き立てられるものにあたるんだろう。
『不安心』とでも呼ぶべきだろうか。クロエちゃんにとっては『不安』こそが心を落ち着かせるために必要なのかもしれない。
「唐沢せんせーの言った通りだったね。私、ビクビクした気持ちになるのはダメなのかなって思ってたんだけど、せんせーの言った通りに嫌われるようにしたら、むしろそれでいいんだって思えた。だからせんせーのことは嫌いじゃないよ」
「うん、ありがとう、クロエちゃん」
世間から見たらクロエちゃんは間違った方向に進んでいるのかもしれない。だけど私は確信している。間違っているかどうかはクロエちゃんが決めることで、世間や私が決めることではないと。
「それでね、せんせー。この間きよみちゃんと会ったんだけど、なんか変な女の子がいたんだよね」
「変な女の子?」
「エミちゃんっていうんだけど。その子見てるとなんかホッとしちゃうの。別にその子が私に何かしてきたり何か言ってきたりしたわけじゃないんだけど、なんかその子、私に何かしてほしいみたい」
クロエちゃんの言葉に少しの違和感を抱いた。彼女にとっては『相手に嫌われること』の方が安心感を得られる。しかし柏恵美に対してだけは、見ているだけで安心感を得られるというのだろうか。
「だから私、エミちゃんのことが許せない」
その顔は先ほどとはうって変わって怒りに満ちていた。
「私をホッとさせる子なんていらない。いちゃいけない。お父さんみたいに私を嫌っている方が怖くなくていい。だからあの子のこと、きらい」
霧人先生も先ほどの電話で柏恵美に興味を示していたが、クロエちゃんにも思うところがあるらしい。いずれにしろ、霧人先生が興味を示す女の子がどんな考え方をしているのかは私も興味がある。
しかし、私が柏恵美に会う機会が訪れるのは何年も後になった。
【14年前】
「……亡くなった?」
その日教室を訪ねてきた斧寺識霧と名乗る青年は、一言挨拶するなり悲痛そうな表情で私に告げた。
霧人先生が、亡くなったと。
「はい。唐沢先生には生前の父がお世話になっていたとお聞きしていたので、せめてご挨拶をと思いまして……」
「そ、そう、ですか……」
「数年前から父が私たち家族とよく話すようになりまして、それも唐沢先生のおかげだと父が言ってました。ですので当人に代わり、私からも感謝をお伝えします。本当に、ありがとうございました」
識霧さんは顔に疲労の色を残しながらも、どこか力強さを感じさせる声で感謝を述べた。
しかし私としてはまだその事実を受け入れられてない。霧人先生が亡くなったなどと、そんな簡単に受け入れられるわけがない。
「あの、霧人先生はどこか悪かったのでしょうか?」
「申し訳ありませんが、事情については少し込み入ったものがありますので、ご勘弁願えませんか?」
「そ、そうですよね……すみません……」
死因についての質問は遠回しに窘められた。当然と言えば当然だが、霧人先生の職業を知っている私は悟ってしまう。
霧人先生は、何らかの事件の捜査中に犯人の襲撃を受けて命を落としたのだと。
「……もしよろしければ、お線香を上げに行ってもよろしいでしょうか?」
「わかりました。日程をご連絡いただければ調整します」
数日後。識霧さんの許可を得て霧人先生のご自宅に伺った私は、霧人先生の遺影が供えられた仏壇を見てようやくその事実を実感した。
……ああ、本当に亡くなったんだ。いなくなってしまったんだ。私を救い、生き方を示してくれた恩人が本当に亡くなってしまったんだ。
「うっ……ぐっ……」
そう思ったら、自然と涙が溢れてきた。いい年をした男がみっともないとも思ったが、今の私の感情を否定するわけにもいかなかった。
「すみません……」
「いえ、父もここまで想ってくれる人がいて、幸せだったと思います」
幸せか。だけど私は一度聞きたかった。
霧人先生は『絶望』こそが人を救うかもしれないと言っていた。自分なりの幸せを追い求めてほしいと私に示してくれた。
なら、霧人先生自身の幸せとはなんだったのだろうか。
「今日はありがとうございました。その……今度そちらの教室にまたお伺いしてもよろしいでしょうか? 恥ずかしいことなのですが、息子である私も父とまともに話すようになったのはここ数年のことでしたので、唐沢先生なら父の心中を私以上にご存じなのではないかと思いまして……」
「構いませんよ。こちらの番号にいつでも連絡してください」
識霧さんに名刺を渡し、霧人先生の自宅を後にした。
「……」
帰りの電車の中で、私の頭の中にあったのは去年聞いた霧人先生の言葉だった。
『私がいなくなった後も、アキヒトくんが他人を救える存在になっていることを見届けたいのだよ』
霧人先生は自分が近いうちにこの世からいなくなることを悟っていたのだろうか? それとも常日頃から自分が死んだ後のことを考えていたのだろうか?
どちらにしろ、あの人は自分の目的を託せる人間を探していたのかもしれない。息子である識霧さんではその役目は無理だったのだろう。まともに話すことすらできなかったのだから。
なら、その役目を担えるのは私しかいない。
霧人先生は死んだ、もう決して私の前に現れることはない。これこそ覆ることのない『絶望』だ。
しかし、それでも私は前に進める。霧人先生が教えてくださったんだ。私はまだ、霧人先生の意思を継ぐという目的に進んで生きていける。
そう思っていたのに。
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