【6月4日 午後12時05分】
「ここか……」
俺は今、一年D組の教室の前に立っている。言うまでもなく、紅林に昨日の礼をするためだ。
教室の中を覗き込むと、紅林は窓側の席でクラスメイトたちに囲まれて談笑していた。
「なあ姉御。この間のバレーボール部の練習試合に助っ人で出たんだよな?」
「ああ、そこの部長に『部員たちがたるんでるから気を引き締めたい』って言われたんだよ。私が出たところで別に変わらないとは思ったけど、割と楽しかったね」
「紅林さん、すごかったんだよ! 私も応援に行ったけど、バシバシボール受けててさあ!」
「私は背が足りないからね。バレーの試合じゃボール受けるくらいしか役に立たないよ」
見たところ、紅林は男女問わずクラス内で人気が高いようだ。かと言ってそれを鼻にかけている様子もない。そんな快活さが周りから慕われる理由のひとつなんだろう。
しかしクラスメイトと話している時に俺が割り込むのも気が引ける。どうしたもんか。
「あ、柳端せんぱーい! こっち来てくださいよ!」
そんなことを考えていると、向こうから呼ばれてしまった。紅林本人は明るい顔で出迎えているが、周りは俺を見て怪訝な目を向けている。
「なあ、柳端って……」
「あの柏恵美の、関係者、だよな……」
俺を見ながらそんなことをヒソヒソと話す声が聞こえてきた。くそ、やっぱり俺は柏の関係者だと思われてるのか。いい迷惑だ。
「いやー、すみませんね柳端先輩。そっちから来てもらっちゃって。私の方が先輩の教室に行くべきだったっすよね?」
「別にいい。それで、昨日も連絡した通り、学食で奢るということでいいか?」
「いいっすよ。というか私の方こそ何頼んでもいいんですか? 本当にお言葉に甘えて頼みまくっちゃいますよ?」
いたずらっぽくにんまりと笑う紅林だったが、その顔は俺が知っている女たちとは全然違う印象を受けた。
「ああ、大丈夫だ。じゃあ行くぞ」
「はーい、お供します」
クラスメイトたちからの視線を意に介さず、紅林は俺の後について歩いていた。
【6月4日 午後12時12分】
「じゃあ、いただきまーす」
「……本当に遠慮なく頼んだな」
紅林はラーメン大盛に炒飯、さらにはコロッケとポテトサラダを前に幸せそうな笑顔を浮かべていた。ものの数分で、料理がその小さな体の中にどんどん入っていく。どうなってるんだコイツ?
「うん、うまいっすね。私、ここの学食けっこう好きなんですよ」
「そうか。まあ、味は申し分ないな」
「ていうか柳端先輩って学食あんまり使ってないっすよね? どこで昼食べてるんすか?」
「だいたいは家から弁当を持ってきて、教室で友達と一緒に食べてる」
『死体同盟』の件が済んだ後は、なるべくは萱愛と一緒に昼食を摂るようにしていた。
「ふーん、そうなんすか。ああそうだ、ちょっと聞きたいんすけどね」
「なんだ?」
「この間、先輩の隣にいたパーマの女の人って彼女っすか?」
「ぶっ!?」
いきなりの不意打ちに口に含んだものを吐き出しそうになってしまったが、寸前で堪えた。コ、コイツ、俺が綾小路と一緒に帰るのを見ていたのか!?
「どうなんすかせんぱーい?」
「……アイツはここの定時制に通っている知り合いだ。彼女じゃない」
「ああ、そうなんすか。じゃあ、あっちの人が彼女ですか? 先輩がこっそりバイトしてるレンタルビデオ店にいるピンク髪のメガネの人」
「アイツは違う、絶対違う……というかお前、なんでそのことまで知ってるんだ?」
瞬時に否定してしまったが、あまりの驚きに重要なことを流してしまうところだった。
「別におかしなことじゃないっすよ。だって私、昨日はあの店にいて、その帰りに先輩が絡まれてる現場に出くわしたんですから」
「じゃあ、俺と生花が会話してるのを見たのも偶然ってことか?」
「そうです。で、あの人は彼女じゃないんすね?」
「そう言ってるだろ」
「じゃあ柳端先輩って今は彼女いないんすか?」
「いない」
「だったら、私はどうっすか?」
「……それはどういう意味だ?」
「私はどうだ」と言われても、どうもこうもない。目の前にいるのは下級生の男勝りな女子だ。
「わかりません? 私を彼女にしませんかって意味っす」
「……お前を?」
「ダメですか?」
「ダメも何も、お前とは会ったばかりで何も知らない。それにお前は同級生とも仲良いんだから、その中で言い寄ってくる男とかもいるだろ」
俺としては、なんとなしに告げた言葉だった。だが……
「……柳端先輩は、私がクラスの人気者とか思ってます?」
予想に反して、紅林はそれまでの明るい笑顔ではなく、なぜか怒りと少しの憂いを帯びた暗い表情に変わっていた。
「俺が見た限り、お前は『姉御』とか呼ばれて周りのヤツらにも頼られている人気者のようだったが?」
「確かに間違っちゃいませんよ。私は運動部の助っ人もよく引き受けるし、頼み事とかもあんまり断らないし、『紅林さんってリーダーシップあるよね』とか知った風なこと言われた時もありましたね」
「ならそれがお前への評価だろ。何が問題なんだ?」
「問題ですよ。だってそう思われてる限り、私は誰にも頼れないんですから」
一瞬、紅林の言葉が理解できなかったが、少し考えてわかった。
『強くて頼りがいがある、姉御肌の女子』。その評価を、紅林自身は重荷だと思っている。
昨日俺を助けた時のように、紅林には危機に巻き込まれても対処できる能力がある。周りのクラスメイトたちもそれを知ってるんだろう。だから紅林に頼る。
だが能力があることと、その能力を行使したいかどうかは別だ。紅林は周りに頼られて、その期待に応える能力はあるが、その立場を快く思っていない。むしろそこから逃れたいと思っている。
「気に食わないな」
そしてその逃れる手段として、俺を利用しようとしている。だから気に食わなかった。
「お前は俺が好きなわけでも気に入ってるわけでもなく、ただ頼れる相手が欲しいだけだ。そんな甘えに付き合うつもりはない」
「厳しいっすね。でもそれって何が問題なんすか?」
「なに?」
「自分に足りないものを他人に求める。別にそれは悪いことじゃないでしょ? 私の周りのヤツらだって、私に自分にはできないことを求めてますからね。だったら私がやったって構わない。違います?」
「だとしても、お前が俺と付き合ったところでそれは恋人同士とは言えない。俺とお前の間には上下関係ができてしまうだろ」
「そうっすね、だったらこんなのはどうですか?」
すると紅林は、俺を下から上目遣いで覗き込んだ。
「わたしが幸四郎お兄ちゃんの『妹』になるっていうのは?」
……なんだ今のは?
さっきまでの紅林とはまるで違う。頼りがいのある女というより、弱さが前面に出たみたいな顔だった。これは……
「ねえ、幸四郎お兄ちゃんって頼られるの好きだよね? だって、お兄ちゃんは……」
「やめろ!」
思わず大声を出してしまったが、それだけ今の紅林には危険なものを感じた。
知っている。俺は今の顔を知っている。『守ってあげたい』と、思わず俺に思わせてしまうあの顔を知っている。
『――幸四郎は、沢渡さんみたいな怖い人にならないよね?』
あれは……!
「ちょっとからかい過ぎましたか。悪かったっすね、もう言いませんよ。すみません」
「……そうしてくれ」
「さて、昼飯も終わりましたし、今日はこれまでにしますか。あ、そうだ。良かったら今度私と遊びに行きません? 先輩の友達も呼んでいいっすよ」
「俺もそんなに暇じゃない。こう見えても受験生だからな」
「ああ、そうっすね。まあでも習い事の日以外なら時間合わせられるんで、いつでも呼んでくださいよ」
「俺から呼ぶことはないと思うが、覚えておく」
立ち上がって教室に戻ろうと思ったが、ひとつ気になったことを確認しておきたかった。
「そういえば、さっきの妹キャラみたいな演技は、どこで身に着けたんだ?」
「別にあれは演技じゃないっすよ。私の本心みたいなもんです。ああでも、演劇の教室に通ってるのは事実ですよ」
「教室?」
「ええ、『スタジオ唐沢』っていう教室です。気になるんだったら、先輩も来てみてくださいよ。それじゃ」
そう言って、紅林は上機嫌で教室に戻っていった。
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