【7月29日 午後5時20分】
「ねえ、クロエおねえちゃんはどこ? わたしを連れて行ってくれるんでしょ? クロエおねえちゃんは?」
「エミ……何を、言ってるの?」
「わたしのこと知ってるの? おねえちゃんはだれ? クロエおねえちゃんのおともだち?」
これまでもエミが不可解な発言をしたことはあった。でもそれらは単純に私の常識から外れているというだけで、エミの中にある価値観や常識に沿った発言ではあった。だから最終的に理解はできなくても納得はできた。
でも今は違う。エミが何を言っているのかわからない。
なんで私がわからないんだ。なんで私ではなく楢崎の名前を口にするんだ。なんで私を見てそんなに不思議そうな顔をするんだ。
「エミ、楢崎……クロエはここにいない。だから大丈夫。今ここにいるのは私と樫添さんだけよ」
「だいじょうぶってなに? わたしはクロエおねえちゃんに連れて行ってもらうって約束したの。おねえちゃんはクロエおねえちゃんのおともだちじゃないの? わたしをどうする気なの?」
……違う。今、目の前にいるのは私の知っているエミじゃない。
顔も姿も声も全部エミだ。だからこそ強烈な違和感がある。どう見てもエミであるはずの人間が、どう考えてもエミが言うはずのない発言をしている。
少なくとも、あの柏恵美が自分に危害を加えるかもしれない人間に対して、警戒心を持つはずがない。
「柏ちゃん、もしかして私たちがわからないの? 樫添だよ、樫添保奈美。あなたの友達だよ」
「ほ、な、み……? えーと……?」
樫添さんに対してもエミは心当たりがないかのように戸惑った反応しか返さない。かと思ったら、エミの顔が突然無表情になり、私たちに頭を下げてきた。
「あの……ごめんなさい。わたし、おねえちゃんたちのことわからないです。でも、おねえちゃんたちはわたしのことを知ってるんですよね? だから、ごめんなさい」
「エミ……?」
「わたしは静かにしてますから、わがままも言わないでいますから、それで大丈夫ですか?」
……なにこれ。なによこれ。
まるでエミの中から急速に感情が失われていったようだった。それほどまでにエミが私たちに向ける表情には何も感じられない。私たちに対する興味も、思い入れもない。今のエミの中には何もない。
どうしてこんなことになったんだ。エミが過去の記憶を思い出そうとして、突然苦しみだして、意識を取り戻したらこうなって……
「まさかこれが、本来のエミだっていうの?」
斧寺霧人の影響を受ける前の、『絶望』を求める前の、本来のエミ。唐沢が言っていた、私が知っているエミになる前のエミ。それが今のエミだっていうの?
「ねえ、こっちを向いてよ」
「……」
「私が言ってるの。アンタの支配者である黛瑠璃子が言ってるの。私の言うことが聞けないの? ねえ!」
「セ、センパイ、落ち着いて……」
「落ち着いていられるわけないでしょ! エミが、エミがこのままなわけない。必ず私の横で生きるように強制したの。あのエミが、誰にも殺されてないのにいなくなるわけがない」
わかってる。もうこれは樫添さんじゃなくて自分自身に言い聞かせている。目の前のエミを認めたくないという気持ちをどうしても捨てられないから思わず叫んでしまっている。
どんな状態であろうとエミはエミだと考えていた。私の知らないエミであろうと守ってみせると決意していた。そのはずなのに。
実際にエミが変わり果てたら、私の決意はいとも簡単に揺らいでいる。
「ちょっと、どうしたの!?」
病室に戻ってきた朝飛さんが私に駆け寄ってきた。
「今度はだれ? またクロエおねえちゃんじゃないね」
「……柏さん?」
「ごめんなさい、あなたのこともわからないです。だからわたしは静かにしてます」
「どういうことなのこれ?」
朝飛さんも戸惑っているけど、こっちが説明して欲しいくらいだ。目の前にいるのはエミのはずなのに、私は彼女をエミと思えない。
『うん、そうか。つまり黛さんは、本来の柏さんには別に興味ないのか』
唐沢の言葉が自然と頭に浮かんでしまう。頭を振ってもその言葉は離れてくれない。
違う。私はエミと一緒に生きていたい。その思いをずっと抱いてエミを守り抜いて来たんだ。たとえエミが私の知っているエミじゃなくなっても、私は……!
「とりあえず今日はもう帰りましょう。センパイ、いいですね?」
「……わかったわ」
「それじゃ柏ちゃん。また明日ね」
「はい、さようなら」
【7月29日 午後5時42分】
病院のエントランスで私たちは何も言えずに立ち尽くしていた。
「……」
黙っていても状況は何も好転しない。それはわかってる。だとしても現状はあまりにも私の理解を超えてしまっていた。
エミの命が誰に脅かされても守る決意があった。だけどエミそのものが変貌してしまうなんて事態は予想していなかった。
どうしても考えてしまう、例え今のエミを守り切れたとしても……
私はこの先も、エミと一緒に生きていたいと思えるだろうか。
「黛さん、なんかまた都合のいい子になっちゃってるね」
「は?」
朝飛さんを見ると、どこか私を嘲るような笑いを浮かべていた。
「柏さんを守るために私に命を捧げようとした時と同じ。なーんか、やんなっちゃうね。こんな子のせいで柏さんが願いを叶えられないなんて」
「何が言いたいの?」
「柏さんの支配者とか言いながら、私には殺されそうになるし、樫添さんにお尻叩かれないと自分に自信も持てないし、本当は黛さんって大したことないんじゃないの?」
「……!」
「お姉ちゃんと約束したからさ、私はもう自分勝手に『夜』を解放するなんてことはしないよ。でもね、あなたがそんな体たらくだったら……」
そう言って、朝飛さんの顔がいつかの無表情に戻る。
「私みたいな人に、柏さん殺されちゃうよ?」
その言葉を聞いて、私の身体は自然と動いていた。
「っ!!」
「……やればできるじゃん」
私が突き出したスタンガンを最小限の動きで避けて、朝飛さんはいたずらっぽく笑った。
「黛さん自身がどう思おうと、今の動きが答えでしょ。とりあえず柏さんはまだ無事なんだし、彼女を戻す方法はクロエちゃんに聞いた方が早いんじゃない?」
そうだ、エミは楢崎の名をしきりに口にしていた。今のエミにとって楢崎の存在は大きいし、アイツならエミの過去に何があったのか知っているはずだ。
「あれ、お姉ちゃんからだ」
電話の着信音が鳴って、朝飛さんは通話を始めた。
「もしもしお姉ちゃん? うん……え? わかった」
通話を終えるとこちらに向き直る。どうやら相手は夕飛さんだったようだ。
「あのさ、お姉ちゃんが『死体同盟』に来てくれだって」
「『死体同盟』に?」
「白樺隆って人から話があるそうだよ」
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