数十分前。
樫添さんの連絡先に電話したはずの私の耳に届いたのは、下品な女の声だった。
『はいはーい。まゆ嬢。こちらは樫添保奈美の携帯電話ですよー』
私を“まゆ嬢”なんて変な呼び方をする人間は一人しかいない。先日も『死体同盟』と一員として私と戦った女。
――沢渡生花。
「……なんでアンタが出てくるのよ」
『ヒャハハ、知りたいかい? 実はアタシは保奈嬢と親友だった、なんてのはどうだい?』
「樫添さんはアンタみたいな下卑た女は大っ嫌いだって言ってたわよ」
『ヒャハッ、相変わらずまゆ嬢はきついね。まあそうじゃないと面白くないねえ』
沢渡の言葉を聞き逃すことなく、同時に頭を状況の整理に使う。
樫添さんにかけたはずの電話になぜか沢渡が出ている。最悪の事態を考えるなら、考えたくはないけど既に樫添さんは死んでいる可能性すらある。
しかしそうなっている可能性は薄い。なぜなら樫添さんはエミと一緒に地元の駅近くのショッピングモールにいたはずだ。あの人ごみの中で堂々と樫添さんを殺すとは思えない。かと言って、沢渡一人で樫添さんを誘拐して人気のないところで殺害するなんてことはできはしないだろう。
つまり今起こっているのは、沢渡がなんらかの方法で樫添さんのスマートフォンを手にしているという状況だ。
「一応聞くけど、樫添さんはどこ?」
『えーと、そうだねえ? ラブホのベッドでアタシと一緒に横たわってるなんてのはどうだい?』
「ああそう、じゃあ自分で探すわ」
沢渡に質問したところで、素直に樫添さんの居場所を吐くわけがない。今必要なのは、一刻も早く足を使うことだ。
そう思って、電話を切ろうとした時だった。
『ああ、そうだ。アンタと話したいって人が横にいるんだよ。今代わるよ……ほら、朝飛嬢』
私の耳に、確かに届いた。『朝飛』という名前が。
『朝飛嬢はやめろって言ってるでしょ。もしもし、あなたが黛さん?』
「……ええ、私が黛瑠璃子です」
『ああ、よかった。ようやく話せた。あなたが黛さんなんだね!?』
沢渡に代わって電話に出たのは、高い女の声だった。なぜか電話の相手が私だとわかると、嬉しそうにはしゃいでいる。
『柏恵美さんの支配者だって聞いているけど、声のトーンだけでなんか強い人なんだってわかるなあ。私も嬉しくなっちゃうよ』
「あなたに喜ばれても困ります。そもそも誰なんですか?」
『ああ、そうか。私のことは知らないよね。私は棗朝飛って言います。あなたを求めている者です』
――棗、朝飛!!
コイツが沢渡と組んでいるということは、目下の私の敵は、晴天とこの二人ということになる。
状況が変わった。まずはこの通話で少しでも朝飛の情報を引き出しておきたい。『私を求めている』という言葉の意味も気になる。
「あなたが棗朝飛さんですか。夕飛さんから話は聞いています。……棗香車と同じ存在かもしれないって」
『あれ、お姉ちゃんに会ったんですか? ああ、そうか。私を心配してくれてるんだ。やっぱりお姉ちゃんはやさしいなあ』
「それで? どうしてあなたは私を求めているんですか?」
『ああ、うん。晴天さんに言われたんだよ。黛さんが私の願いを叶えてくれるかもしれないって』
「あなたの願い?」
『そう、私の『夜』を解放したいっていう願い』
「……!!」
その一言でわかった。理解してしまった。
棗朝飛。コイツは棗香車と同じ……『狩る側の存在』だ。
『夜』を解放する。つまりは『他人を殺したい』という欲望がコイツにもある。直接的なワードを用いなかったのは、この会話を録音でもされて警察に駆け込まれるのを警戒しているのだろう。
つまりコイツの中にはその選択肢があるのだ。いざとなれば『他人を殺す』という選択肢が。
『あ、そうだ。もしかしてお姉ちゃんもそこにいるのかな? 久しぶりに話をしてみたいなあ』
「……」
どうする? ここで夕飛さんが私に協力していることを明かしていいのだろうか。こちらの手の内は隠しておいた方が……
「黛さん、電話を代わって頂戴。相手は朝飛なんでしょ?」
私が考えを巡らしている間に、夕飛さんが迫ってきていた。
「……わかりました。でもスピーカーホンにしておきますよ。私も会話を聞きたいので」
「助かるわ」
夕飛さんに携帯電話を渡すと、彼女は真剣な顔で口を開いた。
「朝飛なのね? 一体どこで何をしているの?」
『あ! お姉ちゃん! 久しぶり。黙っていなくなってごめんね。私は元気だから』
「私はアンタが『どこで何をしているのか』って聞いてるのよ」
『え? えーとね、この間さ、晴天さんに会ったんだよ。そしたらさ、『あなたを夕飛さんから解放してあげますよ』って言うから、協力したんだ』
「アンタ……! あれほどアイツには関わるなって言ったでしょ!」
『えー? でもさ、お姉ちゃんといると、私の願いは一生叶えられないじゃない。お姉ちゃんが『夜』って呼んでるものを、私は解放したいんだよ』
「そんなことをしたら、アンタだって不幸になるわよ。私はアンタにそうなってほしくないの!」
『うん、そうだよね。お姉ちゃんはやさしいもんね』
二人の会話を聞く限りでは、夕飛さんが朝飛を止めたいと思っているのは本当のようだ。もちろん、演技である可能性もあるけども。
「それでアンタ、晴天に何を吹き込まれたの? アンタは自分の中の『夜』と上手く付き合ってた。それでいいじゃない」
『上手く付き合ってた? そう思ってたのはお姉ちゃんだけだよ。私はずっと自分の願いを我慢していたんだよ』
「朝飛……」
『お姉ちゃんが勧めた通りに保育士になって、自分より弱いものと関わり続けて、それで我慢できると思ってた。だけどさ、これから一生我慢し続けると思ったら怖くなっちゃった。でもそんな私に晴天さんは示してくれたんだ』
「アイツが何を示したって言うの?」
『……私の願いを叶えられるっていう『希望』だよ』
「……!!」
ここでまたも出てきたか。『希望』という言葉が。
『希望』に縋らせるのは空木晴天が人を支配するためのやり方だ。おそらくは朝飛も晴天が示した『希望』に縋っているのかもしれない。
「アンタが我慢してたのはよくわかった。だけど私は、アンタが一線を超える前に止めなきゃいけない。なんとしても」
『そうだよね、やっぱりお姉ちゃんはやさしいよね』
「優しさじゃないわ。私のエゴよ」
そして夕飛さんは絞り出すような声を出す。
「……私にはもう、アンタしか家族がいないんだから」
もしかしたら、この棗夕飛という女性も、私と同じ……
『あ、ごめん。沢渡さんが早く来いって言ってるから、切るね』
「え? ちょっと、朝飛!」
夕飛さんの制止もむなしく、電話は切られてしまった。
「……黛さん、どうやら私もあなたのお友達を助けるのに協力しないといけないみたいね」
「そのようですね。朝飛さん……あなたの妹さんは、やっぱり『人を殺したい』という願望を持っていたようですね」
「ええ、そうよ。私はそれを抑えられてるもんだと思ってたけど、どうやら思い違いだったみたい」
ため息をついた夕飛さんに対して、曇天さんが声をかけた。
「夕飛さん。どうやら既に事態は動き出しているようですね。柏様は無事なのでしょうか」
「それはまだわからないわ。とにかく、急ぎましょう。黛さん、なんとか柏恵美さんに連絡は取れる?」
「やってみます」
そう、まずはエミの無事を確認しなければ始まらない。無事ならば一刻も早く合流しないと。
空木晴天、沢渡生花、そして……棗朝飛。
アイツらに、エミを渡すわけにはいかない。
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