……生花との出会いを思い返していた俺は、再び考える。
あの時、生花は本当に階段で転んでケガをしたのだろうか。本当は誰かに突き落とされたのではないだろうか。
そしてその誰かとは……
「……くっ!」
その考えが頭によぎった瞬間、猛烈な嫌悪感と吐き気に襲われる。それに耐えかねた俺は、小さく叫んで机を叩いた。ファーストフード店の客たちが驚いた目で俺を見るが、そんなことはどうでもいい。
俺はもう知っているはずだ。香車には俺に見せていない残忍な本性があった。あの時、既に香車の中には怪物が棲んでいたんだ。
だけど俺はどうしても思い出してしまう。香車が俺に見せた穏やかな顔を。俺にだけは見せてくれた、庇護欲を掻き立てる表情を。
その記憶が、俺の心を迷わせる。生花を突き落としたのが香車であるはずがないと考えてしまう。
だけど現実に、香車は俺を刺した。俺を刺して、柏を殺そうとした。そして柏を殺せないと判断した結果、自ら死を選んだ。
なあ香車、俺はわからない。どうしてお前はそんなに人を殺したかったんだ? どうしてお前は生花を突き落としたんだ? あんなに俺に優しくできるお前が、どうして人の命を奪おうなんて考えられるんだ?
俺はまた、いつかのように、聞こえるはずのない香車の声に縋ってしまいそうだよ。
そんな迷える俺の目に、生花が残した名刺が見えた。
『アンタは棗に殺されたいってことにならないかい?』
生花は俺に対してそう言った。俺は香車に殺されたいのではないかと。もしかしたらそうなのかもしれない。俺が香車に殺されるのであれば、俺の罪は全て許されるのかもしれない。
……いや、何を考えているんだ俺は。俺が死んだところで、香車が生き返るわけじゃないし、俺が許されるわけでもない。それはただの自己満足だ。
そう思って、『死体同盟』と書かれた名刺をゴミ箱に捨てようとした。しかし……
「……」
寸前で俺の手は止まった。そうだ、そういえば生花を突き落とした犯人が本当に香車なのか、それがまだはっきりしていない。まずは生花にもう一度会って、それを問いただす必要がある。
自分への言い訳めいたことを考えながら、俺は名刺をポケットにしまった。
週末、俺は名刺に書かれていた住所の前にいた。そこにあったのは、茶色のレンガが特徴的な三階建ての洋館だった。
俺の親戚がいくつか持っているらしい不動産でも、ここまでの物件は見たことはない。どうやら『死体同盟』の中に、資産家のメンバーがいるようだ。
だがそんなことはどうでもいい。俺は生花に会いに来たのだ。あいつは本当に香車に突き落とされたのかを確かめるために。そして……
俺が香車を再び理解するために。
インターホンを押すと、低い男の声が聞こえた。
『はい、サークル『死体同盟』ですが』
「あの、柳端という者ですが。沢渡さんはいらっしゃいますか?」
『ああ! 柳端様ですね。お待ちしておりました。門は開いておりますので、どうぞお入り下さい』
そう言って、インターホンは切られてしまう。どうやら向こうは俺を待っていたようだが、俺は『死体同盟』なんて集団のことはまるで知らない。一体そんな集団が俺に何の用があるというのか。
言われた通りに門を開けて、玄関の扉に手をかける。
俺は今、『死体同盟』なんて怪しい集団の本拠地に来ているが、別に俺は死体になりたいわけじゃない。ただ昔の知り合いに会いに来ただけだ。
……俺は、柏とは違う。正常な人間だ。
そう思いながら、俺は扉を開けた。
「いらっしゃいませ、柳端様」
俺を出迎えたのは、灰色の長髪とスーツが特徴的な、長身痩躯の男だった。先ほどの声の主のようだ。
「ヒャハッ、来てくれたのかい、幸四郎」
その男の後ろにあるソファーから、見覚えのある派手な女が座っていた。俺の目的である、沢渡生花だ。
「柳端様、私はこの『死体同盟』の代表を務めております、空木曇天と申します。この度はようこそお越し下さいました」
「申し訳ありませんが、俺はそっちの沢渡さんに会いに来ただけです。『死体同盟』が何なのかには興味ありません」
「ヒャハハ、アタシに会いに来たって? いいじゃないか、中学の頃の続きでもしようよ」
そう言って、生花は自分の首を絞めるジェスチャーをする。それを見て、ここに来たことを少し後悔するが、俺には確かめなければならないことがある。
「生花、お前に聞きたいことがある。中学の頃、お前が階段から転落した時のことだ」
「転落? ああ、あれかい?」
そして生花は、両手を突き出す。
「棗のボウヤが、アタシを突き落としたあれ?」
俺にとっては聞きたくない事実を、いつも通りのヘラヘラとした顔で言った。いとも簡単に。あっさりと。
「……本当に、お前は香車に突き落とされたのか?」
「うーん、どうかねえ? アタシとしちゃあ、そうであってほしいけど、よく覚えてないねえ」
わざとらしく考え込む仕草を見せる生花に対し、俺は怒りを隠せないでいた。こいつは俺を迷わせて楽しんでやがる。そうとしか思えなかった。
「生花! お前は……」
「申し訳ありませんが」
思わず掴みかかろうとした俺の腕を、先ほどの空木という男が止めた。
「当団体のメンバーに対する暴力はご遠慮いただきたく思います。私どもは、『自分の望む死に方』を模索するためにここに集まっておりますので」
「……!」
空木はその細身の体格からは想像できないほどの威圧感を発して、俺に警告した。それに思わず怯んでしまい、冷静になった。
そうだ、俺は生花にあの時のことを聞き出し、香車を理解するためにここに来た。荒事は避けるべきだ。
「空木さん、なにかあったんですか?」
すると、階段の上から声が響いてきた。この声は……
「あ、柳端くん。来てくれたんだ」
綾小路が俺を見て、弱々しい笑顔を浮かべる。やはりその顔には、以前のような勢いは感じられない。
綾小路は隣にいる小柄な女子と一緒に、階段を降りて俺の前に現れた。
「綾小路さん、この人が?」
「うん、例の柳端くん」
「ああ、そうなんですか。初めまして、私は湯川由美子っていいます。ようこそ、『死体同盟』へ」
湯川と名乗った女子は人なつっこい笑顔で俺に握手を求めてくるが、俺はそれに応じる気はなかった。
「ちょっと待て。誤解しているようだが、俺はここに入りにきたわけじゃない。そこの沢渡生花に話があるだけだ」
「ヒャハハ。幸四郎は昔のオンナを追って、わざわざ来てくれたのさ」
「うるさい! それで、お前はどうして香車に突き落とされたんだ? 何か心当たりはあるのか?」
もし、本当に香車が生花を突き落としたのであれば、そこには何か理由があるはずだ。もしかしたら生花が香車に何かをしたのかもしれない。この女のことだ、香車の怒りを買うようなことをしても、不思議じゃない。
「ヒャハ、ヒャハハハ。やっぱり幸四郎は鈍いねえ。まだ棗のことを理解していないのかい」
「なんだと?」
「『どうして突き落とされた』だって? あのボウヤにそんな理由は必要ないのさ。強いて言えばアタシが棗の本性に気づき始めたからじゃないのかい? ま、それも後付けだろうけどね」
「何の話をしている! 俺はお前がどうして香車に突き落とされたのかを聞いているんだ!」
「まだわからないのかい?」
生花は眼鏡をかけて、俺にヘラヘラと笑いかける。
「アタシは棗に何もしちゃいない。ただ単に、理由もなく、あのボウヤに殺されかけたのさ」
その言葉に、俺は愕然とする。
何の理由もなく? そんなはずはない。香車はきっと、何か理由があって……
「ヒャハハ、いいねえ幸四郎のその顔。絶望したかい? 絶望してアタシに怒りをぶつけたくなったかい?」
そして生花は眼鏡を外して、俺を挑発する。
「今だったら、アンタに殺されてもいいかもしれないねえ」
怒りのままに生花を殺す境地には、俺には至れなかった。
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