柏恵美の理想的な殺され方

さらす
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第八話『決戦』・1

公開日時: 2020年9月20日(日) 20:11
更新日時: 2020年9月23日(水) 13:23
文字数:8,748


 間違いない。

 あの顔は間違いない。


 再びエミと会う決意をした私は、樫添さんと共に××駅に来た。だが、そこで見てしまった。決していて欲しくなかった人物の顔を。

 柳端から見せられた何枚かの写真。そこに写っていたのは、殺人どころか暴力すら似つかわしくない大人しそうな少年だった。

 そして今、××駅前で見たその顔。そこにいたのは、写真と同じようにとても他人に暴力を振るいそうにもない少年、


 棗香車だった。


 にわかには信じられない。あの少年が人を殺そうとしているなどと。だが、逆にそれが、彼が「狩る側の存在」たる所以なのかもしれない。

 エミはいつか言っていた。


「『狩り』というものは、ただ単に獲物を殺すことだけを考えるのではない。相手を殺しつつ、自分の安全を確保しなければならない。『狩る側』の生はその後も続くのだからね」


 とても人を殺しそうには見えない少年。だからこそ、人を殺しても疑われにくい。


 もしかしたら、彼は常日頃からそれを意識しているのかもしれない。その時、棗香車がこちらを見た。


 ――まずい!


 とっさに目を逸らしたが、私が彼を驚きの表情で見ていたことに気づかれたかもしれない。もう一度彼がいた場所を見ると、彼はもういなかった。とにかく、事態は一刻を争う。


「どうしたんですか? 黛センパイ」


 樫添さんが声を掛けてくる。そうだ、焦っても仕方がない。冷静に一つずつ行動を起こそう。


「……今、棗香車を見たわ」

「え? 棗って、例の?」

「ええ、エミを殺すかもしれない存在」


 「男」や「人間」という言葉を使わずに、「存在」という言葉を使った理由は自分でもよくわからない。だが、そう言った方がしっくりくる気がした。


「と、とにかく、センパイの協力者……柳端でしたっけ? そいつに柏ちゃんを早く遠くに行かせるように言うべきですね」

「そうね、もしかしたら水面下で事態は動いているのかもしれない」


 とにかく、エミの無事を確保しなければならない。柳端がうまくエミを手中に納めてくれていれば……柳端の携帯電話にコールすると、彼はすぐに出た。


『黛か? すまない、不測の事態が……』


 !? まさか、エミの身にも何か!?

 でも、とにかくこちらも非常事態だということを伝えなければ。


「柳端! まずいわ、よく聞いて! 棗香車が××町に来ている!」

『……なんだとっ!?』


 柳端のこの動揺からいって、事態はかなりまずい方向に行っているのかもしれない。とにかく、状況を聞こう。


「それで、そっちの不測の事態っていうのは!?」

『柏が姿を消した。道秀さん……例の親戚の息子も一緒だ』

「そんな! まさか、棗と合流を!?」

『いや、柏の電話は俺が没収している。しかし、香車がこの町にいるということは、なんらかの手段で連絡をとっていたのかもしれない。それと、恐らく道秀さんも柏に協力している』

「くっ……どうしよう!? 警察に通報しようか!?」

『ダメだ。柏は出かける際に道秀さんの母親に出かける目的を告げている。柏が家を出て間もないこの状況では、警察は動かない。動いたとしたら、柏が行方不明になった後だ』

「それじゃ遅いのよ!」


 警察はこの状況では動かない、なら止められるのは私たちしかいない。


『とにかく、お前は駅にいるのか!? 俺がそっちに行って合流する! そこにいてくれ!』

「わかった!」


 電話を切って柳端の到着を待つが、私の思考はまとまらなかった。


 どうしよう、どうしよう、どうしよう。

 エミが死んでしまうかもしれない。エミが消えてしまうかもしれない。

 やだ、それはいやだ。それがエミの望みだったとしても。

 でも、どうしよう、エミはどこにいるんだろう、エミは……


「落ち着きなさいよ!」


 考えがまとまらず、震える私を樫添さんが一喝する。


「……話を聞く限り、その棗って奴はただ単に人を殺したいんじゃなく、自分に疑いがかからないようにしたいんでしょ? なら、その状況に持って行くための場所を探すはず、すぐには事に及ばないんじゃないの?」


 そうだ。『狩る側』は自分の安全を守るとエミは言っていた。

 その状況に持って行くための準備が必要なはず。その準備が終わる前にエミを見つけ出せれば……



 ※※※



 市立図書館の前に着いた俺と柏は、目的の人物を探していた。と言っても、俺はその人物の顔を知らないので、柏が連絡を取りながら探すという形だった。


「おっと、私の姿が見えたのかね? ならばここで待っていよう」


 どうやら、その人物がいよいよここに来るらしい。一体どんな……


「お待たせしました」

「……え?」


 いつの間にか近づかれていたらしい。だが、俺が驚いたのはそこではなかった。


「え、あ……君が……?」

「……柏さん、この人は?」

「ん、ああ。彼は長船くんといってね。柳端くんの従兄だが、私たちに協力してくれるらしい」


 いや待て、まさかこの少年が?

 俺どころか柏より年下であろう、それこそ幸四郎とそう変わらないような少年が、これから人を殺そうというのか?


「……おい、柏」

「どうしたのかな?」

「まさかあんた、俺をからかっていたのか?」

「……」

「こんな、人どころか虫も殺せないようなやつが……」


 その時――



「黙っててくれますか?」



 瞬時に俺の口が塞がれた。


「あまり、直截的なワードを出さないでもらえますか? 誰かに聞かれて、尻尾を掴まれたくありませんので。協力をしてくれるのであれば……」


 その後、その少年は俺の口から手を放し、


「あなたを、歓迎します」


 相手を安心させるような微笑みを俺に向けた。


「あ、ああ……」


 ……本気だ。こいつは本気だ。

 「殺す」という言葉を無闇に使うなという忠告。それが逆に、これからこいつが本当に人を殺そうとして、尚且つその後も人を殺し続けようとしていることを物語っている。

 そして次に、こいつは俺を脅すのではなく俺を歓迎すると言った。つまりこう言いたいのだ。


「素直に協力するのであれば、お前の命は保証してやる」


 俺を脅して従わせるのではなく、希望を与えて従わせる。

 言うことを聞かなければ殺すと言わずに、言うことを聞いていれば助けると言う。


 つまり、こいつの中では人を殺すという選択肢はそこまで特別なものではない。逆に、自分の行いを知っているのに殺さないという選択肢が特別なんだ。


 それを理解したとき、自分の体が極寒の湖に浮かぶ薄氷の上にあるかのように感じられた。少しでも選択を誤れば、氷はたやすく割れ、俺は湖に沈んで絶対に助からない。そして……


「……くふふ、香車くん。なんというか、久しぶりに『君』に会った気がするよ」


 その絶対に助からない状況を喜んでいるこの女も本気だ。本気で今からこいつに殺されようとしている。

 ……俺はとんでもない奴らと関わってしまったのかもしれない。

 だが、不思議と後悔は無い。どうせあのまま生きていても、俺の人生には何も無かったのだから。


「さて、ここは人が多いし、場所を移そうか」


 柏の提案で俺たちは図書館から離れ、人気の無い場所に移ることにした。



 ※※※



 俺は××駅にいた黛、そしてもう一人の女、樫添と合流し、今後の行動を話し合っていた。


「……恐らく棗香車は、すぐにはエミを殺さない。人目につかない場所や状況を選んで準備をするはず。でも、エミと長船が長い間帰らなければ、その長船の両親が心配して探し出すはず。棗もそれをわかっている。時間が無いのは向こうも一緒。そう遠くへ行っている暇は無いわ」


 黛が、今回の事態を香車が主導しているように考えているのが癪に触ったが、今はそんなことを考えている時間はない。こいつの言うとおり、香車たちと柏が長時間移動すれば、それだけ他人に見られるリスクが大きくなるし、さらに柏は香車の今後にも拘っているふしがある。香車が今までの日常を捨てなければならない計画を良しとしないだろう。さらに道秀さんが何日も家に戻らなければ彼の両親が探し出す。

 つまり、柏と道秀さんの両方に、この近くで事を起こさなければならない理由がある。


「とりあえず、手分けして人気のない場所を探すしか……」

「ダメだ、向こうには道秀さんがいる。俺ならまだしも、もしお前たちのどちらかが香車たちを見つけても、殺人を止めることは出来ない。俺や警察に連絡しても間に合わないだろう。三人だ。この三人で行動して、香車たちを見つけだす必要がある」

「……っ、それだと間に合わない!」

「いいか黛、俺たちの目的は香車たちを見つけることじゃない。俺は香車を、お前たちは柏を救い出すために動いている。目的を見失うな」

「黛センパイ、私も柳端に賛成です。もし私が柏ちゃんたちを見つけても、男二人には敵わない。下手をすれば、犠牲者は柏ちゃんだけじゃ済まなくなる」

「……なら、どうすれば!」


 黛が叫ぶが、俺も叫びたかった。はっきり言って、打つ手がない。手がかりがない。

 これほどまでに厄介だとは思わなかった。

 もし、柏が香車と道秀さんに無理矢理連れ去られたのであれば、彼らの行動範囲はかなり狭まる。なにせ免許も持っていない中高生だ、女一人連れ去るのも至難の業だろう。だが、柏は自分から香車に合流している。


自分から、殺されに行っている。


 柏の抵抗が無いだけで、彼らの行動範囲は大きく広がるのだ。

 殺人の被害者が加害者に協力している。いや、被害者が主導する殺人がこれほどまでに阻止しづらいものだとは思わなかった。


 ……くそっ! ここまでなのか!?

 このまま、柏の思い通りになってしまうのか? 香車が殺人犯になってしまうのか?


「……待って、長船? 長船道秀?」


 なぜかこのタイミングで道秀さんの名前を出したのは、樫添だった。


「なんだ? 道秀さんがどうした?」

「……どこかで聞いたような名前だとは思っていたの。その長船って男。そいつが関わっているとしたら、殺害場所にはあそこを提案するかもしれない」

「なに!? 何か心当たりがあるのか!?」


 何でもいい! とにかく行動を起こすしかない!


「樫添! それはどこだ!?」

「……おそらくは」



 ※※※



「M高の屋上だ」


 路線バスを乗り継ぎ、××町からM高に向かっていた私は、さきほどの長船くんの提案を思い出していた。


「ほう、君がM高の生徒だったとはね」

 

 彼が同じ高校に通う上級生だったことは多少驚いたが、提案した場所にはもっと驚いた。

 彼はM高にある、ほとんど活動してない無線部の部長を務めていたそうだ。そして電波状況がいい場所を使いたいということで、教師から屋上の使用許可を得ていた。そのまま、屋上のカギを私物化してしまい、教師も彼にカギを渡したことを忘れていたそうだ。

 彼が屋上に入れる経緯はともかく、確かに学校の屋上となれば、邪魔も入らず目撃者もいないだろう。しかし……


「屋上に行くまではどうするのかね?」


 そう、今日は平日であり、学校には生徒たちが大勢いる。

 M高の生徒である私や長船くんはともかく、肝心の香車くんがいるのは不自然だ。さらに、事が終わったあと私の死体を処分するのも難しいだろう。彼が提案した場所は、あくまで香車くんが殺害する瞬間を見られにくいというだけだ。


「正直言って、決行の場所に向いているとは思わないな」


 まあ、そもそも獲物である私が死んだあとの心配をするのも筋違いな気もするが、私としては、香車くんにはこれからも日常を守りながら「狩り」を続けてもらいたい。香車くんが私を殺してそれで終わり、というわけにはいかないのだ。

 だから、私は他の場所を提案しようとしたが、長船くんがそれを遮った。


「あくまで素人考えだが……今のあんたたちじゃ完全に疑われないようにさ……実行するのは無理だ」

「……何が言いたいのだね?」

「そこの……棗といったか? そいつはまだ中学生だ。免許も持っていないし行動範囲も狭い。電車で遠くに行ったとしても、あんたたち二人が一緒にいるところを駅のカメラで捉えられて、棗は疑われるだろう。まして、今日決行するとなれば、場所の候補はさらに少なくなる」

「しかし、今日でなければ私は柳端くんの手で遠くの町に追放されてしまうだろう」

「そうだ。だから今日の状況を利用する」

「状況?」

「……事件が起これば、犯人がいる。警察が犯人を捕まえなければ、その事件は解決しない。逆に言えば、犯人さえ捕まれば事件は解決し、それ以上の追及はない」

「……なるほど、君はこう言いたいのかね?」


 私の思い通りだとすれば……


「自分が全ての罪を被ると」


 彼は自分の日常にさして執着がないのかもしれない。


「……あんたは昨日俺の家に泊まり、今朝俺と共に姿を消した。今日、事件が起これば、明らかに怪しいのは俺だ。さらに、俺が利用許可を得ている屋上を現場にすることで、俺への疑いをより強固にする」

「なるほど。だからそれを持ってきたのだね?」


 私は長船くんの鞄を見る。その中には、昨日私を縛っていた縄を切った、彼の家の包丁が入っている。


「そうだ。俺が犯人という要因がこれだけ揃っていれば、棗は疑われにくい。これなら……」

「ひとついいですか?」


 香車くんが長船くんに問いかける。



「あなたが罪を被ることを決めた理由を聞かせてください」



 ……この質問はある種当然ともいえるものだ。

 香車くんと長船くんは今日出会ったばかりの二人。そんな間柄で、罪を被る理由はない。

 しかし、香車くんはその理由自体にはさして興味はないのだろう。問題は、彼にとって長船くんが利用できる人間かどうかだ。


「……俺は今まで無為な日々を過ごしてきた。そしてこのまま行けば、これからも無為な日々が続くだろう。だが、今の俺に転機が訪れているのを感じる。お前たちと関わったことで……俺の人生を特別なものに出来るかもしれないんだ。たとえそれが殺人犯だという形だとしても」


 香車くんは、長船くんの言葉を黙って聞いていたが、一回頷いたあとに彼の言葉に応えた。


「お気持ちはわかります……僕も似たものを感じていましたから。いいでしょう。あなたを信用しましょう」

「本当か? それはよかっ……」


「今はね」


「……っ」


 ……さすがだ。

 あくまで自分の障害になる可能性のある者には気を緩めない。おそらく、それは私に対してもそうだろう。

 私が再三彼の手にかかることを望んでいることを伝えても、彼は私が最後の最後で抵抗する可能性を考慮している。


 だからこそ、私は彼を「狩る側」と認めたのだ。


 どんなに抵抗したとしても、彼の前では無意味。

 どんなに逃げ道を探したとしても、彼の前では無意味。

 どんなに媚びたとしても、彼の前では無意味。


 ……まさに理想的だ。


 内心の歓喜を表に出さないようにしながら、私はバスの外に見えてきたM高の校舎を眺めていた。あれが私の死に場所となるのか。


 

 ※※※



「M高の屋上だと!?」


 目の前の男、柳端が驚きの声をあげる。

 それはそうだろう。まさか学校内で人殺しをするなんて私も思わない。だが、それでもその長船という男がそこを使う可能性はあった。


「どういうことなの? 樫添さん」

「……以前、有紗が生きていたときに聞きました。彼女は生徒会に入っていたんですけど、その縁で無線部の部長である長船という三年生と関わったって」

「道秀さんはM高の生徒だったのか? まあいい、それで?」

「長船はその役職を利用して屋上の利用許可をとったんです。ただ、噂だと長船は屋上を私物化していろいろなものを持ち込んでいたとか。もしかしたら、そこに凶器となるものを取りに行っているかもしれません」

「殺害場所にしなくとも、そこに立ち寄る可能性はあるということか……」


 ……正直言って、長船がそこに立ち寄るかどうかは賭けだ。立ち寄ったとしても柏ちゃんと棗は別の場所にいるかもしれない。


「それと、有紗はこうも言っていました。長船は……特別なものになりたがっていたと」

「特別なもの?」

「はい、それが世間から受け入れられるようなものでも排除されるようなものでも、特別な存在になりたいと」


 だから何だと言われればそれまでだ。

 でも私は……有紗がくれた情報を無視したくは無かった。これは私のわがままだ。だけど、柏ちゃんは私に有紗と向きあわさせてくれた。


 だから、私と有紗で彼女を救いたい。


「何の確証もないわ。でも、それでも何もしないよりはエミを助けられるかもしれない」


 黛センパイは意を決したように言った。


「行きましょう、M高に!」



 ※※※



 俺たちは意外なまでに、すんなりとM高の屋上に棗を連れて行くことが出来た。

 というのも、目的の屋上がある校舎は校門のすぐ近くにあるということ。加えて公立であるからか、うちの学校には特に守衛なども常駐しておらず、誰かに学校に入るところを見られるということもなかった。

 授業中であるため、廊下には生徒も教師もおらず、一階の廊下を通る時に注意していれば、あとは階段を上がれば目的の屋上に着くことが出来た。

 屋上のドアの前には、俺が持ち込んださまざまな私物が置かれている。一応、家から包丁を持ってきたが、この私物の中にある工業用のハサミなども使えるだろう。

 俺は持ってきた屋上のカギでドアを開ける。カギが変えられているということもなかった。


 久しぶりに来た屋上は、特に変化があるわけでもなかった。


 俺が持ち込んだ椅子やテーブル。かつてここで食事したときのゴミなどもそのままだ。本来開放されている場所ではないためか、この屋上にはフェンスもなければ柵もない。4階建てであるこの校舎の屋上から飛び降りて無事というわけにはいかないだろう。つまり……


「なるほど、これは逃げ場が無いね」


 屋上を見た柏が、微笑を崩さずに言う。

 ……本当にこいつはわかっているのだろうか、これから自分が死ぬということが。俺には、どうしても不思議なことがあった。


「なあ柏、あんたは怖くないのか?」

「急にどうしたのだね?」


 俺は屋上のドアから離れずに俺から受け取った凶器を見ている棗から離れ、小声で柏に問いかけた。


「いや……だって、死ぬんだぞ? 他の誰でもない、あんたが死ぬんだぞ? 未練とか無いのか? こんなことで人生が終わってしまっていいのかよ?」


 昨日聞かされた、柏の思想。この女が他人に殺されたがっているのはわかったが、彼女にもこれまで生きてきた人生があったはずだ。それを全て捨ててまで殺されたい理由があるのか。


「怖くないわけがないだろう?」


 俺の質問に対し、柏は当然のように言ってのけた。


「……え?」

「何を驚いているのだね? これから殺されるんだ、怖いに決まっている」

「……全然、そんなふうには見えなかったが。なら、何でこんなことをしているんだ? 死にたくないなら、はじめから……」

「ふむ、あまり説明に時間をかけていられないが、つまりだね」


 そして、次にこいつが言った言葉は、


「殺されるというのは、究極の屈伏だ」


 こいつの思想を象徴するものだった。


「他人に殺されれば、私の思想も未来も感情も幸福も全てその相手によって潰される。当然、私が香車くんに狩られたいという願望も、死に対する多少の恐怖も、全てだ。だが、私を殺す者に躊躇いがあったり、私に強い拘りがあったり、私の遺志を継ぐつもりがあると話が変わってくる。それらがあると、私の死がその相手に影響を及ぼす可能性がある。だから私は狩る側の存在を探した。完全に私のことを潰してくれる存在を、それが香車くんだ」

「……あいつが、あんたを潰す?」

「そうだ。彼は私の思想に一切の興味がない。獲物の一人、それ以上の認識はない。私が恐怖を抱いていようと、悦びを抱いていようと関係ない。私の命を容赦なく奪い、その上で自分の安全を確保することしか考えていない。彼に殺されれば、私の築き上げたものは全て蹂躙される」


 ……なんとなくわかってきた。こいつらの関係性が。


「私は全てを彼に捧げて、支配されたい」


 こいつらの関係は異常なまでに、一方的だ。


 柏にとっては、これから起きる出来事は人生の一大イベントだ。当然だ、ここで死ぬわけだから。

 だが、棗にとっては違う。あいつにとっては、これから始める趣味に似た楽しみの一つでしかない。


 言うなれば、新作のゲームをプレイするぐらいの認識なのだろう。


 柏もそれがわかっている。自分が棗にとって、さして特別な存在ではないことがわかっている。その上で、他ならぬ棗に支配されたいと考えている。自分が多少なりとも恐怖を感じているというのに、それでも棗に全てを捧げたいと思っている。


 そしておそらく、それらの思いは全て、棗には届いていない。というより、どうでもいいのかもしれない。


 柏がここまで棗の事を想い、あいつの今後も考慮しているというのに、棗はそれでも容赦なく柏を殺す。

 決して柏の願望を叶えるためではない。自らの快楽のためだ。

 柏がどんな思想を抱いていようと関係ない。ただ、殺す。


「柏さん、とりあえず凶器が決まったので、始めましょうか。あっちの、屋上の隅に立ってもらえます?」

「……わかった。さて長船くん、話はこれで終わりだ。あとは頼んだよ」


 柏を逃げ場の無い場所に立たせた棗は、特に緊張している様子もなく手袋をはめた手で包丁を握る。

 ……本当にこいつは、柏という人間自体には興味が無いのだ。ただ、狩りやすい獲物。それだけの認識。


「長船さん、僕の視界に入る場所に立っていてください。あと、柏さんからはある程度離れてください」

「……ああ」


 俺を確認できて、なおかつ俺が柏を助けられないくらいの位置に立たせる。

 この状況においても、こいつは俺も柏も完全には信用していない。

 ……俺はこれからこいつの罪を被る。

 こんな異常な関係である二人に関わったおかげで、俺の人生は大きく変わる。

 これで、これでよかったのだろうか?

 いや、今更後戻りは出来ない。というより、戻ったところで俺には何もない。



「エミ!」



 そんなことを考えていると、屋上のドアが開くと同時に女の声が辺りに響いた。


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