【1年前 11月2日 午後3時45分】
『スタジオ唐沢』に通い始めてから一年が経った。
高校受験が迫っていたものの、第一志望であるM高校に受かる自信はあったし、内申点も十分足りている。学校では紅林鈴蘭として、『スタジオ唐沢』では紅蘭としての人生を送ることで、私の生活には随分と余裕ができた。紅蘭として学校のヤツらをこっそり動かすことで、私に無理をさせるヤツらは全て排除した。だから私は中学三年の秋になっても『スタジオ唐沢』に通い続けていた。
だってここなら、わたしは紅蘭でいられるんだもん。
「こんにちは~」
「やあいらっしゃい、紅蘭ちゃん」
「こんにちは、紅蘭ちゃん」
今日は唐沢先生の他に、一ヶ月前に入ってきた生徒である弓長波瑠樹さんもいた。M高校の一年生なので、私からすれば年上だ。
「紅蘭ちゃんもここに来て一年くらい経ったけど、すっかり『妹』が様になってるじゃないか」
「唐沢先生のおかげです」
「はは、君が自分の『役割』を見つけられたなら何よりだ。それでねえ、ひとつ私の頼みも聞いてくれるかな?」
「頼みですか?」
「波瑠樹に踏ん切りをつけてやってほしいんだ」
どういう意味かを聞き返す前に、教室の扉が乱暴に開かれて知らない男の人が入ってきた。
「おい、波瑠樹!」
「え、あ、に、兄さん……?」
「お前どういうつもりだよ? いつの間に演劇教室になんて通い始めたんだよ?」
「あ、いや、その、これは……」
「僕への当てつけのつもりか? ああ!?」
いきなり入ってきて騒ぎ始める姿を見て『なんだコイツ』と言いそうになったけど、相手は見たところ私より年上だし、下手に突っかかるのもまずいと思ったから様子を見ることにした。
「まあまあ抑えてくださいよ、波瑠樹のお兄さんですよね?」
「そうですよ、弓長竜樹と申します。弟が変な習い事始めたって言うから連れ戻しに来たんです。兄弟間の話に口出さないでもらえますか?」
「そうは言ってもねえ、ここは私の教室ですよ。この中で揉め事を起こされちゃ、口を出さないわけにいかんでしょう」
「だったら、コイツはもう連れ帰りますよ。それならいいでしょ?」
竜樹と名乗った男性は波瑠樹さんの腕を引っぱった。その時、唐沢先生の視線が私に向く。なるほど、コイツをなんとかしろってことか。
意を汲んだ直後に、わたしの思考や仕草が急速に『紅蘭』になる。
「ねえお兄さん。そんなに怒らないでください」
「なんだよ君は? ここの生徒か?」
「紅蘭っていいます。あの、波瑠樹さんが何か迷惑をかけたのなら、わたしが話を聞きますよ。ちょっと相談したいこともありますし」
「相談?」
「はい、その、ちょっとここでは話しにくいんですけど……」
そう言いながら、気まずそうに波瑠樹さんに目を向ける仕草をすると、竜樹はすぐに釣れた。
「……わかった。じゃあ外で話すよ」
「はい、あの、唐沢先生。また後で来ますよ」
「行っておいで。じゃあ波瑠樹は稽古を始めようか」
唐沢先生は笑顔を向けて私たちを送り出した。さて、この人はどんな『お兄ちゃん』になってくれるかな?
【1年前 11月2日 午後4時02分】
「それで、相談って?」
近くのファーストフード店に入って席に着くと、竜樹はさっきとは打って変わって優しく声をかけてきた。こうも露骨に態度を変えてくると、こっちも嬉しくなる。わたしの見た目や仕草が、竜樹を『お兄ちゃん』に作り変えていく実感がある。
「あの……波瑠樹さんのことなんですけど……」
「は? アイツがどうかしたの?」
波瑠樹さんの名前を出すと、今度はあからさまに不機嫌になった。さっきのやり取りを見る限り、兄弟仲は悪いというより竜樹が波瑠樹さんを一方的に嫌ってるんだろう。だったらコイツを『お兄ちゃん』にする方法はひとつだ。
「じ、実はわたし、波瑠樹さんにいじめられてて……」
「……なんだって?」
「こ、こんなこといきなり言われたらびっくりしますよね? だ、だけどその、劇の練習っていう名目で何度もぶたれたりして、わたし、怖くて……」
「おいおい、マジかよ波瑠樹のヤツ……最低だな」
肩を震わせるわたしに対して、竜樹は何の断りもなく肩に手を置いて優しく声をかけてくる。
「そうか、よく言ってくれたね。つまり波瑠樹が君に乱暴するのを止めてほしいんだろ?」
「……お願い、できますか? わたし、他に頼れる人がいないんです」
「そうだよな。さっきのオッサンより、僕の方が波瑠樹に注意できるもんな。わかったよ」
優しい言葉をかけてくるけど、その言葉が向けられているのはわたしじゃなくて竜樹自身なのは明らかだ。
『コイツを守れるのは自分しかいない』と言わんばかりの陶酔した顔を見れば、そんなの誰だってわかる。
「じゃあその、連絡先も交換できますか?」
「うん、何かあったらまた連絡して」
「……あの、わたしって上に兄弟がいなくって……竜樹さんみたいに頼れる人がほしかったんです」
「え?」
「……もしよかったら、『お兄ちゃん』って呼んでいいですか?」
上目遣いで言ったその言葉で、竜樹は落ちた。
「……ああ! なんでも言ってくれ! 波瑠樹なんかぶっ飛ばしてやるよ!」
【1年前 11月8日 午後5時10分】
この日も『スタジオ唐沢』に行くと、唐沢先生がにこやかに声をかけてきた。
「やあ紅蘭ちゃん、こんにちは。竜樹くんの方は上手くやってくれたみたいだね」
先生の言う通り、この一週間で竜樹はもうわたしの思い通りに動くようになった。わたしのために動き、わたしの頼みを聞いてくれる『お兄ちゃん』になってくれた。
そしてわたしが誘導した通り、竜樹は波瑠樹さんを殴り、波瑠樹さんからはどんどん感情が無くなっていった。
「波瑠樹は誰かを嫌うのが苦手みたいでねえ。特に兄の竜樹くんを嫌えないから、演じられる役割に制限をかけてしまってたんだよね。でもこれで、波瑠樹も『絶望』に浸って、どんな役割も演じられるようになれそうだ」
「こちらこそありがとうございます。わたしも新たな自分になれて感謝してますよ」
唐沢先生には感謝してもしきれない。紅蘭としての魅力で他人を思いのままに動かすことがこんなに楽しく、私を救ってくれるものだと教えてくれたのだから。
「ところで紅蘭ちゃんはM高校を受験するんだよね? もしよかったら、私の個人的なお願いを聞いてくれるかな?」
「お願いですか?」
「M高校に入学したら、会ってほしい子がいるんだよ。その子のことも、『スタジオ唐沢』に迎えられたらって思ってるんだ。君にとってもいい話だと思うよ。だってその子は、他人に頼られたくて仕方のない子だからね」
つまりはわたしのために動いてくれる『お兄ちゃん』にふさわしい人ってことか。確かに興味はある。
「いいですよ。その人の名前はなんていうんですか?」
「柳端幸四郎くんっていってね、波瑠樹のひとつ上の学年だね。もし彼がここに来てくれたら、いろいろと協力してもらいたいこともあるんだよ。だから紅蘭ちゃんには是非とも彼を連れて来てもらいたいんだ」
「協力してもらいたいことって?」
「……私がこの世界で最も尊敬する人に、恩返しするための準備だよ」
【7月5日 午後5時05分】
……ああそうだ。わたしは『弱さ』を手に入れた。だから幸四郎お兄ちゃんのことも意のままに動かせるって、竜樹のように『お兄ちゃん』としてわたしが頼れる相手に仕立て上げたんだと思ってた。
だけど幸四郎お兄ちゃんはわたしの考えなんてお見通しで、わたしの全ての強さはお兄ちゃんに通用しなかった。
あれ? わたし、今どこにいるんだろう。だんだん痛みが戻ってくる。ちょっとずつ体に感覚が戻ってくる。どこか柔らかいところに横たわってて、目を開けてみると白い天井があって……
「……え、あ、どこ、ここ?」
「目が覚めたか、紅林」
顔を横に倒すと、こちらを心配そうに覗き込んでいた幸四郎お兄ちゃん……いや、柳端先輩と目が合った。
「まだ身体は痛むか?」
「え? あ、まあ、いっつ……」
指摘されたことで、蹴られた頭にまだ痛みが残っていることに気づく。でも、予想したほどの痛みはないし、身体の他の箇所からは痛みはない。身体を起こそうと思ったら、問題なく動いた。
改めて自分の状況を確認すると、どこかの部屋のベッドに横たわっていたようだ。一人暮らし用の部屋で、ところどころ散らかっている。ベッドの横には柳端先輩と、その後ろで無表情で私を見る綾小路が座っていた。床には私がさっきまで被っていた金髪のウイッグが置かれている。
いや、この部屋には見覚えがある。確かここは……
「とりあえず身体は動くようだな。もう少し休んで立てるようになったら家に送るぞ」
「は? あ、え? あの、これって?」
「ひとつひとつ説明が必要か? まずここは竜樹さんの部屋だ。生花に蹴られて気を失ったお前をひとまずここに運んで休ませていた」
「……え? な、なんで……」
「あのまま道路に倒れたまま放っておくわけないだろうが」
当然のように言ってるけど、まだ理解が追いついていない。
「それと、綾小路にお礼を言っておけ。地面に倒れる前に綾小路がお前を支えたから、蹴られた箇所以外には痛んでないだろ?」
「え、まあ……それは……」
「アンタ、蹴られる瞬間に身体を逸らしたから思ったほど蹴りが上手く当たらなかったって沢渡さんが言ってたよ。やるじゃん」
「……いや、なんですかこの状況?」
さっきまで敵対していた人たちが、まるで私を気遣うように言葉をかけてくる。なんでこんなことになってるんだ?
「なんですかも何も、お前が気を失ったから介抱した。それ以外にこの状況を説明できるか?」
「そりゃ、そうなんですけど……いや、そうじゃなくて、なんでそうしたのかって聞いてるんですよ!」
「俺は誰でも無条件に助けるほど人間はできちゃいないが、見知った後輩が気を失ったのを見て放っておくほど無関心でもない」
「だから、そうじゃなくて! 私のこと、許せないんじゃないんですか!?」
結局、柳端先輩は私の企みなんて全てお見通しだった。それどころか私は、柳端先輩にことごとく上を行かれて、最後の懇願も無視された。柳端先輩は、私の『お兄ちゃん』にならなかった。
「許せないと思うほどのことをお前にされた覚えはないな」
「いや、おかしいでしょそれ。だって私、先輩をずっと利用してて……」
「そうだな、お前はずっと俺を利用していた。『誰かに頼りたい』と言いながら、誰かを利用することしかしなかった。だからバカなヤツだと思ったよ。それだけだ」
「それだけって……」
「俺が今まで関わってきた女たちに比べれば、お前はまだマトモだし、行動もかわいいレベルだ。こんなことじゃ今さら腹も立たない」
「なんで怒らないんですか? なんでここまでされて、私にそんなこと言えるんですか!?」
「お前が、俺より弱いからだ」
「……!!」
……なんでだ。私は今まで弱くて守られる存在になりたかった。そして柳端先輩は私を弱いと言っている。私が求めていたはずの言葉をかけている。
それなのに、なんでこんなに悔しいんだ。
「……じゃあ、先輩は弱い私をどうするんですか? 『スタジオ唐沢』について何か聞き出すつもりですか?」
「確かにそれも目的だったが、唐沢の目的はもうわかった。お前がまだあそこに通うつもりなら止めはしないが、今日のところは家まで送ってそれで終わりだ」
「なんすかそれ? 私にもう用はないって言うんですか!?」
「俺の方は確かに用はない。だが、お前はどうなんだ?」
「え?」
「お前がこれからも誰かの『妹』になって他人を利用する生き方を選ぶなら止めはしない。ただ、お前がもう一度誰かにちゃんと頼りたいと思っているなら、相談くらいは乗ってやる」
「なんで……なんでそんなこと!」
「『お前の目的は果たしてやる』と、ずっと言っていただろうが」
「あ……!」
いとも簡単にその言葉を出せる姿を見て、思い知った。
……ああ、そうか。『強さ』ってこういうことだったんだ。
結局私は、紅蘭として『弱くてかわいらしい妹』を演じながらも、自分より強い人間がいると思っていなかった。誰かに頼りたいと思いながらも、自分より弱いと思った人間を利用することしかしなかった。
私はずっと、弱かった。
「紅林さん、アンタ貴重な体験してるよ。柳端くんにやさしくしてもらえる女なんて、そんなにいないんだから」
「……どういう意味だ」
「別にー?」
……完敗だ。こんな人に勝てるわけない。私がどんなに手を尽くして策を巡らせても殴りかかっても、この人はその上を行った。この人は私より強かった。
その事実が、私が愚かで弱く小さな存在だと突き付けてくる。誰かに助けられるとか助けられないとかは関係なく、ただただ悔しい。自分が弱いと思い知らされることが、柳端先輩にとっては打ち倒す敵ですらないことが、あまりにも惨めだとしか言えない。
「あ、ああ……う、ぐううううう……!」
それがわかると、自然と両目から涙が溢れる。でも、今の私はぐちゃぐちゃの泣き顔をして、全然かわいくないんだろう。全くかわいらしくない涙声をあげてるんだろう。
「……」
それでも、柳端先輩は黙って私の背中をさすってくれた。
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